Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第728夜

「け」の距離



 秋田魁新報には「秋田流スタイル」という週一連載がある。食い物とか生活習慣とかを取り上げているが、ときどき言葉のことに触れることがある。こないだ、「」をやっていた。
 にもネタにした、2004 年の秋田市建都 400 年を記念したポスターの「日本にあきたら、秋田に (来い)」のあれ。市の広報の記事がまだ残っているので、忘れた人は見て思い出して欲しい。
 賛否両論だったが、インパクトは絶大だった。翌年も観光ポスターとして継続使用されたとは、この記事を読むまで知らなかった。

 俺の文章では、観光ポスターのことに触れたそれだけでなく、もっとに「」になってしまう表現についてまとめている。
「かゆい」が「」になるのに「濃い」がそのままなのはなんで、とかいう疑問は解消されていないが、色々と例を挙げている。この頃の俺はまだ (比較的) 丁寧に書いてたんだなぁ、と思った。若かった。

 新聞の記事で「へぇぇ」と思ったのは、この「」が高年齢層には評判が悪かった、ということ。
 目下のものに対する命令であって、お客さんに使う表現ではないということらしい。
 それはそうかもしれん。旅館の人とかタクシーの運転手なんかが観光に来た県外人にむかって「」と言ったらまずいのかもしれない。
 だが、丁寧な言葉を使うだけが能でもなかろうと思う。乱暴な言葉は親愛表現のこともある。仮にこの線で TV CM を作ったとして、笑顔で「秋田さ、け」と言うとしたら、それは十分アリじゃないかな。
 で、記事はさらに続き、「孫と話すときにはそういう乱暴な言葉遣いはしない」という声があることを紹介する。
 それは、ちょっと待て、と思う。祖父母が孫に命令形を使うことになんの問題があるのか。
 例えば、遊びに来た孫達を料理でもてなすとして、「これもけ (食え)、あれもけ」って言うだろう。
 肉親に対してそういう遠目の距離感を持ってることの方が俺には不思議だ。
 あるいは、その感覚は、孫の前では秋田弁を使わなくなるって方向に作用してないだろうか。

「秋田流スタイル」ではオノマトペを取り上げたことがある。
 昔話を研究している人が、以前は語り手の数だけオノマトペがあった、というようなことを言っててこれも「へぇぇ」と思った。
 というのは、今年の頭にくやったが、擬態語は感覚的なもので科学的な根拠がないから、理由を説明できないし、説明したからといって理解してもらえるとは限らない。擬音語ならそう聞えるからまだしも、道が曲がっている様子が「くねくね」だなんてもはやそういうものだと思って覚えるしかない。
 ということは、語り手がそれぞれに違うオノマトペを使ったら通じない可能性が非常に高いはずである。
 おそらく、それが減ってしまった理由のひとつだろうと思うが、逆から見ると、「感覚」が共有されていた、ということなのかもしれない。口から出た表現は、臨時に作られたものもあるかもしれないし、個々に違うものだったとしても、それでもわかってしまう、という下地があったのだろうと思う。
 秋田大学の佐藤稔教授が、「その点で秋田は閉鎖的と言えるかもしれない」と述べているが、そういうことなんだろう。

 で、同じことはおそらく「」についても言える。
 形の上でぞんざいな表現である「」が使われている (いた) ということは、それが問題にならない相互理解があったからだろう。そのベースがない県外人に「」はまずい、というのは正しい意見である。
 となるとやっぱり、孫に使わない、ってのは共通基盤が構築できてないってことなんじゃないのかなぁ。*1

 魁では、夏頃から「ここに生きる」という不定期連載も始まった。これは文字通り、秋田での暮らしを色んな人に取材しているもので、一面と三面に掲載されていて、かなり力が入っているようである。なかなか面白い。
 Web にも上がっているので関心のある人は是非。
 俺が一番、「ふぅむ」と思ったのは、「小さな自転車屋」の、「秋田の人は個人商店に入るのが苦手」という言葉。





*1
 TV CM を仮の話として挙げたのは、それが日常生活ではない、という点で了解されている、と考えたからである。
 CM では「お店に急げ」みたいな命令形はいくらもあるが、それがぞんざいであるとして問題になることはない。
 が、メーカーの営業マンが消費者に言ったらえらいことになる。(
)





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