「 浜口梧陵伝 」

耐久中学にある梧陵の銅像   浜口梧陵は文政3年6月(1820年)に、紀州藩(現和歌山県)の広村(現有田郡広川町)に、浜口七右衛門の長子として生まれた。しかし父は一年後死去、母親しんの手によって育てられ、名は成則、字は公輿、通称儀兵衛と呼ばれ、梧陵は号である。

  彼は幼いときより、温厚な人物であり、また聡明で物事を深く考え、洞察力に富んだ人物であった。
  彼が成長した時代は幕末の激動期であり、日本の将来に対して、不安と期待の入り交じった多難なときであった。
  彼は、日本の将来を見据え、鎖国攘夷論者を批判し、「世界の現状は門戸開放主義である。もし人が遠方より訪れるなら、迎えて交わるのは普通の礼儀である。しかるにその容貌を見ず、その来意をも確かめず、ただこれを拒絶するのは、あたかも臆病な犬が見慣れぬ人の影を見て遠吠えするようなものである。」と語った。
  そのように進取の気性に富んだ梧陵は、30歳の時、海外への渡航を幕府に願い出ているが、時まだ至らず、断念している。

  当時、外国の侵略に備え、武器などを購入し、人々を組織する試みがなされていたが、梧陵は、「武備がいかに厳重でも、人の心が一致していないならば、何の効果があろうか」と語り、「目下の急務は、学校を興し、文武を励まし、人材を養成することである」と述べた。

  そして、浜口東江、岩崎明岳らと相図り、広田町に道場を設け、子弟の教育にあたる。後の慶応2年(1866年)に、新たな場所に道場を新築し、耐久中学(高校)の前身、耐久社を設立し、ここに本格的な学校を創立する。
  彼は人材を養成することの大切さを知っていただけではなく、それをまさに実践したのである。彼はまた、郷土の人材育成だけではなく、広く人材を育成し、学問の道を望みながらも、貧しき者たちのために、学資を融通している。その中には勝海舟も含まれていた。

  彼は明治2年(1868年)に和歌山藩小参事に任ぜられ、大広間席学習知事に任命される。彼は西洋の文物を研究する必要を感じ、英語学校を設立しようとして、福沢諭吉に教授を依頼する。しかし福沢諭吉には断られたが、イギリス人サンドロスや、通訳山内堤雲、吉川泰次郎、有名な英学者松山棟庵らを招いて、共立学舎を設立する。

  広の町は、浜が湾曲していることから、昔から津波の被害の受けやすい土地であった。
   稲むら 当地方では”すすき”とよばれている 安政元年11月5日(1854年12月24日)夕刻大津波が広の地を襲った。そのとき、梧陵はすすき(籾を取り除いた後のわらの堆積物)に火を放ち、多くの人命を救ったという。これは後に小泉八雲によって、「生ける神」として世界的に知られるようになった。また後にこれをもとにして、「稲むらの火」として教科書に掲載され、有名になった。

  しかし梧陵の偉大さはそのようなエピソードで表せるものではない。阪神大震災でもそうであるが、被災した後、再び元の生活にどのように戻していくかと言うことの方が大変である。

  彼はまず食糧を確保するために、備蓄米を出し、地元の有志もまた食料を援助し、260俵、銀840貫を得たことが記録に記されている。さらに彼は小屋を建てて、被災した人々のために住まいを備え、農具を鍛冶屋に命じて多く作らせ、生産手段を確保した。また自ら住居を建てたものには、普請料(建設補助金)を与え、漁師のためには、漁船、漁網などを与え、再びもとの生業ができるようにされた。

   梧陵の築いた堤防 梧陵の優れた人格と、博愛精神をかいま見ることができる。しかしながら、広の地は幾たびもの津波によって、甚大な被害を被ってきた。ある人々は広の地には住めないと感じ、別の土地へ移住していった。梧陵は広の土地を津波から守るため、また職を失った人々のために、堤防を築くという、当時としては大変な大工事を起こした。しかもその資金は浜口の両家から出すという、壮挙であった。安政2年(1855年)に起工し、足かけ4年目の安政5年(1858年)に完成した。さらに彼は、借家を建設し、極貧の者には無料で貸与し、農商業者には極めて低利で資本を貸した。

  広橋も破損したので、その橋も自費で修復した。彼が出費した総額は実に4665両に上ると言われる。村民が彼を尊崇し、浜口大明神として祭り上げようとしたが、彼は堅く固辞した。このような業績により、小泉八雲によって「生ける神」と評されたことも当然であろう。まさに人々のために自らを費やした、真の政治家である。

  彼は明治元年和歌山藩勘定奉行を命じられる。明治13年(1880年)には和歌山県初代県会議長に就任している。明治17年(1884年)海外の視察の情止み難く、65歳の高齢を押して、アメリカに旅立った。しかし翌年の明治18年2月(1885年)アメリカにて発病し、帰らぬ人となった。

  今日、自らの利益を優先させる世にあって、梧陵の生き方はまさに偉大である。教育の危機が叫ばれているが、その根本原因は、自らの利益が第一になっている点が上げられるであろう。梧陵のように、他の人々のために自らを費やすことの価値を、今一度私達は認識すべきではないだろうか。
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