中部から東海にかけて使われる俚言に「
こずむ」というのがあるらしい。
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これは、例えば、水に砂糖とか塩を溶かしたとき、溶けきれずに底にたまっている状態を指す。
標準語で言おうとすると、「沈む」だろうか。
いや、「沈む」は上から下への降下を指す単語であって、たまっている様子を表現することはできない。どうしてもこの単語を使うなら「沈んでいる」としなければならない。
「たまる」では、「溶けきれなかった」という意味が抜け落ちる。
まして、「沈殿」ではあるまい。これは生活語ではない。
語源は古語の「偏む(こづむ)」だそうだ。
静岡では「こどむ」という形もあり、この辺になると「沈む」と似たような使い方をされるらしい。
これは前に取り上げた「
まがす」などと同じく、対応する標準語がない単語である。ないのだから、長々と説明するか、意味の欠落には目をつぶって似たような標準語形でお茶を濁すしかない。
そして、置き換えが不可能であるために、却って、
その地域特有の表現であることに気づかなかったりする。標準語形が目や耳から入ってこないために俚言であることが認識されないのである。
たとえ気づいていても、とっさにその単語が意味することを言おうとしたとき、
つい出てきてしまう、ということもある。「
まがす」などはわりに緊急事態だと言えるから、その可能性は高い。
「
こずむ」で思い出したのだが、秋田弁で「
うるがす」という表現がある。
ま、似たようなもんで、例えば
寒天を水に漬けておくような状態を指す。
「漬けておく」や「ひたす」とどこが違うのか。
「ひたす」は、その物が完全に水をかぶっている状態を指す言葉である。だから「水浸し」なんて表現もある。しかし、
畑が冠水したとか床上浸水したなんてときには「うるがす」は使えない。
「
うるがす」の本質は、「
液体(主に水)の中に長時間に渡って入れておいてほったらかしにし、その物の変化(主にふやけた状態になるの)を待つ」ことにある。
「ひたす」で代用できないのは、「長時間ほったらかし」と「変化を待つ」の意味が抜け落ちるからである。水を張ったボウルに物を入れて数秒後に取り出してもひたしたことにはなるが、「
うるが」したことにはならない。
ゆで卵を作るとき「ヒタヒタになるくらいの水」なんて言い方をするが、卵を水に入れておいても「
うるが」したとは言えない。どんなに長時間ほったらかしにしようが、
卵がふやけるわけではないからである。まぁ、1 週間も 1 ヶ月も入れといたらどうなるかは知らないが。
「漬ける」の意味は、どちらかと言えば「溶け込んでいる成分が、漬けこまれているものの中に染み込んでいく」ことにある。そもそも液体である必要もない。「
うるがす」では、絶対に液体でなければならない。「大根を糠味噌の中に入れておいた」時と「切り干し大根を水の中に入れておいた」時の違いだと言えば見当がつくだろうか。
更に言えば、「
うるがす」の場合、目的を達成してしまえば水なんぞはどうでもいい。糠漬ではそうも行くまい。
応用で、何かややこしい問題が発生していて、状況の変化に期待して放っておくとき「
うるがしておぐ」という言い方をすることがある。
ということで、「
うるがす」の意味はご理解いただけだものと思う。
方言に関するアンケート調査では「
方言は、表現が豊かだと思いますか」という質問をすることがある。概ね、「はい」の反応が多いのだが、これは、「
こずむ」や「
うるがす」のような俚諺の存在が背景にある。
これまで、散々「
世界のとらえ方の違いに過ぎない」と言ってきた。標準語と方言との間にもそういうことが言えるではないか、という反論があるかもしれない。たまたま違うだけで、豊かとか豊かではない、という話ではない、という意見が出る可能性がある。
しかし、確実に違うのは、
標準語が東京以外の方言を取り入れることは非常に少ないということである。我々秋田衆は「つける」も「ひたす」も「
うるがす」も使えるのだが、東京弁話者が「
うるがす」を使うとは考えられない。
そういう意味でも、方言は豊かなのである。
注:篠崎晃一「気づかない方言」(『日本語学』1997 年 8 月号)明治書院(↑)