忘れられたカミュの墓
終焉の地 求めた南仏 頼み難い人の運命
大久保 昭男

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おおくぼ・あきお イタリア・フランス文学者
 27年生まれ。訳書にA・オヴェット著「評伝 ボッカッチョ」(新評論)、A・モラヴィア他著『モラヴイア自伝』(河出書房新社)など多数。

 南仏アヴィニヨンから東へ20kmほど入った小邑(しょうゆう)に40数年来の旧友が住んでいる。かつて横浜「アリアンス・フランセーズ」校での同僚で、帰国後エクサン・プロヴアンスのリセで教鞭(きょうべん)をとった人物である。パリに出かけたのを機に、いわば旧交を温めるといった思いで、5月の中旬、その館に宿を乞(こ)うた。
      <<< さながら「無縁仏」 >>>
 5月から6月にかけてはこの地方がもっとも艶(つや)やかな装いをこらす季節である。友人はもはや決して若くはないのだが、連日車を走らせてくれた。豊かな緑野を貫く道路は広く、舗装も申し分なく、信号はごくごく稀(まれ)である。疾走する車のフロントにポプラの花の綿毛が淡雪のように降りかかる。紺碧(こんぺき)の空を背景に無数のアマツバメが飛び交い、ようやく枝葉が茂り始めて緑濃くなったブドウ畑が果てしなく広がっている。
 プロヴァンスでもリュベロンと呼ばれるこの地方を経巡ったいち日、ルールマランという小村に入った。この村にあるはずのアルベール・カミュと、そしてアンリ・ボスコの墓を訪れるためである。しかし、戸数わずか百戸足らずと見た村落なのに、墓地は容易に見つからず、車が細い野道を何度かUターンした揚げ句にようやく辿(たど)り着いたのは、村営かと思われる質素な墓地であった。
 だが、墓地に入ってすぐに見つかると予想したカミュの墓は容易に見当たらず、墓地をうろついたはてにやっと目に入ったのは、麗々しい他人の墓の陰(かげ)に身を潜めるようにうずくまっている小さな墓石であった。幅70cm、縦50cmほどの平たい墓石で、その表にはただALBEERT CAMUS 1913-1960とだけ刻まれている。しかも長年の風雨に晒されて、その文字ももはや定かではない。墓石を囲むラヴェンダーの茂みがせめてもの救いであった。
 戦後文学の寵児(ちょうじ)であり、ノーベル賞に輝いた作家の墓としては、質素というよりあまりに粗末と見えた。パリも目抜き、モンパルナスの墓地に立つサルトルの墓と較べてもあまりに貧しくないか。だが、傍らのフランスの友人の理解は違った。カミュの生い立ちと生きざまを知る者ならこの質素さに驚くことはない、サルトルの墓こそその信条にそぐわぬモンダーン(世俗的)ではないかと彼は言い、カミュのために祈るといって墓石前で十字を切った。それにしても、そのカミュの墓に詣でる人の絶えてないと見えるのは何故なのか。日本風に言うなら無縁仏さながらである。
      <<< サルトルとの論争 >>>
 ここで思い浮かべたのは、かつてカミュとサルトルの間に生じ、世に知られた論争のことであった。それはカミュの評論『反抗的人間』が1951年に刊行されたのを契機にして発したものである。論争の内容は複雑ただが、敢(あ)えて要約すれば、マルクス主義、ソ連流共産主義をカミュが批判したのに対して、サルトルが、むしろ西欧の資本主義、植民地主義をこそ批判すべきであるとした。このときの応酬では、論戦に長(た)けたサルトルにカミュが屈した形になったことは否めない。
 カミユが『嘔吐(おうと)』と『壁』を、サルトルが『異邦人』をそれぞれ高く評価したのも今は昔、次第に軋(きし)みがちだった二人の交友に終止符が打たれたのもこれを機にしてであった。その折のカミュの傷心は想像に難くない。それに加えて、ノーベル賞受賞後もこの賞を巡って文壇やマスコミの間に毀誉褒貶(きよほうへん)がかまびすしく、パリの文壇に愛想を尽かしたカミュがプロヴァンスはリュベロンの奧の村に終焉(しゅうえん)の地を求めようとした、これは私の憶測である。そして、そんな世界を疎み儚むかのように、1960年1月、カミュは、ほかならぬルールマランからパリヘの途次、世間には不条理とも見えた自動車事故による死を迎えたのである。
 アンリ・ボスコの墓はカミュのそれから数区画離れたところに見つかった。これも簡素なものではあったが、その墓石の縁には訪れる人が一つずつ置いていくらしい小石がうずたかく積まれていた。ボスコはカミュに較べればずっと地味な作家だが、アヴィニヨンに生まれ、プロヴァンスの風光と人間をこよなく愛して叙情味豊かな筆致で描いた作家・詩人として人々に敬愛されていることが窺(うかが)えた。
 人の運命、作家の人気・評価の頼み難さを思わされた墓参ではあった。
(出典 朝日新聞 2005.6.30夕刊)

[ひとこと]
 今回(2005年)のフランス旅行では、二ヶ所の墓地を訪れました。ニース近くの鷲の巣村、サン・ポールにあるシャガールの墓と、パリ近郊のオーベール・シュール・オワーズにあるゴッホ兄弟の墓です。シャガールの墓はアンリ・ボスコの墓と同じように小石が墓に置かれていました。ゴッホ兄弟の墓はゴッホが描いた麦畑の近くにあり、多くの人が訪れていますが、簡素な墓でした。
 たまたま、自宅が本門寺の近くにあり、歴史や政治上で有名な人物の墓をよく訪れますが、墓もそこに休んでいる方の一生を偲ばせます。

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[Last Updated 7/31/2005]