浜口梧陵手記

松明を掲げて走る梧陵
  現代の若い人にとっては少し難しい表現が見られるかもしれないが、是非この手記を読んでいただきたい。
  現代語訳も付属させたので参考になるのではないだろうか。
  実際未曾有の体験者のみが持っている生々しい証言から、非常な恐るべき状況を読みとることができる。梧陵でさえも津波に巻き込まれ九死に一生を得ているのである。
  阪神大震災級の地震や、梧陵が経験した津波や、台風などの様々な災厄が私達をいつ襲うかもしれない。そのような時この手記が示す教訓が役立つに違いない。
  またその文章の簡潔、かつ高尚なところから梧陵の学識の深さも思い見ることができる。
  そのような面からもこの手記はまさに貴重な記録である。

浜口梧陵手記

嘉永7年寅11月4日(1854年12月23日)
  四つ時(午前10時)強震す。震止みて後直ちに海岸に馳せ行き海面を眺めるに、波動く模様常ならず、
海水忽ちに増し、忽ち減ずること6、7尺、潮流の衝突は大埠頭の先に当たり、黒き高波を現出す。その状実に怖るべし。

  伝え聞く、大震の後往々海嘯の襲い来る有りと。依って村民一統を警戒し、家財の大半を高所に運ばせ、老幼婦女を氏神八幡境内に立ち退かしめ、強壮気丈の者を引き連れて、再び海辺に至れば、潮の強揺依然として、打ち寄する波は大埠頭を没し、碇泊の小舟岩石に触れ、あるいは破れ覆るものあるを見る。斯くして夕刻に及び、潮勢反ってその力を減じ、夜に入って常に復す。・・・

5日。
  曇天風なく梢暖を覚え、日光朦朧としていわゆる花曇りの空を呈すと雖も、海面は別に異常もなかりしかば、前日立ち退きたる老幼茲に安堵の思いをなし、各々家に帰り、自他の無異を喜び、予が住所を訪ひ前日の労を謝する者相次ぎ、対話に時を移せり。午後村氏2名馳せ来たり、井水の非常に減少せるを告ぐ。

  予之によりて地異の将に起こらん事を懼る。果たして七つ時頃(午後四時)に至り大震動あり、その激烈なること前日の比にあらず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を覆う。遥かに西南の天を望めば黒白の妖雲片片たるの間、金光を吐き、恰も異類の者飛行するかと疑はる。暫くにして震動静りたれば、直ちに家族の避難を促し、自ら村内を巡視するの際、西南洋に当たりて巨砲の連発するが如き響きをなす、数回。依って歩を海浜に進め、沖を望めば、潮勢未だ何等の異変を認めず。只西北の天特に暗黒の色を帯び、恰も長堤を築きたるが如し。僅かに心気の安んずるの遑なく、見る見る天容暗澹、陰々粛殺の気天を襲圧するを覚ゆ。是に於いて心ひそかに唯我独尊の覚悟を定め、壮者を励まし、逃げ後るる者を助け、興に難を避けしむる一刹那、怒濤早くも民屋を襲うと呼ぶ者あり。予も疾走の中左の方広川筋を顧みれば、激浪は既に数町の川上に遡り、右方を見れば人家の崩れ流るる音棲然として膽を寒からしむ。

  瞬時にして潮流半身を没し、且沈み且浮かび、辛うじて一丘陵に漂着し、背後を眺むれば潮勢に押し流される者あり、或いは流材に身を憑せ命を全うする者あり、悲惨の状見るに忍びず。然れども倉卒の間救助の良策を得ず。一旦八幡境内に退き見れば、幸いに難を避けて茲に集まる老若男女、今や悲鳴の声を揚げて親を尋ね子を探し、兄弟相呼び、宛も鼎の沸くが如し、各自に就き之を慰むるの遑なく、只「我れ助かりて茲にあり、衆みな応に心を安んずべし」と大声に連呼し、去って家族の避難所に至り身の全きを告ぐ。匆々(そうそう)辞して再び八幡鳥居際に来る頃日全く暮れたり。是に於いて松火を焚き壮者十余人に之を持たしめ、田野の往路を下り、流屋の梁柱散乱の中を越え、行々助命者数名に遇えり。尚進まんとするに流材道を塞ぎ、歩行自由ならず。依って従者に退却を命じ、路傍の稲むらに火を放たしむるもの十余以て漂流者にその身を寄せ安全を得るの地を表示す。この計空しからず、之によりて万死に一生を得たる者少なからず。斯くて一本松に引き取りし頃轟然として激浪来たり。前に火を点ぜし稲むら波に漂い流るるの状観るものをして転た(うたた)天災の恐るべきを感ぜしむ。波濤の襲来前後4回に及ぶと雖も、蓋し此の時を以て最とす。・・・

梧陵が火を付けた稲むら 
梧陵が火を付けたすすき  収穫後の稲ワラの堆積物 牛のエサや畠の敷物とした かつて広川町には広く見られた。

浜口梧陵手記  現代語訳

嘉永7年寅11月4日 (1854年12月23日)
  午前10時頃、強い地震が起こった。地震がおさまった後すぐに海岸に様子を見に行ったが、波の動きが普通ではなかった。
  海水がたちまち押し寄せ、また引いていき、その差は2mほどであった。潮の流れは大埠頭の先に当たり、黒い高波を呈していた。その様子は実に怖るべきものであった。
  昔からの言い伝えで、大地震の後しばしば津波が襲来することがあると。そのため村人達に警告を伝え、家財の大半を高いところに運ばせ、老幼婦女を中野の八幡境内に立ち退かせた。
  健康で気性がしっかりした人々を引き連れて、再び海に来れば、潮の揺れは大きく、打ち寄せる波は大埠頭を乗り越え、碇泊中の小舟に岩石が当たり、壊れ倒れているものもあった。
  しばらくして夕方になり、潮の勢いは衰え、夜に入って元のようになった。・・

嘉永7年11月5日 (1854年12月24日)
  空は曇り風はなく、やや暖かさを感じ、日の光はおぼろげで、いわゆる(春の)花曇りのようであった。海面は異常もなく、前日に避難した人々もこれにより安心した。
  各自、家に帰り、ともに無事であったことを喜んだ。私を訪ねてきて、前日の御礼を述べるものが相次いで来られ、話に時が費やされた。
  午後村の人2名が急ぎ来て、井戸水が非常に少なくなっていることを知らせてくれた。
  私はこれを知ると、再び異変が起こるのではないかと怖れた。
  果たして午後4時頃、大地震が起こった。その激烈なことは前日より遙かに大きかった。
  瓦が飛び、壁は崩れ、塀は倒れ、塵埃が空を覆い、遠く西南の空を望めば、黒と白の妖しい雲の間から、金色の光が発し、あたかも何か異類のものが飛行しているのではないかと思われた。
  しばらくして地震は収まったが、(津波の襲来を恐れ)、直ちに家族に避難を勧め、自分は村内を見回りにいくと、西南の方から巨砲が連発するような音響が数回聞こえた。
  それで浜辺に行き、沖を眺めれば、潮の流れに変化はなかったが、ただ西北の空が特に暗黒の色を帯、あたかも長い堤防を築いているようであった。
  安心するいとまもなく、見る見るうちに空模様は暗くなり、陰鬱とした殺気を覚え災いが近いことを察した。
  ここにおいて、心ひそかに自分の正しさを信じ、覚悟を決め、人々を励まし、逃げ遅れるものを助け、難を避けようとした瞬間、波が早くも民家を襲ったと叫ぶ声が聞こえた。
  私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、激しい浪はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が流され崩れ落ちる音がして肝を冷やした。
  その瞬間、潮の流れが我が半身に及び、沈み浮かびして流されたが、かろうじて一丘陵に漂着した。背後を眺めてみれば、波に押し流されるものがあり、あるいは流材に身を任せ命拾いしているものもあり、悲惨な様子は見るに忍びなかった。
  そうではあったがあわただしくて救い出す良い方法は見いだせず、一旦八幡境内に避難した。幸いにここに避難している老若男女が、いまや悲鳴の声を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合い、そのありさまはあたかも鍋が沸き立っているかのようであった。
  各自に慰める方法もなく、ただ「私は助かってここにあります。皆安心して下さい。」と大声で叫び続け、去って家族の避難所に行き身の安全を知らせた。
  しばらくして再び八幡鳥居際に来る頃は日が全く暮れてきていた。
  ここにおいて松明を焚き、しっかりしたもの十数名にそれを持たせ、田野の往路を下り、流れた家屋の梁や柱が散乱している中を越え、行く道の途中で助けを求めている数名に出会った。
  なお進もうとしたが流材が道をふさいでいたので、歩くことも自由に出来ないので、従者に退却を命じ、路傍の稲むら十数余に火をつけて、助けを求めているものに、安全を得るための道しるべを指し示した。
  この方法は効果があり、これによって万死に一生を得た者は少なくなかった。
  このようにして(八幡近くの)一本松に引き上げてきた頃、激浪がとどろき襲い、前に火をつけた稲むらを流し去るようすをみて、ますます天災の恐ろしさを感じた。
  津波の襲来は前後4回に及んだが、この時が最大であった。・・・


参照 津波が予想されるとき  時間が限られているときは遠くに逃げるよりも高台に避難する方がよい 例(2階建て以上の波に流されないしっかりした建物に避難する)

 参照 安政南海地震

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