有田みかんの歴史 1


 この紀州有田地方は山が多く、水田が少なく、その昔、見るべき産物もなく、着るものさえないという貧窮の地であった。

 糸我村(現有田市糸我)で農業を営んでいた伊藤孫右衛門は、村民の窮状を憂えていた。孫右衛門はこの地域に産業を興すために何がよいかと思案し、畑を開墾し様々な木を植え試みてみたが、良いものをなかなか見出せなかった。
 そのようなとき肥後の国の八代(現熊本県八代市)にみかんという木があり、それは山地にあっても生育し、収益も少なくないことを聞いた。
 その木を是非手に入れ、この地を豊かな国に変えたいと願うようになった。しかしその木は藩外不出の木であり、おいそれと手に入れられるようなものではなかった。

 孫右衛門は思案し、和歌山の上司に相談したが、良い返事をもらうことはできなかった。しかしそれであきらめるような人ではなかった。村民の窮状を見るにつけ、何かをなしたいという思いは、ますます強くなった。それで彼は上司に幾度も願いで、遂に上司も彼の熱意に打たれ、彼を肥後の国に遣わすことにした。上司は彼に一つの手紙を持たせた。その中には「木の要望は殖産の目的ではなく、単に盆栽として、花実の美を翫(もてあそ)びたいのだから数株恵与されたい。」との内容が書かれていた。そしてみかんの木2本が彼に与えられた。天正2年(1574年)のことであった。

 遂に孫右衛門は念願のみかんの木を手に入れることができた。しかしさらなる問題が彼を待ち受けていた。今日のように交通手段の発達した状況で、イメージすることが難しいかもしれないが、いかに木を枯らさずに郷里まで持ち帰るかという難問があった。彼は赤子を慈しむかのようにして、その木を大事に扱い郷里に持ち帰ったのである。にもかかわらず、長旅の故に枯死寸前であった。
 一本が和歌山の上司に渡され、残りの一本を糸我に持ち帰ったのである。和歌山の木は枯れてしまったが、糸我に植えた木は、孫右衛門の夜昼なき苦心と熱情によって、息を吹き返し、遂に根付いたのである。

次の課題は、木の繁殖であった。孫右衛門は、その当時あった柑橘類(橘であると思われる。)に接ぎ木を試み見事成功し、これによって増やすことができたのである。そして遂にその実を得ることができ、その果実の麗しきこと、また美味なことは、他の果実の遠く及ばないところであった。
 孫右衛門は天に昇るような気持ちだったに違いない。村人達も、孫右衛門の熱意と、その果実のすばらしさに心打たれるのであった。

 孫右衛門は村人達に栽培方法を教え、ここに有田を窮状から救い、豊かな地と変える産業の基が据えられたのである。数年を経ずして、近隣の地にみかんが植えられ、主要な産業として発展していくのである。

現在の有田地方 山々の頂きにまで開墾され豊かな有田を形成している
現在の有田地方 山々の頂きになで開墾され豊かな有田を形成している
   遂に寛永11年(1634年)江戸の市場に有田みかんが登場し、1籠半が金子1両という高価な値段で取り引きされた。有田みかんの品質の良さによって名声は高まっていき、「沖の暗いのに白帆が見える」と歌われた紀伊国屋文左衛門の登場となるのである。

注) みかんは今一般的な温州みかんではなく小蜜柑と呼ばれる品種である

 豊かな今日、私達は改めて先人のご苦労に思いを留め、深い感謝を表すことができるに違いない。また今日幾十億もの人々が貧窮にあえいでいる現実もまた、私達の心を打つ。世界中の人々が互いに助け合うとき、素晴らしい世界が出来上がるに違いない。


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