塩野七生氏 ローマ人の物語ほか


ガイウス・ユリウス・カエサル像
ミュンヘン、レジデンツ博物館所蔵より
瀬戸 照装画
出典 ローマ人の物語W 塩野七生著(新潮社)

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  目 次

0 塩野七生さんとの出会い
 私が塩野七生さんの本を初めて読んだのはヴェネツィア共和国の歴史を書いた「海の都の物語」だと思います。
1 著者紹介
 
1937年7月、東京に生れ、学習院大学文学部哲学科卒業後、1963年〜68年にかけてイタリアに遊びつつ、学んだ著者の紹介です。
2 著作概要
 
『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』を始とする著作を紹介します。
3 「平和は理想でなく利益」
 
朝日新聞2000年1月4日に載った「新世紀を語る」の記事の内容です。
4 読者に
 「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」のあとがきの内容です。
5 著作一覧
 塩野さんの著作を網羅しています。
6 『ローマ人の物語』の読み方
 「塩野七生『ローマ人の物語の旅』(新潮社)」に載っていた「『ローマ人の物語』の読み方」です。
7 『ローマ人への20の質問』
 文春新書の紹介です。
『ローマ人の物語Z』の書評
 日経新聞 1998.11.8に載っていた書評の紹介です。
9 『ローマ人の物語\』の書評
 日経新聞 2000.11.5に載っていた書評の紹介です。
10 「ルネサンスとは何であったのか」−塩野七生ルネサンス著作集 1
 そこには、混迷を脱した人びとがいた。30年におよぶルネサンスへの情熱を注いだ最新の文明論。
11 「男の肖像」
 2001年の大河ドラマ「北条時宗」など歴史上の大人物たちを通じて、真のリーダーシップとは何かを問います。
12 『ローマ人の物語]』
 本並びに「波」(2002.1 新潮社)に載った下河辺淳氏による記事と、日経・朝日の両新聞に載った書評の紹介です。

0.塩野七生さんの作品との出会い
 私が塩野七生さんの本を初めて読んだのはヴェネツィア共和国の歴史を書いた「海の都の物語」だと思います。その後「わが友マキャヴェッリ」などを読み、今「ローマ人の物語」を読んでいます。
 塩野七生さんの本が素晴らしいのは学習院の哲学科に学んだという経歴と、永いことイタリアに住み、イタリア人のものの考え方、歴史を肌で理解していることと、多くの本の原典に当たれるその読解力だと思います。
 「ローマ人の物語」は若い人にも読まれているようですが、歴史の好きな人はぜひとも読んで欲しい本です。司馬遼太郎さんの作品も素晴らしいが日本の歴史が多いのに対し、塩野さんのはイタリアに関するものが多く、イタリアに2千年も前にこんなに素晴らしい歴史があったのかと、改めて思い知らされます。
 近い本として「ローマ帝国興亡史」などがあるのだと思いますが、韓国語にも多くの作品が訳され、もし欧米語に訳されれば間違いなくノーベル文学賞ものだと思います。
 ご承知のように「ローマ人の物語」は15巻を予定している大作ですから、最初から読むには覚悟がいります。私は氏の作品には次の三種類があり、2から3の順序に読むのがよいと思っています。1は折りにふれて(機会があれば)目を通すのでしょう。
1. 評論
 雑誌「フォーサイト(新潮社)」に連載されている「ローマの街角から」など。
 時事問題などで積極的に発言している。ローマの制度などをもとに、座談会、新聞、雑誌など、我々とは違った角度から、大変参考になる意見を発表している。
2. 「男達へ」「人びとのかたち(これも雑誌「フォーサイト」への連載を単行本にしたもの)」
 著者の現代の世相に対する発言。
3. 「海の都の物語」から「ローマ人の物語」に至る歴史もの
 「ローマ人の物語」は長編なので、「海の都の物語」「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」「マキアヴェッリ語録」などの中編をよんで塩野七生さんのすばらしさに触れたあとで「ローマ人の物語」を読むことをお勧めしたいと思います。
 最後にカエサルについての次の文を引用します。
リーダーの資質(イタリアの普通高校で使われている、歴史の教科書)
「指導者に求められる資質は、次の五つである。知性。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。カエサルだけが、このすべてを持っていた」
(出典 「ユリウス・カエサル ルビコン以前 ローマ人の物語W」 塩野七生 新潮社)

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1 著者紹介
塩野七生(しおの・ななみ)
 1937年7月、東京に生れる。学習院大学文学部哲学科卒業後、1963年〜68年にかけてイタリアに遊びつつ、学んだ。1968年より執筆活動を始め「ルネサンスの女たち」を「中央公論」誌に発表。初めての書下ろし長編『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』により、1970年度毎日出版文化賞を受賞。この年よりイタリアに住む。1982年、『海の都の物語』により、サントリー学芸賞を受賞、翌83年、これまでの作品活動に対して菊池寛賞を受賞した。著作は30冊を越える。
 1992年より、ローマ帝国興亡の一千年を描く「ローマ人の物語」にとりくみ、一年に一作ずつ書下ろす予定。本書『ローマ人の物語Z』はその第七冊目となる。1993年、『ローマ人の物語T』により、新潮学芸賞を受賞。

質問 いま個性のお話がでましたが、塩野さんの読者は、どんな方が多いんですか。
塩野 私の読者というのは、一つの階層とか、一つの職業などでは、とても割り切れない。主婦、官僚、政治家、医者、教師……。
中学生から百歳に近い方まで、ありとあらゆる人がいます。ただ、一つだけ共通点があるとすれば、ちょっと外れた人が多い。つまり、普通の主婦、普通のサラリーマン、普通の官僚とはちょっと違う。じや、そのちょっと違うのは何かというと、イタリアでは「アペルタ」と言うんですが、要するに開放されているという意味なのね。つまり、拒絶しないわけです、自分と異種のものを。好奇心とは、非常に能動的なんだけれど、それよりもちょっぴり精神的に開かれているという意味なんです。
そういうような人が私の読者じゃないでしょうか。だから、職業でも、社会的にでも、性別でも区別できない感じです。
[出典 塩野七生「ローマ人の物語」の旅 コンプリート・ガイド(新潮社) P.141「塩野七生ってこんな人」]

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2 著作概要
『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』文庫版 本体476円
激動の1400年代に初めてイタリア統一の野望をいだいた異端の若者。時代を先取りせざるを得なかった若者の栄光と悲劇を現代に甦らせる。(毎日出版文化賞)

『イタリアからの手紙』 本体1600円
紺青の海と金色の光につつまれた色彩の国、人類の叡智と活力の壮麗な遺跡の国…イタリアの光と影を地中海の潮風とオレンジのかおりにのせて若き友に送る手紙。

『イタリア遺聞』 本体1165円
生のディテールを愛しっつ、ダイナミックに自らを燐焼した男や女たち−イスタンブールの指輪から国家のスパイ活動まで、地中海歴史の面白さをリズミカルに綴る。

『海の都の物語(ヴェネツィア共和国の一千年)』 本体2204円(続もあり)
ヴェネツィア共和国がナポレオンによって崩壊するまでの一千年の物語。興隆期の正と続の二巻より成る。

『コンスタンティノープルの陥落』 本体1800円
あの街を下さい−トルコの青年マホメッド二世の野望の前に、一千年余にわたる栄華の幕を閉じたビザンチン帝国の首都。甘美に、スリリングに書下ろされた歴史絵巻。

『ロードス島攻防記』 本体2200円
コンスタンティノ−ブルの陥落を機に、トルコ帝国の進攻にさらされた西欧。十六世紀初頭、薔薇の花咲くエーゲ海の小島て展開された若者たちの戦闘を描く歴史絵巻。

『レパントの海戦』 本体2300円
コンスタンティノープル陥落後118年、無敵トルコは遂に負けた。地中海を舞台にくりひろげられた最後の大海戟の持つ、深く重い意味を追求した書下ろし歴史絵巻。

『愛の年代記』 本体1214円
かくも激しく美しく恋に身をこがし、生きて愛して死んだ女たち−中世末期からルネサンスにかけて、さまぎまな愛のかたちを抽出。胸ときめく恋物語9編。

『サイレント・マイノリティ』 文庫版 本体438円
サイレント・マイノリティとは、人間を美化せず現実をあるがままに直視する人。全体主義に疑問を抱き、自らの果すべさ役割を正確に把握できる人・・・。

『マキアヴェッリ語録』 本体1500円
現実を直視しない者は破滅するしかない。私は人のために役に立つものを書きたい・・・。ルネサンスの思想家=人間の営みに対する危険な観察者マキアヴェッリのエッセンス。

『人びとのかたち』 本体1400円
映画は心の糧の万華鏡。画面には、昔と今の、男と女の、おとなと子供の、ありとあらゆる人びとのかたちがあふれている−塩野七生の独創的、心愉しき映画の見方。

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3 「平和は理想でなく利益」
新世紀を語るB
平和は理想でなく利益
作家 塩野 七生さん
『ローマ人の物語』第九巻を書き始めた。「学ぶのは冷徹な現実主義」。62歳。

写真(塩野七生氏)

平和は理想でなく利益
 --西暦二〇〇〇年をローマで、ローマ史を書きながら迎えましたね。ローマ文明とキリスト教の大拠点に、今年は世界中から人々が集まる。新世紀をこんなに世界が意識するのも、初めてです。
 「西暦とかミレニアムはキリスト教の考え方ですよね。しかし、そのベースの太陽暦は、ローマ人のユリウス・カエサルが作らせました。正確な暦なら世界のどこでも受け入れられ、生活のリズムが共通になると考えたのね。異種の文化を持つ人々が共に生きていくには、基準になるものが必要なんです」
 --私たちはその国際暦、西暦で世界を考えている。
 「ただ問題がなけれは、これほど二十一世紀に期待や不安を抱かない。後世の歴史家は二十世紀を善意と理想の世紀とみるんじゃないか。啓蒙主義以来の個人の人権を認
め、かつ一人一人は平等だと。典型の機構は国連です。人口や国力に関係なく、すベての国が平等に一票を持つ」
 「すべての人に人権を認める、その延長線上に民族自決が出てくる。平等だから、報酬も平等であるべきだという理想。それで革命が起こり、社会主義、共産主義が起こり、大規模な戦争があり、殺し合った。善意と理想の二十世紀は、どの時代よりも人間を殺した世紀になった」
 --なぜでしょう。
 「高まいな理想はえてして軌道から外れて、目的を忘れる。本来の目的は『多くの人が安全に生き、食べていける』ことのはず。平等とか人権は目的ではなくて手段なのに」
 --過去にも同じようなことが起きましたね。
 「そう、何回も。古代ローマ人がすごいのは平和は利益になるとわかった点でした。平和が続けはみんな得する。パクス・ロマーナ、ローマによる平和って、それです」
 「共産主義諸国は失敗した。で、いまアメリカは『自由競争だ』と言う。できるやつは金持ちになり、できないのは貧乏が当然と。できない人の方が断然多いのが人間社会だから、結果は社会不安ですよ」
 「ヨーロッパは、ローマ帝国崩壊以後、バカげたことを千五百年もやって少しは大人になった。宗教やイデオロギーの争いはもういいと。目的は平和と、ヨーロッパ人は思い定めたのではないか」
 --世界の目的が平和、安全と食の確保とすれば、どうしたら保てるでしよう。
 「問題はアメリカの出方。覇権国家は権力を与えられるが、自らを犠牲にしても他を守る。だからみんなついてくる。シアトルのWTO(世界貿易機関)会議で、アメリカはグローバルにやろうと言った。他の国は、アメリカが得するだけのグローバルだと言った。アメリカは、君たちも得する、と示せなかった。そういう国が覇権国家であり続けた例は、歴史上ありません」
 --二十一世紀の世界は。
 「放っておくと古代ローマ帝国崩壊のように、中世化するんじゃないか。歴史って揺り戻すんですよ」

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多神教の二十一世紀目指すのか中世化か
 --世界が中世化するとは、どういうことですか。
 「二十世紀末はローマ帝国の末期と似てると、しばしば言われる。実際似てるんです。一つの支配的な理念が崩壊した時期という点で。二十世紀はよかれあしかれ西欧の考え方が支配した。その考え方が、国連、社会主義、共産主義、コソボ、WTOと、すべて壁に突き当たってる。これで行きましょう、という普遍概念がなくなってしまった」
 「古代ローマの末期も普遍概念が機能しなくなりました。それにキリスト教が取って代わったと言うけれど、キリスト教は蛮族の侵入をくい止められず、安全も食の保障もできなかった。だから中世に入った」
 「中世化とは、小規模同士が割拠することです。ヨーロッパでは、中世の町はしばしば山の高い所にできている。中世では封建諸侯が城を建て、そこの安全だけは保障した。自分たちのことしか考えないっていうのが中世化なんですね。貧富の差は拡大します」
 「対照的にローマは、敗者にもローマ市民権を与え、同化した。史上最初にして最後の、多人種、多民族、多文化の帝国でした」
 --なぜそれが可能だったのでしょう。
 「一つには、彼らが多神教であったからだと思います。自分たちの神だけではなく他の神も認める。他者の神を認めることは、他者の存在も認めること。ローマ以後、マルチな帝国が生まれなかったのは、一神教の世界になったからです」
 --ローマの歴史は、二十一世紀の世界の共生に参考になるでしょうか。
 「各論的にはお手本になりうる。でも、そのためには我々が百年間温めた考えを捨ててかからなくてはいけない。人間はだれも平等であるという考えです」
 --具体的には二十一世紀にどうすれはいいと。
 「安全があれは食がある。だから安全が最優先事項です。二十世紀はそれを国連でやろうとした。が、国連だけではどうも具合が悪い。アンチテーゼがサミットです。すべての国に一票があるのではなく、大国だけが一票を持つ」
 「平等という観念をやめて、強力なものが強力を維持しつつ、弱小な国々も健全に発達してもらう。でないと自分たちも強力であり続けられない。先進国はものを売る、買ってくれる国がいなくては困る。富者が生き延びる一つの方策として、貧者を健全化する。サミットがそのやり方を進める。うまくゆけば、差は縮まる。日本はすでに中に入ってますか我々にはそれができる」
 --つまりサミットの政治化、強国連合化。
 「二十世紀の失敗の一つは国連だけに頼ったこと。だから幾つもの機関を並列させたらいい。その一つがサミット。私はロシアに続き、中国を入れることを勧めますが。そしてもう一つが、EU(欧州連合)みたいなやり方」
 「国民国家ではなく、中世から始まった民族自決をとどめようとするのは非現実的です。その代わり、英国でブレア(首相)が恐らく考えていることが一つの方向になる。スコットランドやウエールズを分権化させながら、それでいてEUのゆるやかな枠内にまとまる」
 「古代ローマ帝国は現代ヨーロッパに中近東、北アフリカをプラスした大帝国だった。それがなぜ機能できたか。中央集権と地方分権を並立させたからです」
 「日本が二十一世紀を先取りするとすれは地方分権、日本のEU化です」
 --次の世紀、世界はいや応なくグローバル化する。
 「グローバリゼーションは進むでしょう。しかしその暴走を許すとすれは、グローバリゼーションという名の下の中世化に過ぎない。だからそれを進めつつ、弱者には敗者復活のチャンスを与え、強者が暴走をしないための幾つかの方法を並行させていくしかない」
 「格差は作っていい。しかし、その格の間に流動性を持たせなくてはいけない。これは国連とサミットの関係もふくめ、あらゆることにあてはまります」
 --日本の役割をどう考えればいいのでしょう。
 「多神教は二十一世紀の衝突を調整する方法になりえます。それを一神教徒に説明する理論を構築したらいいのです」
 「たとえば、外国人に門戸を開放すること。良質な人関が入って来やすいように環境を整える。東大の教授が半分外国人ではなぜいけないんですか」
 「若い人は、世界のどこへ行っても生活できるようになるといい。けれど、全員が世界に出ていくなんて非現実的です。ローカルに徹することも価値観なんですよ。ローカルを世界とつなげる、それこそが真の地方分権だと思う」
 聞き手 企画報道室編集委員 佐田智子      写真 グイド・フア氏
  (出典 朝日新聞2000年1月4日)

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4 読者に(「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」のあとがき)

 この書物は、深い敬愛と哀惜の念をこめて、今年一月二十五日、四十五歳の若さで世を去った、塙嘉彦に捧げられている。塙嘉彦氏と書くべきなのだろうが、そう書くと彼が笑いだしそうなので、敬称は略すことにする。彼は、死の床についた時、中央公論社の文芸誌『海』の編集長であっただけではなく、そこに連載中の私にとりては、直接の担当編集者でもあった。
 出版の世界の外にある人が、いかに読書家としてその存亡に深くかかわっていょうと、筆者と編集者の関係を、筆者が書き編集者がそれを雑誌に掲載したり本に作ったりするだけの関係と考えたとしても当然である。たしかに、それだけの関係である場合も多い。電話で依頼が寄せられ、それを受けて書きあげた原稿は、お使いの人が取りにきて編集部に持っていくだけで、筆者と編集者は顔を合わせないで終ることさえある。
 しかし、私の場合はこのように簡単ではない。書物というものは、その表てに記されるのは、まずその書物の表題であり、その下に筆者名が書かれ、最後に出版社の名が記されるのが普通だ。だが、私は、自分の作品が出版されるたびにそれを手にとって眺めながら、いつもこんなふうに思ってしまう。出版社名がある場所には、担当編集者の名が記され、かっこして、彼や彼女たちの所属する出版社名が書かれるのが、ほんとうではないかと。
 塙さんと私の関係は、十三年前、私にとっては処女作であった『ルネサンスの女たち』を、彼が担当した時にはじまる。高等学校も同じだったが、私が日比谷高校に入学した時には彼はもうそこを卒業していたので、その頃の彼は知らない。
 すでに編集者としてのキャリアが豊富であった塙さんにしても、『ルネサンスの女たち』を準備中の頃の私は、実に手間のかかる、放り出したくなるようなやっかいな相手であったにちがいない。その少し前に偶然にローマで出会った、当時はまだ『中央公論』におられた粕谷氏に、書いてみないかと推められたのがはじまりだが、ちょうど遊びにも飽きていた頃だったから受ける気になったのである。文章を書くのを業とするなど、一度として考えたこともない私だった。原稿用紙というものとも、卒業論文を書いた時に接しただけなのである。
 ところが、この駆けだしの新人は、まだ駆け出してもいない先からこんなことを宣言したのだから、彼だって絶望したであろう。
「書くからには、森鴎外やヨーロッパ中世の年代記のように、淡々と書きたい」
 塙さんは、その時はなにも云わなかった。だが、その翌日、例の、知らない人からは女性的と誤解されるやさしさで言った。
「そういうことは、鴎外の年齢になってから考えたら?」

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 私は苦笑するしかなかったけれど、その後に続いた彼の言葉は、苦笑どころか、胸の底にずしんとひびいたのである。これは、それからのちの、私の座右銘となるものであった。「鴎外もヨーロッパ中世の年代記作者たちも、もともとは、自分の国の出来事を自分の国の人々に向って書いたんだ。ところが、キミは、遠い外国のしかも昔の出来事を、日本人に向って書こうとしている。それらと日本人を強いて繋げようとしないでだ。
 ポクはキみのやり方には賛成だよ。だけど、そのやり方で通したかったら、それなりの工夫は必要だ。学者の論文とはちがうんだからね」
 師匠から踊りの初歩を教わる弟子のように、手とり足とりの指導を受けた私だったが、この弟子は、師の趣向に合った書き方ばかりしたわけではなかった。塙さんも、私にそれは要求しなかった。大学で文学を専攻した彼と哲学を選んだ私との間には、専攻科目からくるものか、それとも気質のちがいかにしても、ちがいは歴然とあったのである。
 例えば、彼の好みの文章は、少なくとも私の書くものの中での好みの文章は、次にあげる、『ルネサンスの女たち』の第一部のイザベッラ・デステの一箇所のようなものであったらしい。
 ──このサッコ・デイ・ローマ(ローマ掠奪)によって、盛期ルネサンスの一大中心地であったローマは、廃墟の街と化してしまった。毎年の謝肉祭には、華やかな仮装行列でにぎわい、普段でも人通りの絶えたことのなかったコルソ通りも、今や人の影さえもなく、時折、酔払い、群盗と化したドイツ傭兵たちの高声と、間をおいて続くはじけるような銃声が、崩れ果てた壁の奥にひそむ人々をおじけさせた。
 それでも陽のあるうちはまだよかった。夜。夜の闇がすべてをおおいかくしてしまう時、人々の恐怖は最高潮に達した。誰もが、「夜」という言葉を口にしようとはしなかった。「夜」(ラ・ノッテ)ではなく、「死」(ラ・モルテ)といわれたような気がしたのである。
 塙さんは、この後半を、
 「カミュ的だ」
 と言って、珍しくも絶讃したのである。この箇所は、もう少し別の書き方はないかなあ、と塙さんに言われて考えた未、私が創作した箇所である。この私の思いつきのヒントになったのは、『異邦人』ではなく、ある時カプリ島で見た、酔ったドイツ人のグループの狂態であったのだ。
 なにしろ、鴎外はあきらめるとしても、私の好みは、ユリウス・カエサルやマキアヴェッリの文章を名文と思うところにあるのだからしかたがない。飾りを可能なかぎり斬り捨てた、センテンスの短い、明解で力強い文章が好きなのだ。彼らの文章は、官能的なことは少しも書かれていないのに、それを読むだけで官能的快感にゆすぶられる。すばらしい音楽が、それを聴く者の胸の鼓動まで変えるように。ベッド・シーンを書かずして官能的な文章が書けたら、という野心を、私はいだきはじめていた。
 ただし、これも今だから言えるので、『ルネサンスの女たち』の頃は、つまり手とり足とりの指導を受けていた当時は、塙さんにさえ言えないことであった。もしかしたら彼も賛成してくれたかもしれないのに、また笑われそうで、口に出す勇気がなかったのである。勇気は、二冊目の『チェーザレ・ポルジアあるいは優雅なる冷酷』を書いている時に、はじめて持てたのだった。私の原稿を検閲した新潮社の新田氏が、こう言ったのである。
「塩野さん、平明な文章が名文なのです」
 言われた私は、心の中で、
「しめた!」
 と叫んだものだ。ユリウス・カエサルの文章もマキアヴェッリのそれも、平明なことでは定評があるではないか。要するに、平明を心がければよいのである。これは、むずかしい書き方をするのは自分でもわかっていないという証拠だ、と思うくらいの私だから、私の気質にも合っている。そして、それさえできれば、あとのことは、書く対象によってそれにふさわしい文体が自然に生れでてくるのにまかせればよいのだと思う。そして平明に書くことは、塙さんが私に教えた、学者でないもの書きには絶対に要求される、遠い国の昔の出来事を、それを知らなくても立派に生きていける今の日本人に伝えるための、工夫に繋がることでもあった。
 しかし、編集者に私が報いるとすれば、それは、彼らに作品を捧げることではなく、私の書くものの質を保証することでなければならない。売れ行きや文学賞でも報いられればそれにこしたことはないが、これだけは私の意志に関係なく決められるのだからしかたがない。だが、編集者に作品で報いるというのも、彼らが健在であるからこそできることであって、死なれてしまっては、それさえも不可能になる。

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 第一作を発表した時も、文章を業とできるなどとはとうてい思えず、本名のままではじめてそれが現在に至っているほど偶然にこの道に入った私だが、欲はそれでも生れてくるものか、生涯に三つの基本的な作品を書こうと決めている。第一回目のそれは、『ルネサンスの女たち』であった。あれを書き終えることによってはじめて、一四五十年から一五五十年までの一世紀を、完全に自分のモノにできたという確信を持てたのである。『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』も『神の代理人』も、いずれも同じ時代を舞台にしている。短い期間に、枝葉的な勉強だけで書けたのも、『ルネサンスの女たち』を書きあげた後であったからだ。
 第二の基本的な仕事は、この『海の都の物語』である。今度は、時代も一世紀どころか一千年間と長く、舞台もイタリアにかぎらず東地中海全域に広がる。それに、個人を主人公にしていては書けないというところに特質のある、ヴェネツィア共和国の盛衰の物語である。手とり足とりの指導はもはや必要なくなった(少なくとも彼はそう言った)とはいえ、今度は私のほうから塙さんに頼んだのだった。
 「もう一度、一緒にやってください」
 私の書きたいことを完全に理解し、それが充分に日本語に移し換えられているかをチェックできる、最適の編集者と信じたからである。文芸誌『海』に連載されたのは、彼がその編集長であったからで、もしも塙さんの仕事の場が出版部であったならば、私は当り前のこととして、書き下ろしで出版していたであろう。
 私を担当した編集者の仕事は、それがとくに基本的と私が思う作品に当った場合は、大変に苦労な役目なのである。新しい対象をどう料理するかを決めるだけで、一年ぐらいはすぐにたってしまう。その問、塙さんは、
「こういうふうに書きだしてみたら?」
 とか言って、ロレンス・ダレルまで持ちだしては、私に糸口を与えようとしてくれる。
それでも私は、たいていの場合、
「そうね」
 とだけ答えて黙りこむ。どうにも納得いかないからである。こんな調子で糸口の見つからない間はつらいもので、どちらからともなく仕事の話はやめてしまい、イタリアとフランスの共産党書記長のちがいを、マルシェの顔色が変ると二、三日して党の方針も変る、などという話になってしまうのだった。
 ようやく書きはじめても、担当編集者の苦労は終ったわけではない。私が、原稿が東京に着いたらすぐ読んで、すぐ意見を聞かせてくれと言うからである。私の使う原稿用紙は航空便用のもので、ためにひどく読みづらいのだが、それを彼は読んで、国際電話をかけてくる。朝の七時半と決まっている。日本時間だと午後の三時半で、ちょうど彼の本格的な活動が開始される時刻だからであろうか。
 この時刻に電話が鳴ると、夫のほうが先にとび起きて、受話器をとりにいくのだった。原稿を送り出してからイライラしている私が、塙さんの電話があった後はおだやかになるので、彼もまた、この早朝の電話を心待ちしていたのであろう。私だって、書評で賞められれば嬉しい。しかし、塙さんがいいと言ってくれれば安心した。
 餅つきは、一人ではできない。誰かそばにいて、時々水をつけてくれないとできない。私にとっての編集者は、水をつけてくれる人である。テーマの指示を受けるわけではない。取材の手伝いをしてもらうわけでもない。これらのことは、私一人でやれることなのだ。だが、反応してくれることだけは、私のやれることではない。
 原稿を書き終えて日本に送りだすたびに、私は、まるで暗闇に向ってボールを投げた後のような不安に苦しまされる。直球で投げたが、はたしてストライクであったかどうか、カーブを使ってみたけれど、大暴投になってしまったのではないかと。外国に住んで仕事する場合の最大の短所は、ここにある。日本では連載中に書評がでることはないので、達戴が終り、それが何ヵ月か後に本になって出版されるまで、評価を知ることはできない。もしも私が日本に住んでいれば、友人や編集者たちの様子を見ただけでも、おおよその反応はつかめるであろうが、一年に一回、それも一ヵ月足らずの帰国では、それさえも不可能になる。何年も反応なしで書き続けるのは、一人で餅つきするつらさと似ている。一冊の本ができあがった時、その表てに記されるのは出版社名でなく、担当編集者の名であるのがほんとうだと私が感じるのは、彼や彼女たちが、そのつらさをやわらげてくれるからである。これは、私が、特殊な立場にあるためかもしれない。日本に住む作家たちにとっては、担当編集者の重要度は、私ほどではないのかもしれない。
 しかし、有能で信頼できる編集者に恵まれることは、作家にとってはなにものにも換えがたい幸運であると、私には思えてならない。
 1980年7月  フィレンツェにて                  塩野七生
  (出典 「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年[中央公論社]」)

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5 著作一覧
『ルネサンスの女たち』(中央公論社)
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(新潮社)
『イタリアからの手紙』(新潮社)
『神の代理人』(中央公論社)
『愛の年代記』(新潮社)
『イタリアだより』(文華春秋)
『イタリア共産党讃歌』(文華春秋)
『漁夫マルコの見た夢』(絵本)(TBSブリタニカ)
『コンスタンティノープルの渡し守』(絵本)(TBSブリタニカ)
『海の都の物語(正・続)』(中央公論社)
『イタリア遺聞』(新潮社)
『サロメの乳母の話』(中央公論社)
『サイレント・マイノリテイ』(新潮社)
『コンスタンティノープルの陥落』(新潮社)
『ロードス島攻防記』(新潮社)
『レバントの海戦』(新潮社)
『男の肖像』(文芸春秋)
『わが友マキアヴェッリ』(中央公論社)
『マキアヴェッリ語録』(新潮社)
『聖マルコ殺人事件』(朝日新聞社)
『男たちへ』(文費春秋)
『メデイチ家殺人事件』(朝日新聞社)
『再び男たちへ』(文芸春秋)
『法王庁殺人事件』(朝日新聞社)
『人びとのかたち』(新潮社)
『ローマ人の物語T-ローマは一日にして成らず』(新潮社)
『ハンニバル戦記-ローマ人の物語U』(新潮社)
『勝者の混迷-ローマ人の物語U』(新潮社)
『ユリウス・カエサル ルピコン以前-ローマ人の物語W』(新潮社)
『ユリウス・カエサル ルピコン以後-ローマ人の物語X』(新潮社)
『パクス・ロマーナーローマ人の物語Y』(新潮社)
(出典 「ユリウス・カエサル ルビコン以前 ローマ人の物語W」 塩野七生 新潮社)

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[Last Updated 6/30/2002]