リヨンから南フランス
      目 次

1. 概要
2. 第1日 成田空港−リヨン 
3. 第2日 リヨン−ペルージュ 
4. 第3日 オランジュ−ニーム
5. 第4日 ニーム− アヴィニヨン
6. 第5日 セナンク修道院ほか
7. 第6日 メネルブほか
       エクス・アン・プロヴァンス
8. 第7日 ニース
9. 第8日 ヴィルフランシュ・シュール・メール
10 第9日 パリ
11 第10日 オーベール・シュール・オアーズ
12 第11日 パリ−成田空港    


プロヴァンスの入り口、オランジュ
にはローマ時代の古代劇場があ
ります。良い状態で保存されて
います。              

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1. 概要
 0) 名称      「リヨンから南フランスへの旅−美しい小さな村々を訪ねて」
 1) 場所(目的地) リヨン、プロヴァンス、ニース、オーベール・シュール・オアーズ
 2) 期間      2005.5.20〜31
 3) 参加者     SABTECH会員 39名
 4) 交通機関    航空機、観光バス、タクシー、更にパリではメトロ、郊外電車
 5) 訪問地
  (1) リヨン
  (2) ペルージュ
  (3) オランジュ
  (4) ニーム
  (5) アルル
  (6) ボー・デュ・プロヴァンス
  (7) アヴィニヨン
  (8) ルシオン
  (9) セナンク僧院
  (10) ゴルド
  (11) リル・シューラ・ソルグ
  (12) アヴィニオン
  (13) メルブ
  (14) ボニュー
  (15) ルールマラン
  (16) エクス・アン・プロヴァンス
  (17) ヴァルリス
  (18) ジュアン・レ・パン
  (19) アンティーブ岬
  (20) サン・ポール
  (21) ニース
  (22) ヴィルフランシュ・シュール・メール
  (23) サン・ジャン・キャップ・フェラ
  (24) パリ
  (25) オーヴェール・シュール・オアーズ
  (26) パリ

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 6) 特徴
  (1) SABTECH旅行は二回目なので、過半数が前回からの、おなじみでした。
  (2) 同期参加者の二名は画を描き、ほかにも仲間一人が画を描くので、スケッチができました。
  (3) 連泊が多いので、割に楽でした。
 7) 印象に残ったこと
  (1) 天気に恵まれ、暑くて半袖で通しました。
  (2) 二人でパリに戻ってから、オーヴェール・シュール・オアーズに行きました。
  (3) パリは2日だけでしたが、都心に泊まったので、散歩ができました。
  (4) プロヴァンスの町は、いずこも眺めがよく、美しい街でした。
 8) 旅行の概要
 一昨年の「ノルマンデイからブルターニュヘの旅」が楽しかったので、計画が発表されるのを待って直ぐに申し込みました。前回一緒だった岡部氏が二部(地中海クルーズ)のみの参加だったので、同期は山本氏だけでした。
 旅行は「リヨンから南フランスへの旅−美しい小さな村々を訪ねて」で、期間は5月20日(金)〜28日(土)朝(7泊8日)で現地解散です。
 コースは具体的には次の通りです。
 リヨン(2泊) → ニーム(1泊) → アヴィニヨン(2泊) → エクス・アン・プロヴァンス(1泊) → ニース(2泊) → パリ(2泊)
 ニースでの解散以後、山本さんは続いて行われる「地中海クルーズ」に参加し、岡部さはんニースで合流しました。我々はパリに2日だけ滞在し、オーヴェール・シュール・オアーズを日帰りで訪れました。
 参加者は夫婦が16組(32名)、お嬢さんが1名、母娘1組、単身が男3名、女1名の計39名で、これに事務局の林さん、JTBの中村さん、榎さんが加わり42名、更にガイドが現地で加わりました。
 9) 参考図書
  9.1) 地球の歩き方 '04〜'05 南仏プロヴァンスとコート・ダジュール&モナコ (株)ダイアモンド社・ビッグ社
  9.2) プロヴァンス 歴史と印象派の旅 牟田口義郎 佐々木三雄・綾子 熊瀬川紀 新潮社 とんぼの本
  9.3) 地球の歩き方 '03〜'04 フランス (株)ダイアモンド社・ビッグ社
  9.4) 南仏プロヴァンスの12か月 ピーター・メイル著 池 央秋(いけ・ひろあき)訳 河出書房新社 1993年1月22日 初版発行
  9.5) プロヴァンス −碧(あお)い海と碧(あお)い空と…− 田辺 保著 恒星出版株式会社 2003年8月25日 初版発行

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2. 第1日 成田空港−ドゴール空港−リヨン
 我が家は都営地下鉄浅草線の西の始発駅「西馬込」の近くなので、今回も成田空港まで行くのに都営地下鉄を使いました。集合時間は8時半なので6時半に家を出ました。成田空港では今回の旅行社のJTBの方や事務局の林さん、山本夫妻とも会えました。
 JRで事故があり、1時間くらい遅れる人がいるようです。山本夫妻は新宿からバスで1時間位早く着いたようです。
 飛行機の中では「ゴッホの手紙」、アルフォンス・ドーデの「風車小屋だより」を読みました。
 14時間ほど、現地時間の夕方4時頃、パリ郊外のシャルル・ドゴール空港に着きました。関西方面(関西、四国、金沢、九州)からの参加者とは、ドゴール空港で合流したました。約3時間待ち、リヨン行きの国内線に乗り継ぎました。リヨンの空港は、リヨン生まれの作家(「星の皇子さま」など)の名を取り、サン・テクジュベリ空港といいます。夏時間のため夜の10時頃まで外が明るく、市内へのバスの車窓から周りの景色を見ることが出来ました。
 リヨンのホテル(Mercure Saxe Lafayette)はソーン川の左岸にあります。
 部屋割り、明日の予定の伝達のあと各自の部屋に落ち着きました。ドゴール空港の売店で買ったサンドイッチを二人で食べて夕食としました。

3. 第2日 リヨン−ペルージュ−リヨン
 リヨンはパリに次ぐフランス第二の都市で、ローヌ・アルプ地方の中心地です。パリの東南約380kmの所にあり、ソーヌ川とローヌ川が合流するあたりに位置しています。紀元2世紀には、ローマ帝国のガリア(フランス)植民地の首都として栄えていた街です。二つの川に挟まれた地区が新市街で、ソーヌ川の西側(右岸)が旧市街です。町にはバス、電車のほか地下鉄が走っています。
 今日はペルージュ往復のバス旅行があるだけで、あとは自由時間です。
 朝は何人かのメンバーとローヌ川の左岸で開かれている朝市に行きました。色とりどりの野菜や果物など、豊富な食料品を売っていました。ついでに川を渡って裁判所とサン・ジャン大司教教会に寄りました。
 ペルージュはリヨンの東北にあり、バスで約1時間です。ペルージュはローマ人がフランスに侵入するよりも前、イタリアのペルージァから来た人たちが作った小さな村です。14〜15世紀には織物や葡萄酒造りで栄えましたが、18世紀に入ると人々は便利な丘の下に移ってしまい、直径約2百メートルのこの町には中世の街並みだけが残されました。村の中心には広場があり、フランス革命を記念して1792年に植えられた菩提樹が心地よい木陰を作っています。歴史ある村の建物を居心地よく改装したオステリッツ・デュ・ヴイユ・ペルージュで昼食をとりました。焼き菓子ガレットは有名で、デザートに出ました。
 昼食後はバスでリヨンに戻り、バスでフルヴィエールの丘に登りました。ノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ教会を拝観し、続いてリヨンのまちを遠望しました。
 再びバスで新市街の中心のベルクール広場に戻り、ここでバスを降りました。ベルクール広場の西側にはサン・テクジュベリ通りが、広場の南西には彼の銅像があります。広場からはレピュブリック通りが北に延びており、コメディー広場にぶつかります。広場の東にはオペラ座が、西には市庁舎があります。レピュブリック通りとほぼ並行して走っている、エリオット通りを通ってベルクール広場に戻りました。
 リヨンはグルメの街としても有名です。ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)のレストランがあるのですが、リヨンの中心部からは少し(11km)離れていること、値段も高いこと(104〜130ユーロ)から都心にあるポール・ボキューズのビストロで済ますことにしました。ル・シュッドという店で、ベルクール広場から少し離れたローヌ川の近くにあります。味も値段もまずまずでした。
 ホテルに戻ったのが9時頃ですが、未だ明るいので「荷風の下宿」に行ってみることにしました。ただ食事中に降り出した雨が未だ上がっていないので、近くの教会だけを確認して帰ってきました。

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4. 第3日 オランジュ−ニーム
 朝、バスに乗る前に荷風の下宿の確認に行きました。時間が無かったので、場所の確認だけに終わったのが、残念でした。
 今日はほぼ一日バス旅行です。まずオランジュに向かいました。オランジュはプロヴァンスの入り口です。かってローマ帝国の重要な町として栄えました。プロヴァンスには至る所にローマの遺跡が残っていますが、オランジュほど完全な形で残っているものは珍しいとされています。
 古代劇場は旧市街にあり、紀元前一世期末の建造物で、その保存の良さで知られています。石壁の中央にはアウグストゥスの彫像が立っています(この頁冒頭の写真参照)。夏にはオペラなど、野外コンサートが行われ、質も高いようです。
 凱旋門は紀元前20年代の建造です。かってはリヨンとアルルを結んだアグリッパ街道に立っています。南面は破損が激しいのですが、北面はかなりよく保存されています。レリーフはカエサルのガリヤ平定、アウグストスのアクティウムの戦いでの海軍の勝利を描いたとされています。
 今日の二番目の観光はポン・デュ・ガールです。私は3年前にも訪れましたが、家内は初めてです。ニームとアヴィニオンの中間あたり、緑深い谷を流れるガルドン川Gardonに巨大な石の橋がかかっています。ローマ時代にユゼス近くのユールの水源から、ニームに飲料水を送っていたという全長50kmの導水路の一部で、ガルドン川を越えて水を運ぶため、この水道橋が建設されました。高さ48m、全長275mという壮大なもので、最大6トンもある巨石を積み上げて造られています。建築年代については諸説ありますが、最近では1世紀中頃という説が有力です。
 ローマの建築技術には驚くばかりで、ニームとユゼスの高度差は17mしかないのですが、1kmにわずか34cmという微妙な勾配がつけられているとのことです。ローマ人建築家はただ実用的な面だけではなく、建築物そのものの美しさも充分に考慮していたと思われます。三層からなるアーチは、上層ほど小さくなり、単調な印象になるのを避けています。橋自体の大きさ、美しさもさることながら、ガルドン川の水や周囲の緑との調和がすばらしいと思います。前回もそうですが、川では少年が飛び込みや水泳を繰り返していました。遺跡の保存のためか、前には渡れた橋も、両端から眺めるだけに規制されていました。
 今日の宿泊地はニームです。フランスの中のローマと呼ばれ、古代闘技場やメゾン・カレ(方形の館)など町中至る所にローマの遺跡があります。古代闘技場は市庁舎の近くにあり、紀元1世紀の建設当時には、野獣や剣闘士の闘いといった血なまぐさい見せ物が行われていましたが、1853年からは闘牛が行われるようになりました。メゾン・カレは30本の列柱に囲まれ、ローマのアポロン宮殿を模して造られたといわれています。カエサルの二人の孫に捧げられ、紀元5年頃に建造された神殿です。
 フォンテーヌ庭園
 夕方は自由時間で、家内はプティ・トラン(市内観光の小さな電車)に乗り、私は友人二人とホテル近くのフォンテーヌ庭園を散策した後、ホテル前の掘り割りの橋をスケッチしました。
 夕食はホテルのレストランで摂りました。

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5. 第4日 ニーム− アヴィニヨン
 今日は先ずアルルを観光し、レ・ボー・ドゥ・プロヴァンスに寄ってから、アヴィニヨンを訪れます。
 アルルでは、まずゴッホの跳ね橋を見に行きました。この橋は観光用で昔の面影はありません。近くを若い男女が馬にまたがって散策していました。続いて町の中心近くにバスを止め、アルルの名所を見てまわりました。夏の庭園、円形闘技場、古代劇場、レピュブリック広場、サン・トロフィーム教会、ゴッホの「夜のカフェ・テラス」のモデルになった「カフェ・ヴァン・ゴック(ゴッホのフランス読み フォーロム広場)」、エスパス・ヴァン・ゴッホ(ゴッホが入院していた病院を復元したもの)などです。夏の庭園にはゴッホの記念碑が建っています。円形闘技場から少し足を伸ばして、ゴッホが暫くゴーギャンと住み、絵にも描いた黄色い家の跡地(ラマルティーヌ広場)にも行ってみました。
 レ・ボー・ドゥ・プロヴァンスは、アルルの東南、車で約30分のところにあります。かっては中世南フランスで最強を誇り、吟遊詩人も色を添えた、優美な宮廷文化が花開いた町でした。そびえ立つ白い岩山の上に城塞跡が残っており、現在では250人ほどが住む小さな村です(右の写真はレ・ボー・ドゥ・プロヴァンスの城塞跡です)。
 アヴィニヨンはレ・ボー・ドゥ・プロヴァンスの北、車で約1時間の所にあります。アヴィニヨンに着く前に、ローヌ川の対岸から、ベネゼ橋(「橋の上で踊るよおどるよ」の童謡で有名 川の中程までしかありません)や法王庁などを遠望し、写真も撮りました。
 アヴィニヨンのホテルは法王庁のすぐ近くです。城壁が町を取り囲んでおり、バスは近寄れないので、城壁近くの駐車場にバスを止め、城壁に登り、ロシェ・デ・ドン公園から法王庁の横を通り、ホテルまで歩きました。
[法王庁時代のアヴィニヨン]
 1309年、法王クレメンス5世は、宮廷人を従えて、ものものしくアヴィニヨン入りした。ローマにあるべき法王庁がアヴィニヨンにやって来たのには、こんな事情がある。
●第2のバビロン捕囚
 14世紀初頭、ローマ法王庁とフランス王の間では、勢力争いが絶えなかった。そんなとき法王に選ばれたのか、元ボルドーの大司教でフランス人のクレメンス5世。たび重なる抗争に疲れ、フランス王の「庇護」を求めてアヴィニヨンに移ることを決意した。法王庁を思いのままあやつろうとしたフランス王の圧力があったことはいうまでもない。以後1377年までアヴィニヨンで7人の法王−いずれもフランス人−が立つことになつた。
 フランス王の傀儡となった法王庁をイタリア人はねたみ半分で、「第2のバビロン捕囚」と呼んだ。事実この頃の法王庁は、非難を受けても仕方ないほど、政治的腐敗と堕落に満ちていたという。法王庁にこれほどの冨と権力が集中していた時代はかつてなかった。
●もうひとつのローマとなつた町
 アヴィニヨンにとっても、これほどの冨と繁栄を享受した時代はあとにも先にもない。第2のローマとなった町には、法王庁宮殿をはじめとして、教会、修道院などの豪華な建造物が次々と建った。宮廷人たちの華やかな生活が、町に洗練された雰囲気をもたらした。イタリアからは、詩人のペトラルカ、画家のシモーネ・マルティーニをはじめとする文化人が次々とやって来て、アヴィニヨンは文化芸術の面でも、ほかに並び得ない一流の都市となったのである。
 現在も色濃く残る文化と芸術の香り高いアヴィニヨンの町の雰囲気は、この頃培われたものだといっていいだろう。

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6. 第5日 セナンク修道院ほか
 リュベロン地方はピーター・メイル著「南仏プロヴァンスの12か月」で有名になったところで、今日はこの地方の、美しい小さな村々を訪ねました。コースは次の通りです。
 アヴィニヨン → ルシオン → ゴルド → リル・シュル・ラ・ソルグ → セナンク修道院 → アヴィニヨン
 最初はルシオンで油絵の黄色顔料(イエロー・オークル; やや土色がかった黄色)の原料となるオークルの丘の上に築かれた村です。アヴィニヨンの東約40kmのところにあります。オークルはローマ時代から採取されていたそうですが、全盛期は19世紀から20世紀初頭の頃で、ヨーロッパ中にオークルを輸出していました。現在では化学染料に取って代わられたため、ほとんど採取は行われていません。黄色い、またはピンク色の建物が木々の緑に映えて美しい眺めでした。赤いひなげしが、そこかしこに咲き、遠くにリュベロンの山並みが青味がかって、素晴らしい風景でした。
 ゴルドはルシオンの西約10kmの所にあります。丘の上の古城に向かって石造りの家々が階段状に折り重なっている村です。昼食も眺めの良いバスティッド・ドゥ・ゴルドで摂りました(右の写真はゴルドのパノラマ写真です)。
 リル・シュル・ラ・ソルグはゴルドの西約12kmの所にあります。「ソルグ川の島」という町の名が示すとおり、ヴォークリューズの泉から流れ出すソルグ川の五つの支流に囲まれた町です。18世紀の邸宅が建ち並ぶ美しい街並みは、かって織物業で盛んだった町の繁栄を偲ばせます。今でも水車が沢山残っています。アンティークの町としても知られています。
 セナンク修道院は禁欲的な生活で知られる、シトー会修道院で、ゴルドの北西約2kmにあります。1148年の創建で、建物はロマネスク様式です。ラベンダー畑が美しいとされていますが、まだ咲いていませんでした。庭に入ったところで、庭から見た建物をスケッチしました。
 アヴィニヨンに戻ってから、時間があったので法王庁宮殿を見学しました。法王庁宮殿は134〜52年に二人の法王によって建てられ、面積が1万5千平米という広さですが、フランス革命時に家具や調度類が売り飛ばされたり、壊れたりして、宮殿は長く兵舎として使われてきました。そのために見学も簡単に終わってしまいます。

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[リュベロン地方]
 リュベロン地方は、西はカヴァイヨンから、東はマノスクにかけて広がる山地で、大部分が地方自然公園に指定されている。果樹園の広がる広大な谷、点在する古い農家、なかば見捨てられたような石造りの村……。1960年代から、こうした景観に魁せられた芸術家や作家が好んでこの地に住み始めるようになった。最近では金持ちのドイツ人やイギリス人が競って別荘を求める土地でもある。『南仏プロヴァンスの12か月』がベストセラーとなり、世界中にフロヴアンスブームを巻き起こしたピーター・メイルもそのひとりだ。
 最高の季節は春と秋。3月から4月にかけては果樹園の花がいっせいに咲き乱れ、5月には青い山並みを背景に、新緑がさまざまな色のハーモニーを奏でる。10月の静けさに包まれて、フドウ畑や木々の葉が色づく紅葉の頃もすばらしい。

7. 第6日 メネルブほか−エクス・アン・プロヴァンス
今日もまたリュベロン地方の小さな村々を訪ねました。コースは次の通りです。
 アヴィニヨン → メネルブ → ボニュー → ルールマラン  → エクス・アン・プロヴァンス
 メネルブはアヴィニヨンの東南約40kmの所にあります。村は長細い岩山の上に連なっています。美しい邸宅が建ち並ぶ静かな村です。
 ボニューはメネルブの東約10kmの所にあります。芸能人や政治家など多くの有名人が別荘を持っています。山の頂に建つ教会を、石造りの家が二重三重の帯状になって取り囲んでいます。
 「1. 概要」の「9) 参考図書」の「9.4) 南仏プロヴァンスの12か月」の冒頭には、主人公の家は「中世の村メネルブとボニューを結ぶ街道を見降ろす丘陵の、桜の園と葡萄畑を抜けて未舗装道路が尽きるところにその家は建っていた。」とあります。今日訪れたあたりに彼の家はあったわけです。
 ルールマランはボニューの東南約8km離れたところにあります。作家アルベール・カミュが晩年をここで過ごし、村はずれの墓地に埋葬されています。アンリ・ボスコの墓も同じ墓地にあります。
●アンリ・ボスコ
 アンリ・ボスコの小説には、明るく牧歌的なプロヴァンスのイメージとはまったく逆の「プロヴァンスの影」が描かれている。先祖代々の習慣を守り続ける閉鎖的な人々、不思議な夢物語を描き出す旅の人形劇一座、リュベロンの山奥に人工楽園をつくる孤独な老人……主人公の少年と一緒に読者の心も不安と胸騒きでいっぱいになる。『ズホンをはいたロバ』(晶支社)、『シルヴィウス』(新森書房)が代表作。

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 エクス・アン・プロヴァンスはプロヴァンスの首都です。ルールマランの南約30kmの所にあります。前に訪れたときは、セザンヌのアトリエに寄っただけで泊まらなかったので、もう一つ印象が薄かったのですが、今回は町を見て廻ることができました。かってプロヴァンス伯爵領の首都として栄えました。大学と高等法院が置かれています。町には泉や噴水が沢山あります。町に着いてから、希望者だけですが、ミラボー通りを渡って、旧市街や市庁舎などに行きました。
 町に着く前、セザンヌのアトリエを見学しました。近くからは彼の絵によく出てくるサント・ヴィクトアール山が近くの道から眺められます。

●故郷の自然が生涯のテーマ
 セザンヌは1839年1月19日にオペラ通リrue de l'Operaで生まれた。この屋敷の外観は今も変わっていないが、現在は学校になっている。父は銀行家。ミラボー通りの建物のひとつに、かつてセザンヌの父親の店があったことが記されている。
 エクス育ちの作家エミール・ゾラとは少年時代からの親友。青春時代にはふたりで盛んに芸術談義をしたらしい。ミラボー通りのカフェに座って、そんな彼らの若い時代に思いをはせるのもいい。
 事業に成功した父親はエクス郊外のジャズ・ド・ブッファンに別荘を買う。広大な敷地の中、木々に囲まれた屋敷で、セザンヌは何枚かの絵を描いている。
 エクスの法科大学に入学したセザンヌは22歳のとき大学をやめ、パリに出る。画家になる勉強をするためだが、結局パリのカフェで交わされる芸術家のおしゃべりになじめず、自分の絵のテーマとなるべきモチーフも見つからないまま故郷のエクスに戻つて来る。少年時代から親しんだサント・ヴィクトワール山やアルク川などの自然がやはリセザンヌにとって、生涯のテーマだったのだろう。エクスにアトリエを構えた彼は死の直前まで絵筆を持っていた。

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8. 第7日 ニース
 今日、予定しているコースは次の通りです。
 エクス・アン・プロヴァンス → ヴァロリス → ジュアン・レ・パン → アンティーブ → サン・ポール → ニース
 ヴァロリス以下は地中海に面しているので、今回の旅行で初めて紺碧の海を見るわけです。
 ヴァロリスはカンヌの北東にあり、バスで約15分位の所です。町は山の中腹にあります。ヴァロリスで古代から陶芸が盛んなのは、ここの粘土が耐火性の強い調理用の陶器を作るのに適しているからです。ゴルフ・ジュアン(カンヌとヴァロリスの丁度真ん中あたり)に住んでいたピカソは友人夫妻を訪ねました。これが彼に陶芸という新しい対象を発見させるきっかけになりました。1947年以降はここに住むことになります。この町にあるヴァロリス城はジェノヴァの旧家グルマルディ家が中世に建てた邸宅です。国立ピカソ美術館はこの城の中にあります。その礼拝堂にはピカソの壁画「戦争と平和」があります。また町の広場ポール・イスナールには、彫刻「羊を抱く男」のプロンズ像があります。
 カンヌの海岸(今回は寄らなかったが、映画祭で有名な海岸)から左手を眺めると、岬が海に突きだしており、これがアンティーブ岬(Cap d'Antibes)です。アンティーブは岬のニース寄りの付け根にありますが、ジュアン・レ・パンはカンヌ側で、ジュアン湾に面しています。多くの文化人に愛されたリゾート地で、アメリカ人が好んで滞在しました。ここのレ・ペッシェール[漁師]という名前の、海岸に面したレストランで昼食を摂りました。
 アンティーブは、バスの中から見ただけでしたが、ニコラ・ド・スタールはここのアトリエで亡くなりました。1993年、池袋の東武美術館で回顧展があり、見に行きましたが、その時のビラに「地中海の抒情−フランスが生んだ悲劇の天才画家」と書いてあります。グルマルディー城は、中がピカソ美術館になっているようで、ニコラ・ド・スタールの絵も飾ってあるようです。1954年の作品に「風景、アンティーブ」というのがあります。
 サン・ポールはニースまで後約1時間の所にあります。コート・ダジュールには、多くの鷲の巣村がありますが、中でも特に美しい村です。サン・ポール教会やマーグ財団美術館があるようです。村の南側、城塞の外にサン・ポールの墓地があり、シャガールがここで眠っています。墓の上には小石が置かれていますが、これはユダヤ人の習慣のようです。
 ニースは今回の旅行で最後の宿泊地です。コートダジュールの中心で、世界の王侯貴族に愛された「リヴィエラの女王」として知られ、プロムナード・デザングレ[英国人が多かった海岸]などがあります。
 ホテル(ボスコ・ホテル・プラザ)は南側海近く、アルベール一世公園北側[マセナ広場近く]にありました。夕食はホテルの裏通りにあるボッカチオに行きました。地中海料理の店で、海の幸をあしらったスパゲッティーなどを食べました。
●鷲の巣村
 コート・タジュールを旅していると、丘の上に民家が寄り添うように集まる村をいくつも見ることになる。これらは「鷲の巣村」と呼ばれ、コート・タジュールには100を下らない数のこうした村があるといわれている。
 もともとサラセン人(トルコ人、アラブ人、ムーア人を総称した呼称)の攻撃から逃れるため、相手から見えない場所に村を造ったのが始まり。村に入れば、細い通りが迷路のように入り組み、敵が容易に侵入できないような構造になっていることがわかるだろう。
 現在は、中世のたたずまいを残す町並みや、景観のすばらしさが人々を魅了し、村によっては、コート・タジュール有数の観光地となっている。
 「鷲の巣村」には、芸術家や工芸家たちのアトリエが多いのも特徹のひとつ。石畳の通りに面して現代アートの画廊が並んでいても、違和感を感じることはなく、すんなり風景に溶け込んでいるから不思議だ。(未完)

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9. 第8日 ヴィルフランシュ・シュール・メール
 午前中は自由時間です。二階建てのバスが、1時間位の間隔で市内を巡回しています。マティス美術館はシミエ地区(丘の上)にあり、このバスで行きました。ホテルの直ぐ前にあるアルベール1世公園を出発し、海岸を東に向かい、港を抜けて市街東外れのボロン山に登って行きます。ここからはニースの町と港、天使の湾(昨日訪れたアンティーブ岬から今日の午後訪れるフェラ岬までの湾をいいます)を一望に見渡せます。
 マティス美術館は17世紀に建てられたジェノヴァ風邸宅に、アンリ・マティスの作品のほか、家具や装飾品などの遺品も展示されています。鮮やかな赤の外壁と、柔らかいオークルのバルコニーや窓枠の調和が、マティスの繊細で豊かな個性を象徴するようです。躍動感に満ちた切り絵や、表情豊かな色彩の息づく作品の数々を見ていると、マティスの単純化された線や色使いが実はとても雄弁なことがわかります。ジャズをテーマにした作品を見ていると、マティスの聞いた音が本当に聞こえてきそうな気になります。
 ヴァンスのロザリオ礼拝堂を装飾するための習作を集めた部屋は見逃せません。礼拝堂の模型から壁画のデッサン、カラフルな修道服まで、さまざまな展示品を見ることができます。一昨年、SABTECHの旅行でナントを訪れた際に、美術館でニース時代のマチス展をやっていたのを想い出しました。
 マティス美術館の後、シャガール美術館にも行きたかったのですが、今日の午後や、パリ以後の旅行の準備もあったので、次の巡回バスでホテルに戻りました。
 ホテル近くのATMに行き、VISAカードでユーロを引き出そうとしたら、ダメだったのであわてました。幸い円貨を持っていたので、近くの銀行ソシエテ・ジェネラルで両替をしました。帰国してから判ったのですが、たまたま持って行ったカードが作ったばかりで、外貨を出すように設定していなかったので、起きたトラブルでした。
 午後は4時からバスで行動しました。次のようなコースです。
 ニース → ヴィルフランシュ・シュール・メール → サンジャン・キャップ・フェラ(ロスチャイルド財団美術館) → ロイヤル・リヴェラ(さよならパーティー) → ニース
 ヴィルフランシュ・シュール・メールはフェラ岬の付け根にある小さな町で、ニースから東へ10分程の所にあります。のどかな港町で、海にはいくつもの小船が浮かび、入江は鏡のように静かで、ピンク色の家の壁が絵のようです。レストランやカフェの並ぶ港の通りから、一歩路地に入ると、そこは中世そのままの雰囲気が残る旧市街で、トンネルのようなオブスキュール通りは薄暗く、汚れています。コート・ダジュールを愛したジャン・コクトーが滞在したウエルカム・オテルは海に面しており、彼の描いた壁画のあるサン・ピエール礼拝堂も訪れました(右の絵は彼の祭壇画の絵はがきから摂りました)。
 ヴィルフランシュ・シュール・メールの東に見える岬キャップ・フェラは、コート・ダジュールでも屈指の高級別荘地です。ベルエポックの時代から多くの貴族や著名人が競って邸宅を構えました。なかでも群を抜いて豪華なのが、丘にそびえるイタリア・ルネッサンス様式の館、ヴィラ・エフルシ・ド・ロスチルドで20世紀初頭の大財閥に生まれた男爵夫人により、「世界で最も眺めのよい場所」に建てられた館です。西にヴィルフランシュの入江、東にボーリューの「蟻の湾」を見下ろす眺望はコート・ダジュールでも群を抜いたすばらしさです。庭には噴水のある池や、南国風に植木を配した植え込みが見られます。庭を散策した後、ティー・サロンでアフタヌーン・ティーを楽しみました。
 同じ岬にある素晴らしいホテル「ロイアル・リヴェラ」のテラス・レストラン「ペルゴラ」で「さよならディナー」がありました。たまたまスケッチ仲間の吉富先生と、席が隣り合わせだったので、油絵の材料などで話題が盛り上がりました。先生は最近、油絵を始められたそうです。

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10 第9日 パリ
 ニースのホテルで第二部の参加者と別れ、第一部のみの参加者のほとんど(帰国組、個人旅行双方)と、バスで空港に向かいました。バリのシャルル・ド・ゴール空港までは約1時間半です。空港で他の人たちと別れ、タクシーでパンテオンの近くにあるホテルに向かいました。サンルイ島で二泊を希望したのですが、宿が取れないとのことで近くのホテルとしてヴィラ・パンテオン(カルチエ・ラタンのエコール通り)を選びました。二年振りのパリなので、ホテルに荷物を預け、パンテオンなどホテルの近くを散策しました。近くのカフェで軽く昼食を済ませ、地下鉄でモーベール・ミューチュアリテからピラミッドまで行き、本屋の有隣堂(オペラ通り)の近くにあるJTBを訪れました。明日、オーベール・シュール・オアーズに行くため、近郊電車の時刻表を調べました。北駅から一度の乗換で行けること、電車は1時間に一本程度あることなどがわかりました。帰ってきてから調べたのですが、今はインターネットがあるので、日本にいながら時刻表が判ります。http://voyages-sncf.comを呼び出し、発駅(Gare du Nord Surface)と着駅(Auvers sur Oise)を指定し、出発日と希望時間を指定すると、8:40 9:32 10:32などの出発時刻が表示され、更に乗換駅の到着・発車時間、着駅の到着時刻も表示されます。ただホームページには電車の終着駅は出ていないので、別途路線図等で調べる必要があります。
 明日は日曜なのでデパートは休みです。オペラまでは地下鉄で一駅程度なので、歩いてオペラまで行き、お土産を買うために三越・高島屋・松阪屋を訪れました。日本でも同じですが、デパートでの買い物は疲れます。外国では売場がわかりにくいので、なおさらです。
 夕方地下鉄でホテルに戻り、カルチエ・ラタンの小さな中華料理屋で夕食を済ませました。

11 第10日 オーベール・シュール・オアーズ
 今日はオーベール・シュール・オアーズに行く日です。この町は、安野光雅さんの「風景を描く」というテレビ番組の最初に出て来た町です。というより、ゴッホが亡くなる前の二ヶ月を過ごした場所といった方がよいでしょう。
 帰りが遅くなるといけないので、朝一番でサンルイ島のホテルへタクシーで移動しました。サンルイ島のジュー・ド・ポームというホテルです。荷物をフロントに預け、近くにあるメトロのポン・マリー駅から、一回乗換で北駅に着きました。北駅は名前の通りリールなどのノール・ウーロップ(北部・ヨーロッパ線)の発着駅であるとともに、近郊電車の発着駅でもあります。北駅(Gare Nord)はメトロの駅名で、SNCF(フランス国鉄)ではParis Nordと云っているようです。ホームで日本人女性の二人連れ[母・娘]を見かけました。オーベール・シュール・オアーズで再会したのですが、今夜、日本に帰る前に駆け足で見て歩くそうです。何番線から電車が出るかは、ホームにあるモニターを見ないと判らないのには、面くらいました。ポントワーズ行きに乗り、終点の一つ手前のサン・トアン・ローモン(ST OUEN LAUMONE)でペルサン・ボーモン行きに乗り換え、オーベール・シュール・オアーズで降ります。オーベール・シュール・オアーズはパリの北西約30kmの所にあり、ポントワーズでセーヌ川と合流するオワーズ川に面しています。

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 案内書に載っているコースを歩き出し、まずノートルダム寺院(右下の写真)に向かいました。ここはゴッホが描いた教会で、彼の絵では、少し病的に歪んでいます。今から10年ほど前にあった安野さんの「風景を描く」というテレビ講座も、この教会から始まっています。北駅で会った母娘とも、ここで、また会いました。次に広々とした畑を通ってゴッホ兄弟[ヴィンセントとテオ(テオドール)]が眠る墓地に向かいました。この畑は安野さんが絶賛するゴッホの「烏の群れ飛ぶ麦畑」に描かれているような風景です。墓地には兄弟の墓が寄り添うように立っていました。
 あとはオーベールの城、ガシェ医師の家、オアーズ河畔などに行きました。ゴッホもスケッチに来たであろうこれらの地を訪ねたのはよかったのですが、ノートルダム寺院に戻ってスケッチする時間が無くなりました。あとは今朝着いたオーベール・シュール・オアーズの駅の近くに戻って、ゴッホの絵で有名な村役場や、ゴッホの住んでいた家(ラヴー亭[AUBERGE RAVOUX]これもゴッホの絵で有名 1階にレストランがあり、二階に彼の部屋を再現したらしい)も見学しました。一坪ほどの屋根裏部屋で、粗末なベッドの他は何もなく、あまりに質素なのに驚きました。この裏には観光案内所もあります。少し駅の方に寄ったところに、ゴッホ公園があり、ザッキンの作ったゴッホ像が立っています。ここでまた若い日本人女性と外人の二人連れに会いました。近くのレストランで遅い昼食を摂り、オーベール・シュール・オアーズ駅で帰りの電車の時間を確認し、駅前の喫茶店で休憩しました。帰りは往きと逆コースで北駅経由、メトロでポン・マリーからホテルに戻りました。今夜はフランス旅行での最後の夜なので、ホテル近くのレストランでのコース料理を摂りました。
 ホテルをサンルイ島(セーヌ川の中州にある島)に決めたのは、饗庭(あえば)孝男さんの本に「都心でありながら静かで、朝夕の散策にもよい」などと書いてあったからです。
 またホテル名の「ジュー・ド・ポーム」というのはテニスに近い室内競技のコートがあったからで、改装してホテルにしたようです。

12 第11日 パリ−成田空港
 今日は東京に帰る日です。ホテルが朝食付きではなかったので、久しぶりにカフェで朝食をとりました。シテ島とをつなぐサンルイ橋近くのカフェです。朝食の後、シャルル・ド・ゴール空港に行くには、未だ間があるので、シテ島を散策しました。島は小さいので、時計回りに歩くことにしました。ノートルダム寺院の横を抜けて、オルフェーブル河岸に出ました。ここに警視庁があるので、ジョルジュ・シムノンのメグレ刑事には、良く出てくる場所です。ポン・ヌフ近くの銅像の所から引き返しました。コンシエルジュリーを外から眺め、花・小鳥の市場を通って、再びノートルダム寺院に戻り、ちょっとだけ中に入りました。ホテルに戻り、タクシーでシャルル・ド・ゴール空港に向かいました
 

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[Last Updated 8/31/2005]