久しぶりに宮崎の話を。題材は、「てげいっちゃが Memo」、『
みやざきボキャブラ BOOK やっちょっど宮崎人』、『
宮崎共和国のオキテ 100 カ条』の三つ。
「
てげいっちゃが Memo」というのは、名産の飫肥杉を台に使ったメモ用紙で、最初の 4 枚に宮崎弁を並べてある、というもの。土産物屋で売っている。柄で「あれ?」と思った人がいるかもしれないが、宮崎
マルマン製である。
後ろの二つは本。『オキテ』は方言がメインではないので、ちょっと触れる程度になる予定。
『やっちょっど』は、あんまり詳しく書いてないのだが、どうやらラジオ番組で宮崎弁を扱うコーナーがあって、それをまとめたものらしい。したがって、きっかけになるのは視聴者からの投書である。正確に言えば FAX がメインのようだ。この本が最初に出たのは 2000 年らしいので、放送は 90 年代である。
そのせいか、「それ方言じゃないよ」という表現がたくさん出て来る。
気になるのは、“Memo”の方にもそういうのが並んでいる、ということ。『やっちょっど』だけであれば、視聴者からの投稿だから色々あるよね、と納得もできるのだが、だとすると、“Memo”の方もそういう感じで (つまり、詳しい人のチェックを経ずに) 作られたのだろうか。
例えば、「(薪を) くべる」「どやす (叩く)」「(紐で) くくる・しばる」「(お湯が) わく」「えもんかけ (和風ハンガー)」という具合。
前に、「俗語臭を感じると方言だと思う人たちがいる」ということは書いたことがあるように思うが、『やっちょっど』では「古さを感じると」あるいは「子供の頃に使っていたが今は使わない語を方言だと思う」というケースも多いようだ。
「えっちすえけっちわんたっち」「お前の母ちゃんでべそ」あたりが端的な例であろう。地域にかかわらず覚えがある人が多いと思う。
ただ、「子供の頃にだけ使っていた表現を方言だと思う」がすべて間違いかと言うとそうとは言えないので難しい。
例えば、正座に関する表現として「
きんきん」「
ちゃんこちゃんこ」「
ちんちんひざ」、仏壇に向かって手を合わせる行為として「
なんなん」「
にょんにょん」「
のんのん」などが挙げられているが、これはすべて子供向けの表現であり、地域差があるので、方言である。
微妙なラインにあるのは、「
髪をけずる」ではないか。「
けずる」は「梳る」と書くのだが、この字は「くしけずる」とも読む。ちょっと古風な印象があると思うが、ちょっと前の歌謡曲なら出てきそうな表現である。だから、「髪をけずる」を方言だと断定してしまうのにはちょっと抵抗を感じる。
一方で、「
髪をけずる」を方言だと思っている、という記事を書いている人は、岩手と宮崎・鹿児島に多いようで、ひょっとしたら周圏分布の可能性もある。
「
髪をとぐ」「
髪をさばく」あたりなら「方言」と言って差し支えないと思うのだが。
念のために言っておくと、『やっちょっど』は NHK の「
やばたんやこっせん」にも出ている
松永教授が監修しており、解説の方はちゃんとしている。
「くだらない」「つまらない」という意味の「
なんとんしれん」は「何とも知れない」、「
いたらんもん」は「至らない物」だと思うのだが、「
へとんしれん」というのもある。しばらく考えて、「屁とも知れない」ではないだろうか、と思いついた。
別に自分の文章の話をしているのではない。
世代間で違う表現をいくつか。
「
あば」は「新しい」で、「
あたらしい」は「勿体ない」である。
「新しい」を「あたらしい」と答えたら若者、ということらしい。
『オキテ』では、「
こっせん」を使うかどうかを尺度としていた。
多分、「勿体ない」である「
あたらしい」の前半部分は「あたら若い命を無駄にしおって」の「あたら」であろう。
「疲れた」は、今では「
よだきい」が有名かもしれないが、「
のさん」の方が古いそうだ。「
のさん」には、やる前からきつい、やってられない、という語感があるように思うのはよそ者の勘違いか。
「
やぜろしい」という形容詞は「
やぜー」と変化しているらしい。
前から面白いと思っている表現、「
びっきょ部」。
全国的には「帰宅部」。多分、がんばって遡ってもここ数十年というところの表現だと思うのだが、『やっちょっど』では「衰退の一途」としている。確かに、「
びっきょ」という語は使われなくなってきているのかもしれないが、「
びっきょ部」もなのだろうか。楽しい表現なのに勿体ない。
風呂が非常に熱いことを「
風呂がいたい」と言うそうな。感覚としてわかる。
で、そのせいで「入れないよ」ということを「
入いがでけんよ」と言うらしい。「
入い」はおそらく「入り」の変化したものであろう。「入りができない」という組み立ては面白い。
“Memo”にあった中で見当のつかない表現が二つ。
「
てぬちこや」は「一緒に行こう」ということらしいのだが、どこで区切れるのかもわからない。先頭が「手」、後半部は「行こうや」ではないか、と想像したのだが、「
ぬ」がわからない。
「
ぼどおがつじゃが」は「全部、私のです」。「
じゃが」はおそらく終助詞で「だよ」「です」だと思うのだが、その前が皆目わからん。
『やっちょっど』にあった面白いエピソードを二つ。
日向夏をアメリカ人に勧めるとき、「
酸いーと」と紹介したら、“sweet”と解釈されてしまった、という笑い話。
「
げな」は伝聞・様態を示す助詞で、要するに自分で見聞きしたのでない、確たる根拠のない発言をするときに使う言葉だが、これについて「
げなげな話は嘘じゃげな」と言ったおばあちゃんがいるとのこと。上手い。
『オキテ』によれば、街路樹になっているあの木はフェニックスではないのだとか。これはびっくり。今まで、会社の連中が「ヤシ」って言うたび、「あれはフェニックスと言ってだね」と薀蓄を垂れてきたのに。
残念ながら、これらに載っている表現の多くは (特によそものの俺は) 耳にすることができない。
昨年の暮れに家族が遊びに来たときも、「あんまり宮崎弁が聞こえなくて物足りない」と言っていた。
尤も、彼らはその辺の違いを細かく聞き分けられないだろうから (俺も偉そうなことは言えないが) 割り引くとしても、「いかにも」な表現が町中で聞かれない、というのは事実である。
イントネーションは一目瞭然ならぬ一聴瞭然ではあるが、残念ながら活字メディアでその魅力を伝えるのは難しいねぇ。
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