ポン・デュ・ガール


アヴィニオン近くにポン・デュ・ガールがあります。
ローマ時代に造られた水道橋です。

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ボン・デュ・ガール(ガール橋)−真打ちの遺跡
  「たとえ相当な回り道になろうとも、訪れるに値する」と、ミシュランの案内書はすすめる。ガルドン川にかかるこの水道橋(Pont du Gard)は古代の驚異であるからだ。そこでは建築に対するローマ人の天才が遺憾なく発揮されている。
 この水道橋を含む石造の導水路は、橋の西北部にある山地から、かつては小ローマといわれたニーム(現在はガール県の県庁所在地)へ水を供給するためのもので、建設は紀元前19年というから、アウグストゥス帝の時代だ。全長は約50キロメートル、平均の傾斜角は1キロメートルあたり34センチメートル、一日の給水量は約2万立方メートルであった。三段構えの橋そのもののデータは次表のとおりである。

アーチの数 長さ(m) 幅(m) 高さ(m)
上段(水道) 35 275 3 7
中段 11 242 4 20
下段 6 142 6 22

 この驚異はローマ帝国の滅亡後は維持・管理ができなくなり、九世紀以降は放棄され、導水路の部分は住民の建築資材として姿を消してしまったが、さすがに水道橋の方は手が出ず、のちナポレオン三世(在位1852〜70)の命令で修復され、2千年前の姿を今日もとどめることになった。

 この驚異を称えた文人、芸術家、学者たちは数知れずといわれるほどであるが、そのなかからフランス人と日本人を一人ずつ取り上げてみよう。前者はジャン=ジャック・ルソー(1712〜78)で、次のように述べる。
「この三層から成る建造物の上を歩き回ったが、敬意の余り足で踏むのをためらうほどであった。(中略)自分をまったく卑小なものと思いながらも、精神の高揚を覚えて、なぜ自分はローマ人に生まれなかったのかとつぶやいていたのだった」 - たいへんな思い入れようだ。
 次は地中海学会の会長をつとめた故・村川堅太郎氏(日本学士院会員1907〜91)。日本エッセイストクラブ賞を受けた『地中海からの手紙』(中公文庫)によると、当時東大教授だった村川さんは1957年9月、地中海世界の遍歴の打ち止めにとここまで来て、次のように記している。
「セゴビア(スペイン北部)の水道にも驚きましたが、やはりこの方がまた一格上で、おそらくローマ人の遺跡中(最も堂々として美しいもの)といえましょう。私は地中海旅行の最後を、まさに真打ちの名に値する遺跡の見物で結び得たことに、大きな満足を覚えました」
 村川さんの専門はギリシア・ローマ史であるだけに、この評価は千釣の重みをもっている。遺跡を鑑賞する歴史家の目は澄んでいて、次の事実も見落としていない。現代になると街道の交通量が増える一方だから、石橋が新しく水道橋に接して造られたが、「それはローマ時代とほとんど同質の石で、ローマ時代の水道の第一段とぴったりくっつけて造られているので、一見してはわかりません」
 村川さんを乗せたバスはその橋を渡り、ニームの方へ走り去った。
(出典 プロヴァンス 歴史と印象派の旅 牟田口義郎、佐々木三雄・綾子、熊瀬川紀共著 新潮社 とんぼの本)

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[Last Updated 6/30/2005]