フランス留学

 当時勤めていた会社がフランスの通信機器メーカーC.I.T.(コンパニー・アンドュスティエル・デ・テレコミュニカション)と技術提携し、技術者の交流も盛んでした。私は技術者なので大学での第二外国語はドイツ語でしたが、会社でフランス語会話を教えていたので、私も受講しました。
 他方、フランス政府による技術留学生の制度があり、受験したところ合格したのでフランスに行くことができました。最初の約2ヶ月はプレスタージュとして語学研修のためブザンソン(パリの東南約400kmに位置する)に滞在しました。 その後パリに戻り、C.I.T.で搬送電信等を約6ヶ月勉強しました。最後にマルセーユ等を見学旅行した後帰国しました。
 次のオテル・スフローに関する記事は、留学生仲間の山本氏が社内誌に掲載した記事と、岡部氏がクラブ会報に掲載した記事で、私も同じホテルに宿泊しており、懐かしい想い出です。
 なおフランス政府による技術留学生のOBで組織するSABTECH(Societe des Anciens Boursiers de Cooperation Technique du Gouvernement Francais)があり、毎年フランスに技術留学生を派遣するとともに、フランスからも留学生を受け入れています。

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  (写真はオテル・スフロー)
    目 次

1. 住居のこと
 パリで暫く同じホテルにいた山本さんが、ホテルの想い出を留学直後にしたためました。
2. ホテル・スフローの思い出
 同じホテルにいた岡部さんが、ホテルの想い出を最近記したものです。
3. ブザンソンの想い出
 SABTECHが創立50周年を記念して「憧れのフランスに技術留学して」を作成し、そこに載せたものです。

1. 「住居のこと」 山本 弘氏
 パリの町は古い。建物がくすぶって皆黒くなっており、町全体がいぶし銀のように落着いている。全して市民がアパート生活者であり、市内には独立家屋が一軒もない。庭のある一軒の家を郊外に持っている人は余程のブルジョア階級である。道は完全に舗装されており、石造りの建物は冷たさを感じさせる。今日パリの住宅問題は東京以上に深刻であり、結婚した若夫婦などにとって、良いアパートを見つけることは至難のことらしい。外国から来た留学生も条件の良いホテルや下宿屋を探すのに厳命になるが、幸い私はカルチエラタンの学生街に安いホテルを見つけることができた。ソルポソヌ大学も歩いて一、二分の所にあり、有名なリュクサンブールの公園もすぐ近くであった。最初に居たのはスフローというホテルであり、一日、七百円の一つ星のホテルであった。フラソスのホテルは四つ星から一つ星までの星の数で格ずけされており、星の数が入口に標示されているので便利である。普通の旅行者が泊る三つ星か四つ星のホテルで一泊三千円〜四千円であり、これ以上の、デラックスホテルはきりがない。ホテルスフローは昔、与謝野晶子が泊っていたといわれ、マダムも日本人びいきだったため居心地が良かったが、十一月に閉業することになり、仕方なく道をへだててこのホテルの前にあったマチュランというホテルに引越した。ここの、マダムはあまり感じが良くなかったが、娘が金髪のすごい美人であり、この娘に惹かれてここに決めてしまったが、いざ入ってみると彼女も案外ケチで見栄坊でがっかりした。毎月部屋代を払うときだけ「メルシー、ムッシュー」といってにっこりするが、普段はあまり愛想が良くない。一般にフランスの女は高慢なのが多く、小説や映画に出てくる純情なパリジェンヌは現実の世界にはなかなか現れない。星が沢山ついているような高級ホテルは別として、私の居たような安ホテルはあまり快適とはいえない。部屋は三十位あって、大低六階か七階まであり、勿論エレベーターなどなくて、ギシギシいう狭い階段を上って行く。部屋は三坪位の広さであり、ペットと洋服ダソスと机と椅子があり、隅に洗面台があって、その横に例のビデがある。ビデとはフランス特有のものでどんなホテルにも必ずあるが、これはホテルにご婦人を連れこんだりした場合にしか用はなく、野暮な留学生には不必要の品物である。部屋の一方が窓になっているが、陽はほとんど入らない。特に冬の間はパリは毎日、曇っており、昼間から電灯をつけなくては本も読めない。
 電気代節約のため四十ワットの電球しかついてなく、自力で百ワットに代えてしまったらヒューズがとんですぐばれてしまい失敗した。壁紙も雨漏りの跡が茶色に変色しており、仕方なくルーブルの芙術館でモネーやゴッホの風景画のコピーを買ってきて壁に張ったら少しは部屋が明るくなった。一番閉口したのは普請が悪いせいか隣室の音がつつ抜けであり、憐にアベックでも入られたら哀れである。なにしろお色気に関しては世界に冠たるお国柄であり、不眠症になやまされること再三であった。
 ホテルでは自炊が許されず、食事の際は鍵を入口の鍵掛けに掛けて外出する。風呂もホテルに共通のが一つあるが、あまり使わないため黴くさい。大低外の風呂屋に入りに行った。勿論日本のような風呂屋でなく、個室に別れた西洋風呂であり、二百円とられて、しかも、三十分という時間の制限がある。フランス人には生れてこのかた風呂に入ったことがないと言う人が多く、大低はシャワーを浴びてすませるらしい。
 入浴後ネクタイをしめて帰るのは一寸オックウであった。帰国後しばらくしてから京都工場に出張し、細田さんのご厚意で京都のある宿でご馳走になった。着物姿の女中さんが、「オイデヤス」と迎えてくれ、檜の風呂桶にゆっくりつかってから庭の噴水を眺めつつお酒を頂いた。日本の木と紙で出来た家がこのときほど柔く優しく感じられたことはない。
 [出典 金陽社社内報 「第二話 住居のこと」 山本 弘(金陽社社長 1961年留学)]

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2. ホテル・スフローの思い出

興銀リース株式会社
常任顧問 岡部  進氏

1961年7月、私はフランス政府給費技術留学生として、憧れのパリの地を初めて踏んだ。毎月の給費額は750フラン(当時の換算レートで約150米ドル・5万4千円)物価高のパリでは最低の生活だった。
 そこで学生相手の安ホテルとして紹介されたのが、ホテル・スフローであった。ソルポンヌ大学のあるサンミシェル大通りから、パンテオンを真正面に仰ぐスフロー通りに入り、路地を左折し、ソルポンヌとパリ法科大学に囲まれた静かな雰囲気の所にあった。
 ホテル代は1日7.5フラン(当時の日本円換算600円位)一週間毎にまとめて支払うこととし、五階の部屋の鍵を受け取った。エレベーターはないので暗いらせん状の階段を大きな旅行用カバンをかかえて昇らねばならない。各階の昇り口に階段用電燈のボタンがあり、これを押すと電燈がつき、階段を昇りきる頃に自動的に消えるようになっているが、こちらは大きな荷物を抱えているので途中で真っ暗になり、次のポタンを探すのが大変だった。
 五階には、四〜五部屋が並び、各部屋には古いベッドと小机、それに洗面台とビデがあるだけ、トイレは部屋の外にフロアー共用のが一つあった。風呂とシャワーは一階にあるが、別途料金なのでより安い街のお風呂屋も利用した。
 このホテルには一緒に留学した山本弘君(金陽社社長)鈴木靖三君(元沖電気)も後から入って来た。それぞれ専門が違い、別々の所で研修していたが、毎朝ホテルの前のカフェ・ドゥ・スフローでコーヒーとクロワサンを立ち食いしながらしばしば顔を合わせた。又週末には安い中華料理店で一緒に食事をとり、情報の交換をしたりした。
 しかし、秋になってこのホテルが閉鎖されることになり、三人もそれぞれの住居を求めて移って行った。
 さて、最近柴崎信三著「魯迅の日本 漱石のイギリス」を読んでいると、ホテル・スフローのことが出ていたので紹介しておく。
 丁度今から百年前の1900年、パリ万国博覧会の頃、当時ホテル・スフローに住んでいた日本人を中心に、「パンテオン会」という同人誌が発行されている。浅井 忠、黒田清輝、和田英作、岡田三郎助等の洋画家、日本画の竹内栖鳳、建築史の塚本 靖、西洋史の箕作元八、法律の山田三良等多彩な顔ぶれが誌面を飾っており、和田英作は当時のホテルのマダムの肖像画を残している。又永井荷風は1908年横浜正金銀行のリオン支店を退職し、パリを訪れ、ここに三ケ月滞在している。
 先日、山本、鈴木両君とご夫妻共々食事をし、私達が日本人にとって由緒あるホテルの最後の住人であったこと等楽しい青春時代の思い出話は盡きることがなかった。     (出典 商工クラブ会報 2000.4)
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[Last Updated 6/30/2013]