大田区の散歩道8
六郷用水
  目 次

1. いきさつ
2. 概要
3. 道の種類
4. 標識の種類
5. 歴史
6. まとめ
7. 個別の水路
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1. いきさつ
 大田区を歩いていると「六郷用水」と書かれた碑を方々で見かけます。私が良く行く池上図書館の前にも碑があります。そこで関心を持ち、図書館で調べてみました。すると我が家の近くにある大田区の郷土博物館に資料があるらしいとわかりました。
 たまたま昨年(2009年)秋、館内の展示が更新されたとき、見学に行き「六郷用水」のことを訪ねたところ、ミニノートと水路全体を表示した地図を入手できました。11月の下旬から今年(2010年)の1月中旬にかけて精力的に歩いた結果、ほぼ全容を知ることができました。そこで、まず全体の概要をご紹介し、あとは数ヶ月かけて個々のルートをご紹介しようと思います。

2. 概要(地図)
1) 徳川家康の命を受けて、小泉次太夫(1539〜1623)が工事を行いました。
2) 和泉村(現在の狛江市)で取水し、多摩川とほぼ平行して現在の東急東横線の多摩川駅の近くを通り、東急池上線千鳥町駅の近くで北と南に分流させ、北堀と南堀に分けました(南北引分)。
3) 北堀は千鳥町からほぼ東に向かい、池上警察署の近くで国道1号を渡り、池上通り沿いに春日橋(環7のJR東海道線の跨線橋)まで延びています。
4) 南堀は千鳥町から南下し、環八との交点の近くで国道1号を渡り、東急多摩川線の「矢口の渡し」の蒲田寄り(正確には環八が多摩川線と立体交差するあたり)で環八を西に渡り、JR蒲田駅西寄りの引き込み線のあたりで分流し(蛸の手)、東京湾に注いでいます。
5) 六郷用水跡は殆ど埋め立てられ一般道になっていますが、部分的に水路が復元されたり、緑道(植え込みのある遊歩道)になっています。
6) 資料としては、大田区立郷土博物館で発行したミニノートと地図があります。
7) 六郷用水跡がたどれるように、要所々々に標識などが建てられています。
8) これらの地図や標識を便りに、主なルートを歩いてみました。
9) 当然のことながら、用水の跡は近年作られた直線に近い道路とは異なり、曲がりくねった道になっています。

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3. 道路の種類
  実際に六郷用水跡の埋め立てられた道を歩いてみると、その形によって5種類に分類されます。
 1   普通の道 暗渠にした跡は普通の道で、場所によっては歩道が付いています。
写真は東急池上線千鳥町近くの歩道のある道で、歩道には「南北引分」のタイル(左のまだらのポールの右下)があります。
 2  緑道(植え込みのある遊歩道) 暗渠にした跡を遊歩道とし、左右両側に植裁(植え込み)があって、散歩道として最適です。
写真は池上通り堤方橋付近、中土手近くで、突き当たりの藤棚の下に、わずかに標識が見えます。
 3  川沿いの道 水源から多摩川(東急東横線多摩川駅近く)までは丸子川(現存する六郷用水)が流れ、その脇に道があります。
写真は「お鷹の圦堰」から見た道路で、左方の金網の中が丸子川です。
 4    復元水路 六郷用水路を復元して、その脇を遊歩道としたものです。多摩川(東急東横線多摩川駅近く)から沼部駅(東急東横線)近くまでと、大田図書館の近くに続いています。
 5  公園 埋め立てた跡が公園になっています。細長いのが特徴で、河口近くに2ヵ所あります。
写真は南前堀緑地の河口寄りの道で、歩道の先に北前橋が見えます。

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4. 標識の種類
  設置されている標識は、その形によって5つに分類されます。
   説明板 六郷用水物語・場所の説明などが詳しく書いてあります。 写真のようにアルミ板に書かれ、成形した枠にはめてあり、スマートです。シンボルとしてジヤバラ(揚水用足踏み水車)の絵が描いてあります。
 2    石碑(木杭) 単に「六郷用水跡」と書いたものや、いろいろと説明文を書いたものなどがあります。 例外的に木杭もあります。
 3    案内板(地図を含む) 説明文の多いもので、地図などと一緒に書かれていることが多いです。看板のような構造です。 
 4    タイル 歩道に埋め込まれています。この写真は東急池上線千鳥町駅近くの南北引分の例で、良く見ていないと見過ごしそうです。。 
 5    ポール 高さ3m位のポールで、太い道を渡るときの目印です。2本並んで立っていることもあります。 

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5. 歴史
 ◎六郷用水は、どうしてできたのか?
 関東を領地とした徳川家康は、慶長2年(1597)に江戸南郊の生産量を高めるため、平坦な低地でありをがら、水不足であった多摩川下流域(大田区域の六郷領と川崎市東部域の稲毛領と川崎領)の水田化をめざし、農業用潅漑用水[かんがいようすい]の工事を命じます。江戸幕府の成立は慶長8年(1603)ですが、用水の測量・開削事業はそれ以前から始まり、多摩川左岸(大田区・世田谷区・狛江市)に六郷用水、同右岸(川崎市)に二ヶ領[にかりょう]用水を開削します。二つの用水工事は同時期に行われ慶長16年(1611)年に完成します。用水は作物を育てる水であることから養水とも書かれました。

 ◎エ事は、だれがおこなったのか?
 元今川家、のち徳川家の家臣となった駿河国富士郡小泉郷(富士宮市)出身の小泉次大夫[こいずみじだゆう](次は治、大は太とも表記。1539〜1623)が監督しました。小泉家は富士山麓の潤井川[うるいかわ]の治水と用水の管理を代々担った地方武士でした。川崎市妙遠寺[みょうおんじ](川崎区宮前町6−5)には次大夫の供養塔があります。

 ◎六郷用水路の仕組みと潅漑地域
  六郷用水の目的は、多摩川左岸の下流域に広がる六郷領35ヵ村への潅漑です。この地域には台地の湧[わ]き水が小川となった呑川[のみがわ]、内川[うちかわ]などの自然の川がありました。しかし、小川であるため村々を広く豊かに潤すことは不可能でした。
 そこで、六郷領より10数キロ上流の和泉村[いずみむら](狛江市[こまえし]元和泉2丁目8番、海抜20数メートル)に多摩川の水を取り入れる取水口を設け、そこから下流に向けて人工的な用水堀を開削[かいさく]します。これが六郷用水の本流です。用水本流は武蔵野台地[むさしのだいち]の縁[へり]である国分寺崖線[こくぶんじがいせん]に沿って約800分の1という緩やかな勾配[こうばい]で世田谷領を流れ、六郷領の矢口村の通称、南北[なんぼく]引分[ひきわけ](大田区千鳥3−8−2付近)まで引かれ、南堀[みなみぼり](蒲田・羽田方面の潅漑)と北堀[きたぼり](下池上・大森・新井宿方面の潅漑)の二手に分かれ、さらに細かな内堀[うちほり](支流)により配水する仕組みになっていました。目の前に多摩川を見ながら、水を吸い上げる動力ポンプもなく、大規模な堰[せき]も作れない当時は、地形を巧[たく]みに利用して遠方まで、自然に水を流し送る方法がとられたのです。
 和泉から矢口の南堀・北堀の分岐点[ぶんきてん]までの本流は約12キロです。用水の全長を約23キロあるいは30キロと記す書物もありますが、取水口からどこまでさすかがはっきりしません。用水は支流・内堀を含めると、その総延長はさらに増加します。

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 ◎六郷用水の管理と利用組合
 六郷領内35カ村では「大用水組合(本組合)」が作られ、幕府から優先的に取水利用できる水利権が与えられ、同時に水路本流の維持と管理の責任も課せられました。大組合とは別に南堀を利用する23ヵ村、北堀を利用する16ヵ村が個別の分流組合を結成(両方に所属の村も一部あり)、さらに細分化する堀単位にも内堀組合が幾つも作られていました。大組合には「御用番[ごようばん]」「触役[ふれやく]」「触次[ふれつぎ]」「才料[さいりょう]」などと呼ばれる用水管理の代表責任者が、時代ごとに農民の中から選ばれました。
 一方、用水路の上流に位置し敷地を提供することから世田谷領は「井筋14ヵ村」と呼ばれ、用水本流の管理の負担を免除され、恩恵的に用水を利用できる仕組みとなっていました。水不足の時は下流の大組合所属の35ヵ村に取水の優先権があるにもかかわらず上流の井筋村々が規則に反して取水するため、たびたび水争いの原因となりました。同じことは大組合や内堀ごとの上・下の村々でもしばしば起こりました。

◎享保期の大改修と田中体愚
  六郷用水の堀幅は時代と場所によりさまざまですが、開削当初の本流が3.6メートル、南堀が2.4メートル、北堀が2.1メートルであったとされています。ところが護岸の弱い取水口は度重なる洪水で破損・老朽化し、取水に支障をきたします。また、下流域の畑に堀が通れば、そこは徐々に水田に造り変えられ、それまでの堀幅[ほりはば]での水量に不足が生じるようになってきました。そこで開削完成から110年ほどした享保10年(1725)、川崎宿の名主から幕府の役人となった田中休愚[たなかきゅうぐ](丘隅[きゅうぐ]・休愚右衛門[きゅうぐうえもん]、1662〜1729)が、用水の本格的な拡張工事を実施しました。取水地から矢口の南北引分[なんぼくひきわけ]までの本流を93センチ、南堀本流を87センチ、北堀本流を57センチずつ拡幅したのです。改修の前後を比べる記録はありませんが、成果は確かであったようで、それが次項で記す『新用水堀定之事[しんようすいほりさだめのこと]』という文書として残されることになりました。

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◎江戸時代から明治までの六郷用水の潅漑面積
 六郷用水の潅漑面積が村単位で記録に現れるのは、用水が完成してから141年後の『新用水堀定之事』(宝暦2年〈1752〉)からです。しかし、記述にバラつきがあるため、六郷領も世田谷領も正確にその全体を把握ことは困難です。推定ですが六郷領35ヵ村で800〜850町歩、世田谷領が100数十町歩の潅漑地域となっていたようです。
 東京府の明治15年(1882)の記録によると、六郷本組合の潅漑面積は996町7反3畝、世田谷井筋地域[いすじちいき]は135町とされ、同31年には1,012町3反7畝24歩(世田谷地区を除く)が六郷用水普通水利組合の潅漑面積として記録されています。この数字が六郷用水の最盛期を示すものと考えられます。
 ー方、対岸のニヶ領用水は、享保2年(1717)の史料によると2,007町4反9畝4歩(稲毛領37ヵ村−1,056町3反9畝15歩、川崎領23ヵ村−951町9畝19歩)を潅漑しています。用水本流は溝の口堀、小杉堀、根方(ねかた)堀、川崎堀などの分流堀で配水されました。
 *1町=10反≒1万平方米=1ヘクタール、1反=10畝、1畝=30歩、1歩(坪)=3.3平方米

◎六郷用水のその後
 大正時代から昭和初期にかけて、大田区低地の水田は、市街地化を目的とした耕地 整理事業により大部分が畑となり、さらに市街地へと変わっていきました。用水路も街 の変化にあわせて姿を変え、幹線を残し、多くの分流は直線化され、都市の生活排水路に性格を変えることになりました。
 昭和21年(1946)に用水組合は廃止され(都告示227号・5月11日)、昭和30年代から40年代にかけて一部の用水路は蓋(ふた)をされ、車道や歩道、緑道として利用され出します。
  昭和50年代に入ると、下水道の普及により、生活排水路に姿を変えていた用水路は不要となり、改修され、親水公園の敷地などに再利用きれ現在にいたっています。

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◎六郷用水のさまざまな呼び名
 六郷用水は潅漑目的地域から六郷領用水とも呼ばれ、工事をした代官、小泉次大夫にちなんで、次大夫堀(じだゆうほり)と呼ばれることもあります。
 また、工事に女性を加えて活気をつけた、女性を労働力としたとの伝説から女堀(おんなぼり、おなぼり)とも呼ばれています。
 女堀には、沼部の浅間神社付近の工事の時、次大夫の夢に富士浅間神社の祭神・木花咲耶(このはなさくや)姫が現れ工事を助言したとの伝説もあります。
 また、古くなったりうまく通水工事ができなかった堀の俗称の媼堀(おうなぼり)が訛(なま)ったとも、勾配が緩やかな堀だからとも説明されます。

[参考図書] 『大田の史話』(大田区1981年)、『大田の史話2』(同1988年)、『小泉次大夫用水史料』(世田谷区教委1988年)、『大田区史 中巻』(1992年)、『ニケ領用水400年』(神奈川新聞社1999年)
(出典 「六郷用ミニノート」大田区郷土博物館編集・制作 2006.3)

6. まとめ
 2009年の11月頃、郷土博物館で全体の地図を入手してから歩き始め、次項のように水路を7に分けて載せることにしました。2010年末に「蛸の手 → 南前堀」を終えたので、一年余りかかったことになります。
1) これだけの農業用水の掘削は、大変な工事だと思いました。特に女堀あたりは逆勾配(川下の方が海抜が高い)になるので、工事が難しかったと思います。
2) 水の大切さを再認識しました。
3) 場所のネーミングなどに面白いところがあります。例「お鷹の入堰(おたかのいりせき)」「女堀(おなぼり)」(いずれも次項の水路1)
4) 大田区が標識などを付けたとき、標識間隔の極端な不同が気になりました。特に「六郷用水5南堀、蛸の手から南前堀緑道まで」は10キロメートル以上標識がなく、コースをたどるのが困難でした。
5) 逆に水路標識(タイル)に、かなり密なところがありました(「北堀の最後、池上通りと並行する部分」と「南堀、六郷用水6の蛸の手から六郷水門東側まで」の南蒲田2丁目のあたり)。
6) コースを考えるに当たっては、水路にこだわらず、歩く際の標識の役割を重んじました。例「北堀の呑川の横断」「蛸の手」など。
7) 各ルートへの行き方としては、自宅からの距離により、歩き、自転車・バス・私鉄の利用を主とし、まれに自家用車を使用しました。
8) 効用としてはウオーキングの機会が増えたことや、区内のバス路線に詳しくなったなどが挙げられます。

7. 個別の水路(右端の色は地図に記入した道路の色に対応します。)
 1  お鷹の圦堰  → 南北引分 大田区の最北の東急東横線の田園調布近くにあるにある圦堰(いりせき)から 、東急池上線千鳥町駅の近くにある南北引分迄です。  
2 北堀-南北引分 → 春日橋  上記の南北引分から東に分かれる北堀で、春日橋(環七の東海道線跨線橋)近くまで延びています。  
 3 南堀-南北引分 → 鮹の手 上記の南北引分から南に延び、JR蒲田駅の西にある引き込み線にあった鮹の手(三つに分かれている)迄です。  
4 新蒲田 → 北前掘緑道*1 上記の途中、新蒲田*1の辺りから分かれて南に向かい、東京湾に注ぐ川で、川下は幅が広いめ、公園のようになっています。  
 5 鮹の手 → 南前掘緑道 3項の鮹の手から南に向かい、東京湾に注ぐ川で、川下は幅が広いため、公園のようになっています。前項とほぼ、平行しています。  
 6 鮹の手 → 六郷水門東側 3項の鮹の手から南に向かい、多摩川の下流にある六郷水門の東側から多摩川に注ぎます。  
 7 鮹の手 → 六郷水門西側  3項の鮹の手から南に向かい、多摩川の下流にある六郷水門の西側から多摩川に注ぎます。  
*1 項目4の東矢口は新蒲田に変更しました(2010.9.30)。

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[Last Updated 3/31/2011]