福岡編−
見ちゃんしゃいね (4/16)−
まず、東・西・南と 3 分割されることを頭に入れておく。それぞれ北九州・福岡・柳川が中心都市となる。
アクセント体系は、東京型・準東京型・無型。無型というのは、単語ごとのアクセントが決まっていない、ということである。つまり「あ
め」だから「雨」とは決まっていないわけである。逆に「雨」が、「
あめ」「あ
め」のどちらかも決まっていない。
いつかも書いたが、「橋」と「箸」をアクセントだけで判別できる地域の人は、それでは不便だろう、と考えがちだが、「橋」と「箸」をアクセントだけで判別しなければならないケースというのはほとんど無いので、実はそれほど不便ではない。
特筆すべきは「
とぜんなか」であろう。
前回の宮城編でも登場した。「さびしい」という意味である。宮城では「
とぜんだ」、秋田では「
とじぇね」と形は異なるが、一つの非標準語形が全国で使われている、というのは実に興味深い。
ただ、若干ニュアンスは違うようだ。
地元の放送局で八女 (やめ) 弁講座というのがあり、その中で、彼女を抱きしめたところで夢から覚めたあぁさびしい、というスキットが紹介されていた。この「さびしい」に「
とぜんなか」を当てているのだが、「
とじぇね」はここでは使いにくい。「
とじぇね」には、「一人なので寂しい」「手持ち無沙汰」というニュアンスがあるように思う。
「中間方言」という術語が登場した。伝統的方言形に全国共通語が影響を与えた形である。
例えば、九州では「
おる」が「いる」という意味を、「
おらん」が「いない」という意味を表す。この「
おらん」が全国共通語の影響を受けて「
おらない」になっている。
これを、神田紅は「気持ち悪い」と表現したが、言語は変化するものだと考えれば、ある程度はやむ得ないと言える。ここは、「
超いずい」と同じように方言のパワーとして受け入れた方がいいだろう。心配するべきは「
おる」が侵食されないかどうか、ではないか。
この現象は大阪でもある。「来ない」は本来「
けーへん」なのだが、「
こーへん」が使われ始めているというのだ。
消滅寸前の武士特有の敬語表現、門司がバナナの叩き売り発祥の地であることなど、興味深い話題は多かった。「
こづらがはげちょる」がなぜ美人の形容なのか解説して欲しかったなぁ。
「
誰にでも気安く話し掛けることができるのが、博多弁なのです」というのが気になった。それは住民の気質であって、方言の問題ではあるまい。
講談師 | 神田 紅 |
福岡教育大 | 杉村 孝夫 |
福岡放送局 | 佐伯 真規 |
大阪編−
ほな見たってや(4/23)−
まぁなんというか、表面的な回という印象を受けた。別の言い方をすれば、「
大阪弁ちゅーたら、大体のところは わかるやろ」という意識が透けて見えるというか。
田辺聖子が、創作意欲をかきたてる言葉だ、と言っていたが、これは『言語』誌の特集「『大阪語』論」の座談会で出ていた「老成した言葉」というのと通じるものだろう。ある表現の背後に多量の情報やニュアンスや気持ちが隠れている、ということか。
「船場」といわれても、「船場のボンボン」てなステロタイプしか持っていないのだが、ここの言葉は絶滅寸前なのだそうだ。かつて谷崎潤一郎 (東京出身) が愛し、『細雪』を発表するきっかけとなった、「いい言葉」「きれいな言葉」というイメージを持った言葉でさえこの状況、ということか。
最後に、吉本の学校が取り上げられた。登場するのは、島根からやってきた漫才師志望の若者で、彼が大阪弁修得に苦労している、という話である。講師が言うには、漫才をするには大阪弁でなくてはならない、という感覚を持っているらしい。
これは、大阪弁がもはや権威になっているということだと思うのだが、反権力という大阪的な気質の危機なのではないか。あるいはこれも、「『大阪語』論」の座談会で出た大阪弁ナショナリズムの現れなのだろうか。
唯一の救いは、その若者の「
新しい大阪弁を作るという意気込みでやります」という台詞だが。
彼に大阪弁を教えているのが、神戸出身の相方だというのがまた泣かせる。
作家 | 田辺 聖子 |
大阪外大 | 郡 史郎 |
大阪放送局 | 渡辺 英紀 |
広島編−
見てつかーさいや(4/30)−
改めて言うのもなんだが、オープニングに出てくるのが年寄りと子供ばっかり。「ふるさと」ってのはやっぱりそういう風に見られているのだろうか。
広島県の場合は、安芸(中心都市は広島)と備後(福山)とわかれている。前回放送の大阪も摂津とか色々あるはずだけどなぁ。
「(机を)
さげる」が話題になっていたが、「てさげかばん」が「手下げかばん」ではなく「手提げかばん」であることを言えば一発で理解できるのではないか。
「多くの」を意味する「
えっと」については、秋田弁の「
うって」との関連を感じる。単に強調の意味だったとすれば、いきむときに使えそうな音であることが傍証となるように思う。
備後弁の先生や、大崎下島の姉妹の話が面白い。
方言が、ごく一部を除けば「怖い」だの「暗い」だのというマイナス イメージを持っているのを払拭しようと思うのなら、こういうエピソードをたくさん並べるのは手ではないか。
どちらの話も、言葉自体ではなく話そのものに魅力を感じる。方言自体が温かいだの懐が深いだのというステロタイプからはなんとか脱却していただきたいものである。
よく、国際問題を語るときに、相互理解には草の根の交流から、てなことが言われるが、方言の問題も同じであろう。広島弁話者が全て喧嘩っ早いわけではないし、京都の人が全て穏やかだというわけではないのだ。
「恐い」に関して、安芸の「
いびしい」と備後の「
きょうてぇ」が尾道市内でせめぎ合っていることが話題になっていたが、俺としては若い人が言っていた「
ぶちこわー」に興味を覚える。
「
ぶち」自体は、九州方面から伝播してきた強意の副詞で、広域方言であると言える。純粋の広島弁ではない。
さらに、後半部は「恐い」だろうから、これまた広島弁ではない。
しかし「こわい」ではなく「
こわー」なのである。
インタビューを受けていた人は、おそらく「この辺ではどういう風に言いますか」と聞かれているはずで、その問いに対して「恐いよー」ではなく「
ぶちこわー」を挙げたというのは、「
ぶちこわー」が方言形であると認識しているからだと思われる。
やっぱり、方言は生きているのだと思う。ぬくもりだの潤いだのと方言に気持ちを読み取るのであれば、この人が「『
ぶちこわー』は方言形」と考えたことを軽視してはならないと思う。
女優 | 東 ちずる |
広島大学 | 町 博光 |
広島放送局 | 岸 慎治 |