Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第242夜

大阪学・東京学・名古屋学 (後)



東京学』の著者・小川 和佑氏も、国文学者。
 この本全体を貫いているのは、一般に流布している東京像は、メディアと商業主義によって作られた虚像である、という考え方である。著者は「サブカルチャー」と呼んでいる。
 東京に住んでいる人間の大半は上京組である。「埼玉都民」「千葉都民」という言葉もある。* 彼らが支えているのが、今の東京像。全く同感である。「ふるさと日本のことば」が避けた話だ。
 方言を扱った章のタイトルは「『山の手ことば』と『下町ことば』」だが、実際にその話が出てくるのはごく一部である。あまり量は多くない。
 維新後の軍隊が長州や薩摩をベースとした言葉遣いであったのを、庶民を軍人化するにあたって、日常生活から切り放すため、と見る考え方は興味深い。

 さて、駆け足で、この 4 冊の、方言に関する章を取り上げた。
 あんまり細かく書くとアレだから特徴的な点だけを書いたが、「おいおい、それは違うぞ」というのが散見される。事実誤認とまでは言わないが、ねぇ断言しちゃっていいの? というのがある。
 実は途中で、読むのやめようかな、と思ったこともある。
 なんというか、「○○が好き!」というスタンスの本なんである。だから、鼻白んでしまう箇所がかなり多い。
 顕著なのが『東京学』で、頻繁に「円錐」という言葉が出てくる。
 東京の文化・文明――特に学術、精神文化の領域では東京は円錐形を作って、他から突出している。東京と首都圏では文化の標高に大きな落差があることはそこにすんで実感できるであろう。
 スタート地点がここなのである。
 歴史認識、なんてのでよくもめるが、歴史は時の権力者が自分に都合のいいように書くものである、という考え方がある。
 それと同じように、今の「文化」だの「文明」だのが、現在のシステムに依存したものであるとするなら、その中心である東京で高いのは当然の結果である。つまり、東京むけの物差しで測っているのだ、ということは頭の片隅においておかなくてはなるまい。
 大阪も同様で、『大阪学』にはまだ、自分を笑い、他を認める余裕があるが、『大阪学』になると、他の地域の歌劇団がなくなって大阪にしか残っていないのは必然である、と言わんばかりだ。大阪じゃないって。
 対極にあるのが『名古屋学』で、愛郷心あふれる本なのではあるが、そこかしこに「どうせ名古屋ですから」という遠慮がこぼれている。
 名古屋は豊かだった、というのが何度も出てくる。だから積極的にアピールしてこなかったし、揶揄されても敢えて反論しない、と言う。金持ちケンカせず、という奴だろうか。
 しかし、表紙こそ いしいひさいち だが、中のイラストは、郷土の漫画家なかむら治彦氏なのである。『東京学』もやらなかったことをやっている。そこにしたたかさを見ることもできる。

 そう、いしいひさいち なのである。
 つまり、ムキになって反論したりする種類の本ではない、ということなのだった。
 名古屋人は慎み深い。大阪人が「考えときまっさ」と言ってはっきり断らないのは相手のメンツをつぶさないように、という思いやりである。江戸は武士社会であり東京は組織社会である、したがって東京人は出しゃばらない。
 同じことを書いている。
 大阪人は「まいどありがとうございます」を「まいど」と言葉を縮める。名古屋人は「しなくてはならない」を「しなかん」と言う。江戸っ子は「あったりめぇだべらぼうめ」を「あたぼう」と切り詰める。
 同じだ。
 郷土自慢って、つきつめるとそういうこと?
 違うと思うなぁ。
 改めて、この本が何故売れたのかよく分からなくなった。




*
 「神奈川都民」という言葉はあまり聞かない。この辺に、地域イメージの問題を見ることもできるような気がする。






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