南木佳士氏
「阿弥陀堂だより」ほか

  目 次

1. まえおき
2. 概 要
3. 物 語
4. 解 説
5. 年 譜
6. この本を読んで
7. 若月俊一の語る老いと青春
8. ダイヤモンドダスト
9. 医学生
10. ふつうの医者たち


著者 南木佳士
発行所 株式会社 文藝春秋

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1.まえおき
 南木佳士(なぎけいし)さんとの出会いは、テニス仲間の蓮見さんと、佐久総合病院の若月俊一元院長の二人を介してです。若月俊一元院長を調べる過程で南木佳士さんのことを知りました。最初は「からだのままに」を図書館で借りて読みました。
 今年の初夏に、数名の友人と夫婦で集まる機会があり、南木佳士さんのことを話したところ、二人のご夫人が愛読者だと名乗りを上げ、しかもその一人は著書を持っていました。
 そこでこの「阿弥陀堂だより」と、芥川賞の受賞作となった「ダイヤモンドダスト」を読みました。

2. 概 要
 作家としての行き詰まりを感じていた孝夫は、医者である妻・美智子が心の病を得たのを機に、故郷の信州へ戻ることにした。山里の美しい村でふたりが出会ったのは、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らす老婆、難病とたたかいながら明るく生きる娘。静かな時の流れと豊かな自然のなかでふたりが見つけたものとは‥‥‥。

3. 物 語
1. 「なだらかな山の中腹にある阿弥陀堂の前庭からは六川集落の全景が見渡せた。幅三メートルばかりの六川の向こう岸に10戸、こちら側に12戸。朽ちかけた欄干の根に雑草のはえる古い木橋で結ばれた、合わせて22戸のこぢんまりとした山あいの集落である。
 谷中村は七つの集落からなっている。上流で六つの沢が合流して六川と名づけられた渓流が作られ、これに沿って七つの集落が上(かみ)から下(しも)へ並んでいるのである。
 六川が町の本流に注ぐまでには七つの急な瀬があり、各々の集落はそれを境にしたわずかな平地を中心に形成されている。国道から分かれた村道は車一台分の幅員のみで、すれ違いはカーブのふくらみか橋でしかできない。最も高いところにある六川集落を過ぎて登るといつしかアスファルト舗装も切れ、車の通れぬ林道になってしまう。」 
 話は主人公の上田孝夫とその妻の美智子が、阿弥陀堂に着いたところから始まる。

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2. 孝夫が中学への入学を前に、信州の谷中村を後にし、父を頼って東京に出る。孝夫が3歳のとき母親は肺結核で死んだ。隣村から婿に入っていた父親は、孝夫が小学3年になったばかりのとき、ふいに家を出た。独りっ子の孝夫は、祖母に育てられた。
 そんな時期、3年間連絡のなかった父親から手紙が来て、東京郊外で鉄工所に勤め、中学から東京に出てこないかという内容だった。
 孝夫は祖母を置いて東京に出て父の家から中学に通った。高校は学区一番の都立の進学校に進んだ。
 大学から飛び火した学園紛争が起こり、全校集会が開かれて授業は中止になった。クラス討論会から抜け出した孝夫は、同級生の神谷美智子と身の上話をするようになる。
 孝夫は暫くの間故郷に戻った。美智子と何度か手紙をやりとりする。
 翌年の大学受験で、孝夫は東京の私大文学部に、美智子は東京近郊の国立大の医学部に合格した。孝夫は阿佐ヶ谷の四畳半のアパートを借りて住み、孝夫の卒業が近づいた冬に美智子も泊まるようになった。
 卒業した孝夫は小さな編集プロダクションに勤めた。医学部の臨床実習で忙しくなった美智子とは数ヶ月に一度会えるだけだったが、いつしか結婚を約束するまでになった。
 それから3年後、都立病院の内科研修医になった美智子と孝夫は結婚した。二人は都内のマンションを借りて生活を始めた。美智子は重症の患者を抱えているときは病院に泊まり込むことも多く、一人の長い夜を持て余した孝夫は小説を書き始めた。孝夫が新人賞を受賞したのはこの2年後のことだった。その間、孝夫の父が死んだ。孝夫は著作に専念することになった。
「再び家事と小説の日々が始まり、よくて年に一作、平均2年に一作のスロウぺースで孝夫の小説は文芸誌に載った。いずれも80枚から100枚の短編だったので、彼の年収は20万円前後だった。
 美智子は専門とする癌の化学療法の分野で多くの論文を発表し、国際学会に演者として出席する機会も増えていた。母校の大学の非常勤講師となり、都立病院の内科医長の職も兼ねて、その生活は多忙をきわめていた。」

3. 孝夫の祖母が亡くなった。
 美智子は妊娠するが、胎児は死亡し、それを機に恐慌性障害(パニック・ディスオーダー)になる。
 美智子は都立病院をやめて、二人して谷中村に帰り、村の診療所に勤務することにした。

4. 週に3日月水金の午前半日診療所での勤務と片道約2kmの通勤で、心身の健康を取り戻した。
 新居は歩いて5分ほどの南斜面に建てた。
 谷中村広報誌のコラムの「阿弥陀堂だより」を読み感心する。早速、おうめ婆さんを訪ねる。コラムは役所の若い娘さん(石野小百合ちゃん)が書いていると聞かされる。
「 (阿弥陀堂だより)
 目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次へと苗を植え、水をやり、そういうふうに目先のことばかり考えていたら知らぬ間に96歳になっていました。目先しか見えなかったので、よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。それが長寿のひけつかも知れません。」
 小百合ちゃんは孝夫の後輩だが、大学のとき悪性の肉腫ができて放射線治療で声が出なくなった。
 美智子がイワナ釣りをはじめ、これも健康回復を早める。
 小百合ちゃんの病が再発し、総合病院へ入院する。美智子が元専門であった病気でもあり、総合病院へ通って指導・治療することになった。

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5. 孝夫は美智子を車で送るため、総合病院に行き、小百合ちゃんを見舞う。30歳前後と思われる若い中村医師が担当医になる。小百合ちゃんの化学療法が始まると面会謝絶になる。心配していたように肺炎を併発して、生死が危ぶまれたが美智子と中村医師の努力により何とか一命を取り留める。
 小百合ちゃんの父親は谷中村役場の助役だが、村で診療所を新築し、美智子に全日勤務して貰うように依頼する。美智子はこれを引き受ける。

6. 孝夫夫妻はおうめ婆さんの老体を案じていた。
「おうめ婆さんに食料や炭を届けるのは日向区の区長と日影区の区長が一年交代で、月に一度行なう役目になっていた。区長も一年ごとの各家持ち回りなので、六川集落の住人全体がおうめ婆さんの生命線を支えているのだった。今年は日向区の区長である田辺のおばさんがその任にあたっている。
 数日前、区費の集金に来た田辺のおばさんに孝夫は聞いてみた。阿弥陀堂に食料や燃料を運ぶ制度はいつ頃から始まったのか。また、おうめ婆さんはもう高齢なので、独居はやめてもらって老人ホームにでも入った方がいいのではないか、と。
 米や炭を運び上げるのは私が子供の頃からそうだったから、ずっと昔からそうなのだろう、と田辺さんは答えた。六川集落の祖先の霊は山にいる。古い霊ほど山の奥にいる。おうめ婆さんは阿弥陀堂に入った時点で里の人ではなく、山の人になってしまっている。我々よりもずっと霊に近い存在になってしまっている。
 おうめ婆さんは祖先の霊を守ってくれている人なので、こちらからお布施として食べ物を持って行くのはあたりまえなのである。祖先の霊を守る大切な役割を果たしている人なので、勝手に老人ホームにいれるなどとんでもない。くどいようだが、おうめ婆さんはすでに山の人なのであり、阿弥陀堂は里の決裁の及ばない場所なのである。あんたも六川に住み続けるなら、ここのところはしっかり押さえておいてもらいたい。」
 クリスマスイブに小百合ちゃんは診療所で美智子から検査を受けたあと、孝夫に阿弥陀堂まで車で送ってもらい、話のお礼に膝掛けをおうめ婆さんに贈る。また帰りの車の中で孝夫夫妻に小さめのペアのティーカップを贈った。
 孝夫に町の総合病院に送ってもらった美智子は、「やっぱりできていたわ。3ヶ月だって」と孝夫に告げる。
春になって孝夫は決意する。
「理屈はあとにして、手足をフルに使って人間らしく生きる基本の食料を自給してみる。大地に足を着けた生活の中から、ほんとに頼りになる言葉だけを選び出して小説を書く。この二項目を車の両輪として今年一年を転がり、深い轍(わだち)を残してみたい。
 長い冬の間、孝夫の内には少年のような抱負が膨らみ続けた。

 四月のよく晴れた日、孝夫、美智子、小百合ちゃんはそろって阿弥陀堂に登り、97歳になろうとしているおうめ婆さんと再会した。今、孝夫の机の前の壁には、その日、彼が写した写真が貼ってある。
 阿弥陀堂の目張りだらけの障子を背に、右に美智子が立ち、彼女の妊娠7カ月になるせり出した腹の横に、桑の木の杖をつき、90度に腰を曲げたおうめ婆さんの顔があり、左に小百合ちゃんがいる。3人の女たちは実にいい顔で笑っていた。
 96歳、43歳、24歳。老齢、中年、娘盛り。それぞれの年代の女たちはしぶとさすら感じさせるあけっぴろげな笑顔でカメラを見つめている。
 谷中村に来て1年。今朝も美智子は孝夫の作った大盛りのコロッケ弁当を持ち、スニーカーを履いて腹を突き出しながら歩いて診療所に出かけた。
軒下の段ボールの小屋で無事冬を越した2匹の子猫たちが庭でじゃれ合っている。
南に向いた畑の土手にフキノトウが芽を出した。
 川から吹く風に淡く土の匂いがして、たしかな春の訪れを告げていた。」

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4. 解 説                 小泉尭史
 映画「阿弥陀堂だより」を撮り終わった今、南木さんの芥川賞受賞作品、『ダイヤモンドダスト』との初めての出会いを思い出しています。一度は映画の原作にと心ひかれた小説は、なぜかラストが鮮明に残っているものです。

 周囲が明るすぎるので目をこらしてみると、水車の上にキラキラ光るものが舞っていた。標高の高いこの町では、冬の寒い朝によく見られるダイヤモンドダストだった。空気中の水分が凍結してできた微細な光の粒は、いざなうように灰色の空に舞い昇っていた。
 すべてのものが凍りついた庭の中で、動くものといえば、無意識に手をつなぎ合った和夫と正史の吐く白い息だけだった。冷え続ける大気は、もうすぐ2人の息も光の粒に変えそうだった。
正史が大きなくしゃみをした。

『ダイヤモンドダスト』の登場人物、看護士の和夫。自らの病を隠し和夫と結婚、幼子正史を残し24歳の生を感謝しつつ終わる妻、俊子。病を押し水車を作る和夫の父、松吉。死を待つベトナム帰りの宣教師、マイク。様々な過去を背負い死んでいく人々が深く心に残っています。
『阿弥陀堂だより』のラストの印象はより鮮やかなものでした。

 96歳、43歳、24歳。老齢、中年、娘盛り。それぞれの年代の女たちはしぶとさすら感じさせるあけっぴろげな笑顔でカメラを見つめている。

 小説を読み終わった後、ラストシーンの映像が想像され、画面におさめてみたくなる作品に出会えることはそうそうあるものではありません。まして、登場人物が平板では無く、くっきりと丸彫りされた実在感をもち、映画人という不作法な無頼の徒にいじくり回されても、けっしてその魅力を失わない個性を持ち続ける人物に出会うことは希です。
 作品の人物、一人一人に命を与えているのは、南木さんの医師としての観察力ばかりではなく、作中の人物と愛情をもって一緒に生きようとする側隠の情なのでしょう。
『阿弥陀堂だより』を映画化に踏み切らせたのも、その精神の力におされてのように思えます。
 映画「阿弥陀堂だより」のロケイションの折り、長野県飯山市の正受庵をロケセットとして撮影しました。床の間には白隠禅師の先生にあたる正受老人の書いた遺偈が掛けてあります。

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 坐死
末後一句  末後の一句。
死急難道  死は急にして道(い)ひ難し。
言無言言  無言の言を言として、
不道不道  道(い)はず、道(い)はず。

 道(みち)という言葉を道(い)うと読ませた古人の心を想うとき、小林秀雄が「考えるヒント」の中で繰り返し書いている荻生徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道(みち)ヲ載セテ以テ遷ル」の言葉を思い出します。言(いう)という言葉が、道(みち)という行(おこな)いと深く結びついていた時代なのでしょう。
 南木さんの作品を読みながら強く感じることも、言葉と行(おこな)いの強い絆です。病にある人を相手とする医師の仕事が、職人としての腕の練達と、人を慈しむ言葉を必要とするからでしょう。作品に登場する人々は常に死と向き合い、重いものを背負ってはいるのですが、不思議と透きとおった明るさが感じられます。自己の道をゆっくりと、大地に踵をつけ、書きたいものだけ書き、誠実に歩み続けようとする心の表れでしょう。「滅んでしまったものを書くのが好きです」と言う南木さんの作品の中に、僕は生きる道を感じとっています。
 映画を作る上で、人との出会い、経験は大切だと思っていますが、実生活での出会いといっても限りあることです。小説で存在感のある人物に出会うことは、シナリオを書く上で確かな力になります。しかし厄介なことにシナリオを基にした映画は小説よりも詩に、詩よりも音楽に近いものです。
 映画も音楽のように時間に委ねられた表現形式です。時間は理性よりも感性、情緒に強く働きかけるものなのでしょうか。映画は小説のように、理知的にものを掴まえることに適しているとは思えません。
『阿弥陀堂だより』の映画製作にあたって南木さんは「映画は小説とは別のものですから」と、なにも仰らず許可してくださいました。おおぜいのスタッフ、キャストが一点に心を傾け、ワンカット、ワンカット積み重ねられた映像の中に、小説とは違った何かを感じ取っていただければ嬉しいのですが。
 映画が完成した今、僕は外に向かうのではなく、内なる心に向かってもう一度立ち還り、自らを省みながら、南木さんの作品をゆっくりと読み返すことが大切だと感じています。
                                 (映画監督)

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5. 年 譜
南木佳士(なぎけいし)    (昭和26.10.13〜   )
昭和26年(1951)
 10月13日、群馬県吾妻郡嬬恋村に生まれる。本名、霜田哲夫。父・重義は鉱山会社に勤務。母・つぎは小学校の教師をしていた。
昭和30年(1955) 4歳
 4月、母が肺結核のため死亡。以後、3歳上の姉・恭子とともに母方の祖母に育てられる。
昭和33年(1958) 7歳
 嬬恋東小学校に入学。
昭和39年(1964) 13歳
 嬬恋東中学校に入学。
昭和40年(1965) 14歳
 4月、父の転勤のため東京都保谷市立保谷中学校に転学。
昭和42年(1967) 16歳
 東京都立国立高校に入学。
昭和46年(1971) 20歳
 1年問の浪人生活を経て、秋田大学医学部に入学。
昭和52年(1977) 26歳
 4月、秋田大学医学部を卒業。
 5月、医師国家試験に合格し、長野県厚生連佐久総合病院に研修医として勤務。
昭和53年(1978) 27歳
 4月、生家の隣の旅館の娘・宮崎啓子と結婚。
昭和54年(1979) 28歳
 1月、長男・佳士誕生。
 5月、研修を終え、佐久総合病院内科医師として正式採用となる。
 10月、処女作「青く送る日」を文学界新人賞に応募。佳作にもならなかったが、編集者より、もう少し書いてみろ、との電話をもらう。この電話で小説を本気で書いてみる気になる。
昭和56年(1981) 30歳
 5月、次男・高士誕生。
 8月、カンボジア難民救済日本医療チームに参加し、タイ・カンボジア国境地帯に赴く。
 10月、タイ東部のサケオ村にある日本医療チーム宿舎で、「破水」の第53回文学界新人賞受賞の無線連絡を受ける(文学界12月号に掲載)。
昭和57年(1982) 31歳
 「重い陽光」(文学界4月号)、「活火山」(文学界10月号)を発表。

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昭和58年(1983) 32歳
 「冬への順応」(文学界5月号)、「長い影」(文学界8月号)を発表。
昭和59年(1984) 33歳
 「木の家」(文学界8月号)を発表。
 11月、エッセイ「読書と私」(信濃毎日新聞)を発表。
昭和60年(1985) 34歳
 4月、エッセイ「医者として書く」(東京新聞)を発表。
 「エチオピアからの手紙」(文学界12月号)を発表。
昭和61年(1986) 35歳
 5月、『エチオピアからの手紙』を文学春秋より刊行。エッセイ「怖い春」(信濃毎日新聞)を発表。
 「ワカサギを釣る」(潭六号)を発表。
昭和62年(1987) 36歳
 1月より12月まで、花のエッセイを信濃毎日新聞に連載。
 4月、佐久総合病院内科医長となる。
 エッセイ「人間・深沢七郎」(別冊文藝春秋182号)を発表。
昭和63年(1988) 37歳
 5月、第6回佐久文化賞を受賞。
 7月、書評「生と死の境界線」(東京新聞)を発表。
 「ダイヤモンドダスト」(文学界9月号)を発表。
昭和64年・平成元年(1989)
 1月12日、「ダイヤモンドダスト」で第百回芥川賞を受賞。
 「落葉小僧」(文学界3月号)を発表。
 3月、エッセイ「芥川賞の待ち方」(信濃毎日新聞)、「小説を書く動機」(東京新聞)、「一本の電話から」(共同通信)、「浅間山」(読売新聞)、「しごとの周辺」(朝日新聞)、「『徳山道助の帰郷』」(別冊文季春秋187号)、「風景の見え方」(上毛新聞)を発表。
 (平成元年3月、南木佳士記)  (出典 芥川賞全集 14 文芸春秋社)

6. この本を読んで
 作者の故郷嬬恋村を思わせる自然描写、作者の生い立ちに重ね合わされる若い頃の想い出、阿弥陀堂の堂守おうめ婆さん、コラムを書いた小百合ちゃんほかの登場人物に惹きつけられました。必要があって読んだ若月俊一さんに関する本だけでなく、最近の作品を読んで良かったと思います。次は芥川賞受賞作品の「ダイヤモンドダスト」を取り上げたいと思っています。

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[Last updated 8/31/2011]