やっと読んだ。ひところ話題になった本である。いしいひさいち氏の表紙を覚えている人も多いだろう。
本屋に発注したのが去年だから、取りかかるのも遅ければ、読むのも遅かったわけだ。
一応、時代を確認しておく。手元にあるのは新潮文庫版だが、最初は経営書院の単行本である。
つまり「失われた十年」の後半あたりである。バブル崩壊で地方の時代、というわけなのかもしれないが、都市の本である。
まず『
大阪学』『
続大阪学』。著者・大谷 晃一氏は大学教授。文庫のプロフィールには明記されていないが、どうやら国文学。
最初に取り上げられるのは「
好っきゃねん」。
前にもかいたが、巷間言われる「
好きやねん」には胡散臭さがある。これを:
「好きやねん」には、長く高い文化のある大阪という都会の人間の持つ恥じらいも、はにかみも見当たらない。
としている。やっぱり胡散臭いのである。これが「
好きやねん、大阪」という形で大々的に使われるのはなぜなんだろう。
著者はこれを吉本に求めたいようである。
吉本の芸人は大阪に限らず近畿圏を中心に広く集まってくる。彼らに大阪弁を教えている先輩、という話は
前にとりあげたが、そのようにしてできあがったのが今の「大阪弁」であろう。言ってみれば、ファーストフードにおける応答マニュアルのような、非ネイティブも含めて一定のレベルを維持するための大阪弁、そんなところではないか。
『続』の方では、いくつかの調査が引用されているが、その中で「
おおきに」が上位に食い込んでいる。
NHK の「
ふるさと日本のことば」にも「21 世紀に残したい言葉」というアンケートがあったが、そこでも感謝の表現が多数、挙げられていた。で、きまって「○○県の人の心の温かさを示しているんでしょうね」と続く。
これは、その言葉を残したいのではなくて、そういう気持ちが好きなのだ、ということであろう。大体、県民性として心が冷たい、ということがあるとは思えない。
『
名古屋学』の著者・岩中 祥史氏は、編集者。
いきなり「語感の汚らしさ」ではじまる。その上:
(略)未婚の女性の口から『ほんだでー』などという言葉が聞こえてきた日にはガックリきてしまう。
これがさらに、「ほんだもんだで」(意味はまったく同じ) などになると、いよいよ……である。
とくる。なぜそこまで言う必要があるのか、理解に苦しむところである。
「
みえる」というのがある。「いらっしゃる」に相当する表現だが、どうやら「気づかない方言」であるらしく、「〜についてご存じの方は
みえませんか」という具合に、Internet で時折、耳に/目にする。おそらく、「おみえになる」という表現があることが後押ししているのだと思われる。
「
ウソこいとったらかんよー」という例文で「
こく」を取り上げている。下品な言葉で、育ちのよい人が使うことは少ないが、make 相当の広い意味も持っている、とし、「うんざりこく」「ビックリこく」という例を上げている。
どれもマイナス表現であることに著者は気づいてないようである。
前に、秋田弁における「
こぐ」を取り上げたが、これと同じで、よくないことをする、というときに使う言葉なのである。結果的に、上品な人が使うことは少ない、ということであろう。
「
ぼう (追う)」を超名古屋弁 (他の地域の人はあまり知らないだろう、ということ) としているが、残念ながら、秋田でも使う。『
秋田のことば』によれば、26 道府県で通用するようである。
「
こずむ」もある。名古屋では「風呂で暖まる」と言う意味だ、と断言している。
既に取り上げているが、その時は、「水に溶けきれずに底に沈んでいる」という意味だった。風呂に入っている人間にあてはめれば、肩までつかっていろ、ということになるだろう。「暖まる」というのはそこからきたのだと思われる。
著者は、競馬における「こずみ」が、馬の筋肉が強張ってい足の運びがスムーズでないことである、と紹介している。この関係が不明だ、とも。
改めて『大辞林 (初版、1989、
三省堂)』でしらべたら、競馬における上のような意味、筋肉が凝ると言う意味に加えて、「心が明朗さを失う」という意味で「気持ちがこずむ」
*という意味を挙げている。
「こずむ」の本質は、「固まっている」なのではないか。水中云々は後から加わった意味だと推測するが、どうか。
面白いのは「かんこーする」だろう。「勘考」と書く。辞書にものっているし、字面から意味は分かると思うが、俺は今まで「勘考する」と言う人を見たことがない。名古屋弁と言って差し支えあるまい。
『東京学』は次週。