という本が出た。秋田県教育委員会が編集、発行は
無明舎。
出たのは 11 月の頭なのだが、積ん読がたまっていて、たどり着くのにしばらくかかってしまった。
全体が 961p. 秋田方言の概略、語彙の辞典 (見出し語 4,500)、方言地図の 3 部構成で、それぞれ 1/4、1/2、1/4 位の量。立派な学術書である。
その割にイラストが今風のアニメ漫画系で、教育委員会もやわらかくなったもんだ、と思う。ここのところイメージ悪いからな、とか言ってみたりする。
なんつっても、\2,800 という値段がうれしい。大ヒットする種類の本でなし、\5,000 くらいは覚悟していたのだが。
一つだけ欠点を挙げさせてもらうなら、語彙編に散在する形の、20 数編あるコラムが目次に載ってない。後述するが、余談を書いてあるわけではなく、かなり重要なことが載っている。きちんとした扱いにするべきではなかったか。
語彙編は膨大な情報量である。語源も書かれているので、今までわからなかった単語もこれで解決するのではないか、と期待している。通読するようなものではないので、感想は差し控える。方言地図も同様。後々、頻繁に引用することになると思う。
前半の、秋田方言に関する概略と、コラムについて感じたことを書いていくことにする。
まずは、「母語」という語について。
若干の背景説明が必要であろう。前から考えていたことがあるので、長くなるが、お付き合い願う。
以前は、「母国語」という語が使われていた。が、最近は、一国一言語ではない、という現実を踏まえて、「母国語」の代わりに「母語」が使われる傾向がある。
これについて、今年の夏ごろ、秋田魁新報に谷口 賢一郎氏の文章が掲載されていた。氏は、この傾向に苦言を呈している。
氏にとっての「母語」は「秋田弁」だ、というのである。「母国語」は「日本語」だという。
当時、ここがよく理解できなかった。つまり、一つの言語を成していないものに対して「母語」を使っているのはどういうわけか、と思ったのである。
で、色々と調べてみた。
結論から言うと、「母語」が方言をも指す、という考え方があるのだ。俺の勉強不足である。
それを踏まえて。
まず、「母国語」という単語の使われ方は危ういものだ、という事実がある。
どこにも明記されていないとはいえ、日本語は日本国の唯一の国語である。が、他の国々では一国一言語とは限らない。「母国語」と言っただけでは一意に決まらない、ということが遅ればせながら日本人にもわかってきた。
つまり、アメリカの公用語が英語である以上、スペイン系だろうがフランス系だろうが中国系だろうが、アメリカ生まれの人にとっての「母国語」は英語である。が、彼らが英語を話せるかどうか、というのはまた別の問題で、例えばスペイン語オンリーのアメリカ人というのも想定できるわけで、その場合、その人の母国語は英語かもしれないが、母語はスペイン語、ということになるのだ。
日本だって実は一緒で、海外駐在員の子供で、母国語たる日本語では意思疎通ができない、というようなこともある。
だから、「母国語」の扱いには注意しましょうね、今までの「母国語」の代わりに「母語」を使えるケースがありますよね、というのが最近の潮流である。
「語」に「言語」の意味を担わせつつ「母語」という言葉を使っていると、先の俺のような違和感を覚えることになる。
「母語」は“Mother Tongue”の訳語であって、言語ばかりを指すわけではない。方言をも示しうるのであれば、母国語は日本語、母語は秋田弁、という言い方は十分に正当性を持つことになる。
それは認める。
が、「母国語」の持つ危うさに対する解決策が示されていない。
例えば、スイスの公用語はフランス語、ドイツ語、イタリア語、レト・ロマンシュ語である。とあるスイス人から「フランス語です」という答えを得たい場合、何と聞けばいいのか。「母国語」でないことは既にわかっているし、「母語」ではまずいことも今回わかった。「第一言語」は専門用語で、こなれていない。
今のところ、長ったらしい説明をするしかないのである。
これはそもそも、「言語」と「方言」の線引きにかかわる問題である。
アメリカの公用語はなぜ「アメリカ語」ではないのか。であるとすれば、アメリカ英語は一方言に過ぎないのではないか? という問いに繋がっていくのである。
すっかり話が逸れた。
この概略を執筆したのは秋田大学の佐藤 稔教授 (「ふるさと日本のことば」にも出ていた) だが、佐藤教授も「母語」が方言を指しうる、という立場を取る。「母語の役割」という一節を設けている。
長くなった。しかも方言と関係ない話。
続く。