村上 龍氏 希望の国のエクソダス


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  目 次

1. 村上龍氏との出会い
 村上龍さんと出会った経緯を説明します。
2. 「希望の国のエクソダス」あとがき
 村上龍氏が希望の国のエクソダスを書いた経緯を語ります。
3. 書評「希望の国のエクソダス」
 新聞に載った希望の国のエクソダスの書評です。
4. 「希望の国のエクソダス」取材ノート 目次
 「希望の国のエクソダスの取材ノート」の目次です。
5. 『希望の国のエクソダス』取材ノート 物語が情報を捉える瞬間
 『希望の国のエクソダス』が生まれるまでを村上龍氏が語ります。
6. 「失われた25年」を問う 1〜5
 5回にわたる村上龍氏の新聞への連載で、作者の生い立ち、作品の背景などを語ります。
7. 20世紀のおわりに
 新聞に載った世紀の変わり目での村上龍氏のコメントです。
8. 働くということ
 村上龍氏は「早くから自分で考え、自分にあった職業を見つけることだ」と主張しています。
9. 13才のハローワーク
 村上龍氏の近著(2003.11)の紹介で、この本では自分の好奇心を、将来の仕事に結びつけるための、選択肢を紹介しています。
10. 人生における成功者の定義と条件
 安藤忠雄氏、利根川進氏、カルロス・ゴーン氏、猪口邦子氏、中田英寿氏の5人との「成功者とは何か」ということについての対談集です。
11. 限りなく透明に近いブルー
 表題の作品のあとがきです。
12. 村上龍、ネットで経済問題を考える
 村上龍氏がMM(メールマガジン)を始めたときの新聞記事です。
13. JMM(Japan Mail Media)
 MM(メールマガジン)の例としてJMMを紹介しています。

1 村上龍氏との出会い
 随分前に『限りなく透明に近いブルー』を読んだことはありましたが、しばらく氏の作品からは、遠ざかっていました。それが「インターネット」の「メールマガジン」の項でも書いたように、多分今年(2000年)の2月下旬の放送だと思いますが、「週刊ブックレビュー」で村上龍さんがインタビューに登場し、JMM(Japan Mail Media)のことを話しました。そこで早速インターネットで検索するとJMMが見つかりました。
 それから、立て続けに出版された「共生虫」と「希望の国のエクソダス」を読み、ここでは後者と、その「取材ノート」(単行本として発売されている)を取り上げます。「希望の国のエクソダス」を読むきっかけになればと思います。

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2「希望の国のエクソダス」あとがき
 「龍声感冒」というわたしの読者が作るインターネットサイトの掲示板で、今すぐにでもできる教育改革の方法は? という質問をした。もう四年近く前のことだ。正解者には何か景品を出すということにして読者の興味を煽ったのだが、残念ながら正解はなかった。
 わたしが用意した答えは、今すぐに数十万人を越える集団不登校が起こること、というものだった。そんな答えはおかしいという議論が掲示板の内部で起こり、収拾がつかなくなった。
 教育でも、他の問題でも、改革を行うためには、基本的には法律を変えなくてはならない。法律は国会で制定される。最近では議員立法も増えてきたようだが、たいていの場合は官僚が準備し、国会議員の賛成多数により法として機能するようになる。
 その煩雑な手続きが民主主義と呼ばれるわけだが、わたしはそれを嫌悪しているわけではない。ただわたしは、教育に限らず、法律の改正という煩雑な手続きを前提にしない空疎な論議が多すぎることに苛立っていた。
 だが、「数十万人を越える集団不登校」というわたしが用意した答えは、わたしの読者の掲示板で受け入れてもらえなかった。「何だ、そんな答えだったのか」という人もいた。それでわたしは中学生の集団不登校をモチーフに、小説を書くことにしたのである。

 この小説は、著者校正をしながら、自分で面白いと思った。そんなことは実は初めてで、なぜ面白いと思ったのか、いまだにわからない。わたしの情報と物語が幸福に結びついたのかも知れない。
 近未来が舞台だったので、大勢の専門家の話を聞いたし、たくさんの人に取材した。取材ノートの一部は単行本として発表することになると思う。

 国連難民高等弁務官事務所の山本芳幸氏(パキスタン・イスラマバード在住)にはこの場を借りて感謝の意を表したい。山本氏とはわたしの読者のHPの掲示板で知り合った。この小説の発端となるパキスタンの北西辺境州の取材は山本氏の協力がなければ実現しなかった。

 月刊「文芸春秋」の連載時、当時の編集長・平尾隆弘氏と担当編集者の山田憲和君の誠意ある助言と協力を仰いだ。また出版の際には出版局の村上和宏氏と担当の森正明君にお世話になった。
 すばらしい装幀は、いつもの通り、鈴木成一氏である。
 みなさんに感謝します。
  2000年7月 横浜                                村上龍

参考文献『モンゴル帝国の興亡』杉山正明著(講談社現代新書)
初出「文芸春秋」平成十年十月号〜平成十二年五月号

村上籠(むらかみ・りゅう)
1952年、長崎県佐世保市生まれ。
武蔵野美術大学中退。大学在学中の76年に『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞、芥川賞を受賞。著書に『愛と幻想のファシズム』『コインロッカー・ペイビーズ』『トパーズ』『KYOKO』『五分後の世界』『イン ザ・ミソスープ』『共生虫』などがある。
『希望の国のエクソダス』オフィシャルサイト・アドレス  http://www.Ryu-Exodus.com

希望の国のエクソダス
平成十二年七月二十日 第一刷発行
文芸春秋社(\1571+消費税)

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3 書評「希望の国のエクソダス」
「希望だけがない」日本社会を直視
 不登校の中学生、数十万人のネットワークのリーダー的存在、ポンちゃんが円暴落による通貨危機の最中、中継で国会に参考人として招致され演説するところが本書のヤマだ。そこまで、読み手の関心を強く引っ張ってきた本書のドライヴはその後、急に失速してしまう。なぜか。
 村上龍は前作『共生虫』最終章の執筆中に「希望について考えた」という。今作で言えば、右記の国会中継シーンが書かれた頃だろうか。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」。少年のこのメッセージは小説の構想時から用意されていたのかもしれないが、それを小説の文脈に実際に書きとめたとき、作者は、描こうとしていた「希望」をめぐって根本的な疑問を感じたのではないか。今の日本の社会は希望を必要としているのだろうか、と。
 作者はポンちゃん自身にこう演説させている。「ぼくは、この国には希望だけがないと言いました。果たして希望が人間にとってどうしても必要なものかどうか、ぼくらにはまだ結論がありません」。
 また、結末、かつての不登校中学生達が北海道に「希望の国」を建設するが、ポンちゃんたちに共感し、娘に彼らのネットワーク名にちなんだ名前すらつけた主人公はそこで暮らす決心がつかない。「おれはまだ結論を出していない」。それが本書の結語なのである。
 いずれの場合も、「結論」を宙吊りにして思案しているのは作中人物ではない。作者自身である。その迷い、揺らぎのみがこの小説で唯一リアルなものとして伝わってくる。
 本書は、作中人物を狂言回しにしてまで金融に関する情報を大量に盛り込んで、危機と希望のメッセージを伝えようとしている。だが、希望のメッセージはもちろん、危機のメッセージも、最終的には届いてこない。ただ、作者が結末に用意した「希望」に対する作者自身の懐疑のみが印象に残る。それを是とするにせよ、非とするにせよ、読者が作者と対峠すべき場所はそこである。(文芸春秋・1,571円)
   文芸評論家 山城 むつみ

 むらかみ・りゅう 52年生まれ。武蔵野美術大中退。76年、『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞。『愛と幻想のファシズム』など多数の著書がある。
(出典 日経新聞 2000.9.24)

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4 「希望の国のエクソダス」取材ノート 目次
■まえがき
物語が情報を捉える瞬間 『希望の国のエクソダス』が生まれるまで−−−7
村上龍

■インタビュー
円は没落するか−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−13
林康史(大和証券投資信託調査本部長付主任研究員)

サイパースペースのギャングたち−−−−−−−−−−−−−−−−−31
伊藤穣一(株式会社ネオテニー代表取締役&CEO)

「円圏」の可能性−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−43
関志雄(野村総合研究所上席エコノミスト)

暴走族、チーマー、ギャング−−−−−−−−−−−−−−−−−−−61
鬼丸、ケンタ、リョウ

「地方」を再生させるために−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−79
宮脇淳(北海道大学大学院教授)

ヘッジファンドが国を乗っ取る−−−−−−−−−−−−−−−−−−−95
田中宇(国際ジャーナリスト)

コミュニケーションに飢えた子供たち−−−−−−−−−−−−−−−115
寺脇研(文部省政策課長)

「共同体」が滅びる?−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−135
金子勝(法政大学経済学部教授)

インターネット・クラッキング−−−−−−−−−−−−−−−−−−−151
竹中直純(デイジティミニミ代表取締役)

円暴落のシナリオ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−165
北野一(東京三菱証券エクイティ・リサーチ部チーフストラテジスト)
中江史人(スタンダード・チャータード銀行為替資金証券本部営業本部長)

老人を捨てるのか−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−183
村山正司(新聞記者)

中学生たちは何を考えているのか−−−−−−−−−−−−−−−−193
都内私立男子中学三年生

相場のエクスタシー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−209
松田哲(オーストラリア・コモンウェルス銀行東京支店為替資金部チーフディーラ)

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5 『希望の国のエクソダス』取材ノート 物語が情報を捉える瞬間−−『希望の国のエクソダス』が生まれるまで

『希望の国のエクソダス』という長編小説が明日発売されようとしているという日に、この「前書き」を書いている。今は、七月の中旬の良く晴れた日の午後で、梅雨はもう終わったようだ。ものすごく暑い。部屋にはエアコンが入っているが、頭がボーつとしている。ボーつとしているのは、暑さのせいだけではないと思う。
 『希望の国のエクソダス』という小説を「文芸春秋」本誌に連載中、多くの人に取材した。その一部をまとめたのが本書なのだが、その前書きをこうやって書いていて、これほど頭がボーっとしているのは、インタビューをしたときのことを「思い出せない」というわけではなく、どうもわたしは「思い出したくない」ようだ。

 わたしはよく夢を見るが、この歳まで生きてきて、夢にパターンがあることに気づいた。もっとも多いのは「逃亡」だ。とにかく追われていて、常にわたしは逃げている。次に多いのは「隠匿」で、わたしは重大な秘密や証拠品を隠している。それはいずれ発覚するのだが、わたしはそのことに怯え続けるのである。
 次いで多いのが「公衆の面前で未経験のことを実行する羽目になる」というものだ。夢の中でわたしは、ボクサーやベーシストやスカイダイバーやスタントマンをやる羽目になる。健康維持のためにボクシングを始める、ということではない。ボクサーとして、タイトルマッチを戦う羽目になっているのだ。なぜ自分がボクサーとして大勢の観客の前でボクシングをやる羽目になったかは、決して明らかにならない。とにかくボクサーとしてリングに上がるのだ。
 どうして五十歳近くにもなってボクシングをやらなければならないのか、とわたしは一人で嘆くが、状況的に決して逃げられないし、また不思議なことに自ら逃げようともしない。そして夢の中にコーチが現れる。わたしは必死にコーチに教えを乞うが、コーチの言う通りにパンチを繰り出すことはもちろん、コーチの言っていることを理解することさえできない。
 この取材ノートに登場するさまざまな分野の専門家に話を伺うとき、夢の中でボクシングのコーチに教えを乞うている感じに似ていると思った。
 東京近郊の街に、鬼丸氏とケンタさんとその仲間たちを訪ねたとき、彼らのアジトとなっている洋服屋には六、七人の「正真正銘の不良」がいて、その中の、当時十四歳のリョウ君におもに話を聞くことになった。わたしは緊張していたが、彼らは非常に礼儀正しく迎えてくれて、まだ幼さの残るリョウ君の話を引き出してくれたりした。
 鬼丸氏やケンタさんというどこか趣のある不良と違って、リョウ君は何かつるんとした感じがした。十四歳という年齢からすると当然かも知れないが、未知の人間だという感じがした。今、人を刺したり、バットで殴り殺したりしている少年たちは、鬼丸氏やケンタさんとはまったくタイプが違う。最近の少年については、「おとなしくていい子だったのに」というような近所の人のコメントがよく新聞に載る。リョウ君にはそういった「少年」のイメージがあった。
 都内の有名私立中学の生徒四人に会ったのは、ちょうど二年前の今頃、連載開始の直前だった。彼らと会った日も暑かった。わたしたちはその中学の近所の和食屋で、「しゃぶしゃぶ食べ放題」の昼食をとりながら話した。昼間からしゃぶしゃぶを食べるのは初めてです、と彼らは言って、ぼくもそうだよ、とわたしは言った。
 四人の中の一人は学年全体で成績がトップらしかった。穏やかで、明るい子だった。彼がポンちゃんのモデルになっている。他の三人も一様に礼儀正しく、おいしそうにしゃぶしゃぶを食べた。食べ放題なのでこの際死ぬほど食べておこう、みたいな食べ方をしたのは同席した編集者で、中学生たちは昼間のしゃぶしゃぶに対し冷静だった。その他の方々とはおもに西新宿のわたしの常宿のホテル内でお会いした。部屋でコーヒーを飲みながらという取材もあったし、チャイニーズのランチも、フランス料理やイタリアンも、バーでビールを飲みながらということもあった。
 そういったインタビューをわたしが忘れてしまっているわけではない。充実した時間だったし、取材のあと何人かの方々とは友人になった。主宰するJMMというメールマガジンの寄稿家になっていただいた方もいる。
 充実した取材で充実した時間だったが、楽ではなかった。わたしが「思い出したくない」のはそのためで、本当に大変だったのだ。彼らに何を聞くか、あらかじめ準備はしていくのだが、どうしてその情報が必要かを、わたしが把握しているだけではなく、彼らに理解してもらわなくてはいけなかった。
 つまり、まずポンちゃんやASUNAROが考え実行することを自分でシミュレーションしなければならなかった。近未来を描いた小説だし、そのわたしのシミュレーションが間違っていないとは限らない。わたしはわたしの都合のいいように物語を展開することはできなかった。八十万人の中学生が集団不登校を始める、『希望の国のエクソダス』を書き始めるときに決めていたのはそれだけだ。
 彼らは学校に行かないでいったい何を始めるのか。実際彼らに何ができるのか。そのときの社会的背景はどうなっているのか。
 インタビューをお願いする人たちに、まず小説の輪郭を伝え、そしてわたしが必要としている情報を提供してもらうのだが、それは簡単なことではなかった。近未来なので可能性は無限にある。彼らが可能性として語ることの、どの部分が本当に必要な情報なのか、インタビューの最中に決めなくてはいけないこともあった。
 そして彼らが示してくれる可能性は、そのすべてがわたしの専門外の情報だった。個人的にはまったく興味のないこともあった。だがわたし自身の興味などどうでもよくて、重要なのは『希望の国のエクソダス』という小説にとって必要な情報かどうかということだった。
 まず小説の輪郭を説明する。その上で、小説のどの部分に、どのような情報が必要かを説明する。彼らの話は程度の差はあれ専門的だ。わたしは、わからないことはわからないと言わなければならない。専門外のことをわたしがどの程度理解しているのか、それがわからなければ彼らも情報を提供できない。そうやってしばらく話してみて、わたしのシミュレーションがまったく的外れだとわかることもあった。
 だが、シミュレーションが間違っていなければ、抗体の受容体が異物を捉えるときのように、何かがカチリと合う瞬間が訪れる。彼らの情報を、物語が捉える瞬間だ。その瞬間が訪れるまで、わたしはまるで夢の中でタイトルマッチを戦うボクサーのように、専門外の事象と格闘しなければならなかったのだ。そういう作業が単純に楽しいわけがない。いずれにしろ、作家一人の情報などたかが知れているのである。
『希望の国のエクソダス』という作品には、大勢の人々の情報やアイデアがジグソーパズルのようにつながっている。もちろんその情報やアイデアをつないだのはわたしなので、文責はすべてわたしにある。この場を借りて、この本に収めた方々だけではなく、『希望の国のエクソダス』のためにお話を伺ったすべての方々に感謝を申し上げたい。       村上 龍

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6 「失われた25年」を問う 1〜5
第1回(連載5回)
■日本で一番弱ってしまったのは金融システム
  「自分はまだ知らない」問いかけが大切
  宅急使と僕の小説に共通点


 デビュー以来、四半世紀、時代の先端を走ってきた小説家の村上龍氏(48)。最近は日本の経済・金融に強い関心を示す。インターネットを使ったメールマガジン「JMM」の編集長として、バブルとは何だったか、日本経済はいつ方向転換したかなどを問い直す。

 いま、ほとんどの日本人が言葉にならない不安感を持っているのではないでしょうか。この十年、日本の金融システムは、不良債権、金融改革の遅れなど、根本から腐り、機能不全を起こしています。お金が、日本の体内をうまく回らなくなっている。僕が金融に強い関心を持つのは、日本で一番弱ってしまったのが、金融システムではないかと思うからです。
 マルクスではないが、精神の持ちようは経済に左右されますね。僕は、高度成長、土地神話、終身雇用制度、護送船団方式などの中で、日本人の精神性が形成されていくのをみてきました。
 僕が「失われた十年」ではなくて「失われた二十五年」というのも、高度成長の終わりあたりが日本の転換期だったのではないか、と考えるからです。バブルの崩壊以前に、日本の金融システムはもう根本から腐っていたと思うんですよ。僕は1970年代の終わりに『コインロッカー・ベイビーズ』を書いたけれども、家庭内暴力、いじめ、自殺、校内暴力などは、70年代に起きています。

 メールマガジン「JMM」は週三回配信で、七万人の購読者がいる。経済・金融の専門家とネットワークを作り、『通貨を語る』『財政危機のゆくえ』などの本を出した。百冊以上の経済書を読み、多くの学者、金融マン、経営者と対談してきた。

 いま大切なのは、自分はまだ知らない、と問いかけることではないでしょうか。論議の前提となる経済の実態がどうなっているかを知ることだと思うんです。最近、よく一人一人が個として自立し、自己責任においてリスクを負うべきだ」といいますが、これには矛盾がありますよね。
 日本人には「個人」という概念は希薄だし、「リスク」という言葉もきちんと翻訳されていない。僕が日産自動車のカルロス・ゴーン氏に会ったのも、彼が日産の最初の会議で「まず言葉の定義をきちんと決めてから話そう」といったと聞き、興味をもったからです。
 ヤマト運輸の小倉昌男さんには『経営学』という本に感銘を受けて会いました。宅急便と僕の小説に共通点があるように思えたんです。僕が『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞したのは76年ですが、宅急便は同じ年に誕生しています。
 当時、僕の小説は、評論家からそれまでの日本文学と決別しているといわれましたが、最初にネットワークを構築して、新しい需要を喚起するという宅急便の発想はドラスチックで、戦後経済の転換を象徴していましたね。
 東大の吉川洋教授には、彼の『高度成長』や『転換期の日本経済』を読み、会おう、と思いました。当時、高度成長の終わりにバブルが発生した遠因や戦後経済の転換期を見る視点は、月刊誌「文芸春秋」 (97年9月号)に「寂しい国の殺人」を発表した僕と彼の二人だけだったような気がします。吉川さんと僕は同世代です。同じ世代の作家と学者が似た認識を持ったことは、興味深いことではないでしょうか。    (聞き手は 編集委員 浦田憲治)

第2回
■経済・金融へのこだわりを小説に反映
  共同体に依存せず、個人の価値を見つけるべき
  ITには魅力感じるが今の風潮には疑問も


 経済・金融問題へのこだわりは、小説に反映されている。最新刊『希望の国のエクソダス』は、中学生の集団不登校、情報技術(IT)革命とインターネットビジネス、出口の見えない日本経済などが描かれている。『愛と幻想のファシズム』(1987年)では、巨大な穀物メジャーを描いたが、最近の関心は国際金融資本だ。

 月刊「文芸春秋」に連載中は、サッカーでいうと、アウエーで試合するような感じでしたね。保守本流というか、時の首相がインタビューに登場するようなコンサーバティブな雑誌ですから。セックス、ドラッグ、SM、暴力などを使って、日本の共同体を突破する人間を登場させてきた僕の小説のファンとは、明らかに読者層が違います。しかし、それが逆に緊張感となって、結果的には良かったと思います。
 百万人ぐらいの生徒が教室からいなくなれば、いくら何でも日本の教育はドラスチックに変わらざるをえないんじゃないか、という思いがまずありましたね。それをいくらエッセーやコラムで書いても読者には伝わらない。物語の力を借りることにしました。集団不登校の中学生たちが自力でネットビジネスや為替取引で大もうけして、北海道に半独立国をつくるという話です。
しかし、ストーリーが大胆なだけに、荒唐無稽(こうとうむけい)になったら、金融や経済に詳しい読者には相手にされませんよね。背景となる実体経済や政治の流れをリアルにしっかり描くことが不可欠です。そこが苦労した点で、経済人に会ったり、色々と勉強してきたことが役立ちましたね。

 この小説では、だれも本当の危機感を持てずに、致命的な病巣を抱えたまま、ゆっくり死んでいく日本経済の状況が生々しく描かれている。教育やメディアなどのシステムの機能不全に目を向ける。「もうやっていられない」とネット世代の少年たちは大規模な反乱を起こす。エクソダスは「脱出」という意味だ。

 高度成長の終わりの70年代末に、日本は大きく転換したのに、様々な分野でそうした変化にまったく対応できていません。変化に対応できる情報やコミュニケーションスキル(技量)も持たない。教育システムも同じで、大人たちは変化がわからないし、子供に変化のアナウンスもしてませんね。
 国家、企業、学校に依存していれば、安心感や希望を得られる時代ではない、と僕は思うんですよ。個人が共同体に依存せずに、それぞれが価値を見つけるべきではないでしょうか。ただ個人の概念が未発達なので簡単ではありませんが。この小説の登場人物たちは、共同体に寄りかからず、家族とか友達とか、最小限の形でつながって生きていくんです。

 中学生たちが武器にする様々な新しいネットビジネス。多くの専門家に取材した。

 サバイバルの手段としてネットビジネスの可能性に注目しました。しかし、僕は決してIT革命が万能とは思いません。ITには大きな魅力がありますが、情報格差などのマイナス面もあり、良い面と悪い面を併せ持っています。「アメリカがやっているから」と、高度成長の時の文脈で日本人全体がIT革命になびく風潮には疑問も感じますね。   (聞き手は編集委員 浦田憲治)

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第3回
■キャンプのような暮らしに強烈な印象

  米軍基地のそばで現実思い知る
  芥川賞受賞、自信にはならぬが自由を得る


 1952年、基地の町・佐世保市に生まれた。父は美術教師、母は数学教師で教育一家だった。

 僕が生まれたころはまだ日本全体が貧しく、僕の家も同じでした。最初、祖母の家に同居していたんですが、それでは絵がかけないというんで、父は山奥に小さなアトリエを建て、僕も六歳ぐらいまでそこにいました。タヌキが出たり、離れた所から水をくんでこなければいけないような不便な所でキャンプみたいな暮らしでした。その記憶が僕にとって一番強烈なんです。『コインロッカー・ペイビーズ』や『五分後の世界』などの作品には、そのサバイバルが影響しているんです。
 小学生の時に、祖父の家の近くに引っ越したんです。米軍基地が眼下にあり、町内の将校用ハウスには日本女性と将校が住んでいたりして、国際的といえば国際的ですが、子供にとってはすごくリアルな現実でした。中学校が基地のすぐ横にあって、土手で米軍兵士と日本女性がキスとかしているのが教室から見える。あわてて教師がカーテンを引くんですが、僕らには何をしているのかがわかるんです。同級生の中には進学しないで兵士とくっついてしまった女の子もいましたね。

 十六歳の時、反代々木系全学連の米原子力空母エンタープライズ入港阻止闘争を見て、強い衝撃を受ける。

 いま考えると僕にとって二重の意味がありましたね。なにげなく通っていた佐世保橋で機動隊と学生が衝突し、催涙弾が飛び交い、血が流れた。非日常的な暴力の世界が現出したんです。いまは平穏で、人が行きかう世界も、何かの要素が混入すれば、そこが戦場になったり修羅場になることを現実として知ったことです。
 もう一つは本物のパワーを見てしまった。中核派の二人が基地に突入したんですが、すぐつかまるんです。それでべ平連が「べトナムから手をひけ」などとシュプレヒコールをやるんですよ。ところが、エンタープライズから飛び立つ戦闘機の「キーン」という爆音が大きくて何も聞こえない。アメリカの方が圧倒的に強く、これはもうダメだ、と感じました。
 上京してから一回デモに行きましたが、あのリアルな「キーン」という爆音から自分がいかに速く離れているかと思いました。デモをしたからといって、リアルな世界に参加できるわけではないと、一種の閉そく感を感じました。

 76年、『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞と芥川賞を受賞。石原慎太郎氏の『太陽の季節』以来の社会的事件として、マスコミの話題を独占し、24歳の村上氏は一躍スターとなった。同書はこれまでに380万部も出ている。

 月に5万円の仕送りで、汚いアパートで暮していたんですが、最初の振り込みで、20万部分、金額にして1,400万円くらいが入ったんです。「これで自由だ!」と思いましたね。敵視してきた権威に認められても、僕にはうれしくなかったし、自信にもなり得ませんでした。
 しかし、お金は別。「ジャイアンツ」という映画で、ジェームス・ディーンが、ロック・ハドソンの家族からいじめられて、最後の方に石油を掘り当てて喜ぶシーンがあるでしょう。「自分は自由だ!」とか叫ぶ。あれですね。経済的な自立こそが、その人にある種の自由を与えると僕は思うんですよ。      (聞き手は 編集委員 溝田憲治)

第4回
■完全に納得できた「コインロッカー・ペイビーズ」
  瞬間的に隠喩が浮かんだ20代
  日本の文脈に違和感持ち続け小説の材料に

 1976年に『限りなく透明に近いブルー』、77年に『海の向こうで戦争が始まる』を発表してから三年、本格的な小説は書いていない。ラジオのディスクジョッキー、海外旅行、映画製作などを楽しむ。「小説が書けなくなったのか」といった不安を吹き飛ばしたのが80年の『コインロッカー・ペイビーズ』だ。

 『限りなく透明に近いブルー』で一躍、スターになってしまったわけだけど、たまたまの事故ではなかったのか、という思いがありました。次の長編では、失敗してもいいから、自分自身が完全に納得できるものを書きたいと思ったんです。一年集中して書きましたよ。
 この小説で、初めて小説家としての自信のようなものを持つことができました。このくらいのレベルのものが書けたという自信ですね。僕の代表作というだけでなく、いつでも不安になったらそこに戻っていける作品となったんです。
 バラバラとページをめくると、主人公のキクとハシが僕を支えてくれるんです。もういまはあのような小説は書けませんよね。詩人のランボーではないが、二十代の終わりにしか書けない作品なんです。あのころは、脳細胞が活発で、メタファー(隠喩=いんゆ)を考えると、ヒューと瞬間的に浮かんできましたね。
 キクとハシは、僕という人間をわかりやすく投影してますね。僕の中には、小説をつくる自閉的で内向きな部分と、キューバに行ったり、音楽をプロデュースしたり、映画をつくったりする行動的で外向きの部分があるんです。それがパラレルになっていて、自閉的だとおかしくなるんですが、外部と接触して、また自閉へと戻るんです。

 80年代に、長編の近未来政治小説『愛と幻想のファシズム』と、風俗産業で働く女性を主人公にした短編集『トパーズ』の二つの記念すべき作品を出した。

 『愛と幻想のファシズム』は、政治、経済、資本などのシステムや国際的な動きを初のて意識した作品だったと思います。実は最初から意識していたのではなくて、書いている途中で泥縄的に勉強したんで、出来には少し悔いが残るんですよ。自分とアメリカとの関係を見据えて、物語に投げ込みました。
 80年代の日本は、エズラ・ボーゲルの著書のような「わが世の春」をおう歌していました。しかし、僕はそうした日本に対して「違うぞ!」という激しいいら立ちがあって、この小説を書いたんです。
 もう一つの『トパーズ』も、この日本のシステムから逃避してSMクラブで働く女性たちの内面を、彼女たちの言葉でリポートしようと思ったんです。そこでは僕は彼女たちを批判も擁護もしてません。この小説にはなぜか女性ファンが多いんですね。『限りなく透明に近いブルー』に次いで人気があります。

 『ラブ&ポップ』で援助交際、『イン ザ・ミソスープ』で外国人犯罪、『共生虫』で引きこもりと日本社会が抱える困難な題材に挑戦してきた。

 日本の共同体を外側から見て、その内と外のギャップを描いてきました。日本には、解答を見いだせない病んだ部分が多いんですが、日本の中の文脈ではなんとなく納得してしまったりする。しかし僕は簡単に理解せず、違和感を持ち続ける。それを小説のモチーフとしてきたんです。     (聞き手は編集委員 浦田憲治)

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第5回
■日本近代文学の最後の作家かも知れない
  サッカー中田英寿選手の登場はうれしい
  一人一人が開き直れば日本は変わる


 新しく芥川賞の選考委員に加わり、宮本輝氏に続く戦後生まれの委員となった。七月の選考会では宮本氏とともに、受賞作に否定的意見を述べた。

 作家同士の会には、ほとんど出ないんですが、選考会は非常にいい雰囲気でしたね。全員が自分の文学観に従って自由に言いあうんです。不謹慎かもしれませんが、とても楽しかった。
 僕が反対したのは、レベルに達していないとか、不快だとか、文学観が違うとかではなくて、作品が単純につまらなかったからですよ。
 ある国の文学が常に生き生きしていることはあり得ないですね。例えば、カミュやサルトルやジュネがいたころのフランス文学はすごかったけれど、そのあと出てこなくなってしまった。日本の近代文学も、高度成長のころまでは、近代化とのあつれきや、個人と共同体の葛藤(かっとう)のドラマを生みだしたわけだけれど、すでにその図式はなくなったと思うんです。それはどういうことなのか、僕ならもっと考えますね。 僕は、死んだ中上健次が日本近代文学の最後の作家だと考えていたんです。僕の小説は、近代文学からは切れたと思っていた。ところが先日、小熊英二さん(慶応大助教授・社会学)と対談した時、共同体への違和感をモチーフにした僕の小説がたくさん売れるのは奇妙だ、という話になったんです。
 『希望の国のエクソダス』で、僕は80万人の不登校児がいれば、80万通りの理由があると書いた。日本でいま10万人が旧来のシステムと衝突を起こしているなら、10万通りの理由があるが、衝突を起こしている点では共通していて、その10万人が僕の小説を買っている、と言った。そしたら「それなら村上さんは最後の近代文学の作家じゃないですか」と小熊さんが言うんです。説得力がありましたね。
 インターネットの読者の感想をみても「クズとかいわれてひとりぼっちだったが、村上さんの小説を読んで勇気づけられた」というのが多いんですよ。

 年齢は違うが、サッカーの中田英寿選手と親しい。好きなこと、やりたいこと、感動したことを率直にいう姿勢で一致する。

 中田英寿のような人間が出てきてうれしいんですよ。最近、世間ということをよく考えます。雪印乳業にしても、経営陣がテレビカメラ、つまり世間に向かって謝るでしょう。あれを外国人はおかしいという。僕もそう思う。僕の小さいころは世間が機能していて、近所のおじさん、おばさんが就職の世話をし、結婚相手を探してくれたでしょう。ところが、いまはそんなことはしません。世間は個人に利益を供与できなくなった。
 しかし、いまだに世間が機能しているような文脈で動いているんです。中田選手は世間の力を借りずに自分の力だけで活躍していますが、日本の文脈では「みなさんと心は同じです」と言わないと浮いてしまうんです。中田は正直だから絶対にそう言わない。
 僕がキューバを好きなのも、アメリカの支配に屈せず、ずっと長い間、楽しそうにしているからです。キューバを知ったことで日本とアメリカを絶対視せずに、この二つの国を客観的に見られるようになり、視点が広くなった気がする。それとやりようによってはなんとかなるということも。いまリストラとか色々と困難な問題が起きてますが、一人一人がなんとかなると開き直れば、日本もかなり変わるのではないでしょうか。   (聞き手は編集委員 浦田憲治)
(出典 「失われた25年」を問う 1〜5 小説家 村上 龍氏 日経新聞夕刊 2000.8.28〜9.1)

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[Last Updated 10/31/2004]