ふつうの医者たち

  目 次

1. まえおき
2. 目 次
3. 対談者紹介
4. 内 容
5. あとがき
6. この本を読んで


著者 南木佳士
発行所 株式会社 文藝春秋

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1.まえおき
 南木佳士(なぎけいし)さんの本は10冊くらい読みましたが、今回採り上げるこの本は、知り合いの医者5名との対談です。著者は医者として多くの患者を見送ったためパニック障害に悩まされます。そこで自分とは違う分野で活躍している、または活躍した方と話すことにより、視野を広げようとしたのだと思います。医者がその分野を選んだいきさつや、医者としての大変な生活などを聞き出しています。

2. 目 次
はじめにーー弱虫医者の自省  5
素顔の海外医療協力       31
研究者の信念           69
結核治療に生きて        101
在宅医療の理想         129
文学か医学か           157
あとがき              182

3. 対談者紹介
 3.1 仲佐保(なかさ・たもつ)
  昭和29年 東京生まれ
  昭和55年 広島大学医学部卒。国立国際医療センター(旧国立医療センター)研修医となる。現在、同センター国際医療協力局派遺協力課医師。
  昭和56年 第8次カンボジア難民救援医療チームに参加し、タイに赴く。
  昭和57年 第12次カンボジア難民救援医療チームに参加。
  昭和58年 第13次カンボジア難民救援医療チームに参加。
  昭和60年 飢餓被災民救援のためエチオピアに赴く。
  昭和62年 ハリケーンによる被災民救援のためソロモン諸島に赴く。
  昭和63年から平成元年までボリビアのサンタクルス総合病院プロジェクトに参加。
  平成3年 津波被害救援のためニカラグアに赴く。
  平成6年から7年にかけてジョンズ・ホプキンズ大学大学院(公衆衛生)に留学。
  平成8年 母子保健プロジェクトのチーフアドバイザーとしてパキスタンに赴任、現在に至る。

 3.2 武田伸一(たけだ・しんいち)
  昭和27年 長野県生まれ。
  昭和52年 秋田大学医学部卒後、信州大学医学部第3内科に入局(大学院生)。
  昭和53年 富士見高原病院内科医。
  昭和54年 東京大学医学部薬理学教室に内地留学。
  昭和56年 信州大学大学院修了。富士見高原病院内科医。
  昭和58年 国立長野病院内科医長。
  昭和59年 信州大学医学部第3内科助手。
  昭和62年から5年間、パリ・パストゥール研究所分子生物学部に留学。
  平成4年 国立精神・神経センター神経研究所疾病研究第1部室長。
  平成7年 同センター遺伝子工学研究部室長となり、現在に至る。

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 3.3 小野勝(おの・まさる)
  大正6年  福岡県生まれ。
  昭和15年 東京帝国大学医学部卒。大槻外科に入局。
  昭和17年 傷痍軍人東京療養所に就職。
  昭和20年 傷痍軍人東京療養所は国立兼京療養所と改称。
  昭和31年 国立東京療養所外科医長。
  昭和35年 肺結核外科指導のためタイ国立胸部病院に赴任(日本政府派遣)。
  昭和37年 国立東京療養所は国立療養所清瀬病院と統合、国立療養所東京病院となる。
  昭和46年 肺結核外科指導のためインドネシア国立胸部病院に赴任(日本政府派遣)。
  昭和54年 佐久総合病院呼吸器科部長。
  昭和60年 定年退職。以後、平成5年まで非常勤医師。

 3.4 隅田俊子(すみだ・としこ)
  昭和24年 長野県生まれ。
  昭和50年 新潟大学医学部卒。
  昭和54年 新潟大学大学院修了。
  昭和55年 新潟大学整形外科教室入局。
  昭和57年から58年にかけてノースウエスタン大学付属シカゴ・リハビリテーション研究施設に留学。
  昭和59年 信楽園病院リハビリテーション科医師。
  昭和61年 佐久総合病院リハビリテーション科医長。
  平成7年  整形外科医の夫とともに「すみだクリニック」を開業。

 3.5 皆川夏樹(みながわ・なつき)
  昭和39年 山口県生まれ。
  平成元年 京都大学文学部仏文科卒。
  平成8年  京都大学医学部卒。佐久総合病院研修医となり、現在2年目の研修中。

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4. 内 容
はじめに――弱虫医者の自省
5人の医師と対談をした経緯 この夏(1997年)、互いに都合の良い土曜日の午後に5人の医者たちと対談した。今年、医者になってから20年になるのと、小説家として出版した本が10冊になったのを期に仕事に一区切りつけるためである。
 パニック障害になった。肺がんが専門だが、治りそうな人は外科にまわり、抗癌剤が効きそうな人は化学療法の病棟に行き、手遅れになった患者さんばかりを受け持った。
[小説と死]
 人は必ず死ぬことを伝えたかった。
 医者になって5年目の時に文学界新人賞を受賞し、この年に3ヶ月間、タイ(第8次カンボジア難民救援医療チーム)に参加した。患者さんの死を看取る日々に疲労しており、どこでもいいから逃げ出したかった。
 8年目にタイに逃亡したのと同じ理由で、軽井沢の小さな病院に出向させてもらった。
[モルヒネを使う医者]
 末期癌患者の呼吸困難をモルヒネでやわらげる医者だった。
[芥川賞]
 平成元年に芥川賞を受賞したが、ふつうの医者であり続けようと努力した。
[パニック障害]
 平成2年9月に発病した。病院の廊下を歩いているとき、急に胸苦しくなり、立っていられなくなった。外来診療を休診し、妻に車で迎えに来てもらい帰宅した。
 発病から3ヶ月、精神科を受診し、うつ病と診断された。軽い勤務に回してもらった。翌年の4月に内地留学から帰った診療内科医が、パニック障害と正しい診断をしてくれた。
[人と話したい]
 人と話したくなった。病み、落ちこぼれた医者になって目には見えない何かを得た気がする。それが何かをはっきりさせたいのと、明日死ぬかもしれないので、元気なうちに人と話しておきたいという欲求から対談をすることにした。
 マスコミ的には無名だが、臨床や研究の分野で自己実現を果たし、あるいは果たそうとしている人ばかりである。
[結核という病](以下は対談をした相手の紹介で、対談した順に取り上げている)
 小野勝先生は今年(1997年)80歳になった。肺結核治療のメッカといわれた国立東京療養所で外科医長を務め、定年前に信州の佐久総合病院で呼吸器科を開設し、今は退職して軽井沢の西の森の中で悠々自適の生活をしておられる。
[在宅医療]
 隅田俊子先生
 昨年(1996年)著者は10年近く、多発性脳梗塞と関節リュウマチのために寝たきりの生活を送っていた父を群馬の生家で看取った。その時、心身ともに追いつめられてしまう介護者の精神的、肉体的な相談にのれる医療スタッフの育成が大事だと痛感した。
 リハビリテーションの専門家で、佐久平で生まれ、佐久地域の在宅医療のシステム作りに参加した隅田先生と話してみたくなったのは、こんな自分の経験からであった。
 対談で明らかになったのは、先生が、人の身体の回復力、しぶとさを全面的に信頼していることである。

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[海外医療協力]
 仲佐保(なかさ・たもつ)先生
 国立国際医療センター国際医療協力局派遺協力課医師。
 私も彼も昭和56年、第8次カンボジア難民救援医療チームに参加した。
 日本で失われつつある家族の絆に注目し、治療より予防のほうが大切と感じている。
[偏差値と学問]
 武田伸一先生
 国立精神・神経センター神経研究所遺伝子工学研究部室長として筋ジストロフィーの筋変性の解明と遺伝子治療の基礎的研究に取り組んでいる。
 同じ秋田大学医学部の同期生だが、先生に会えたために、大学とは学問に適する頭の持ち主と、偏差値が高いだけの受験にしか通用しない貧弱な頭の持ち主を振り分ける場所であることを知った。
[文学的研修医]
 皆川夏樹先生
 文学部を出てから医学部に入り直した。
 医学を学ぶ前に、人間に関する広く深い知識を仕入れておくために、文学部に入った。


◎素顔の海外医療協力(仲佐保先生)
[忘れ上手の医者は海外医療に 忘れ下手の医者は文学に]
 著者が医者になって4年目の昭和56年、第8次カンボジア難民救援医療チームに参加して、そこで仲佐先生に会った。
 仲佐先生にも参加の動機はなかった。
 仲佐先生は広島大学出身、外国に行きたいため医者になった。
 医者になって1年で最初の派遣(第8次カンボジア難民救援医療チーム)に加わったが、きつかった。バンコクに着いてマヒドン大学の医学部で、熱帯医学の講義を2日間受けた。マラリアの講座があった。サケオ村にある日本のメディカル・センターに入った。カオダイン難民収容所で働いた。約4万人のカンボジア難民が収容されていた。日本チームは、主に外科を担当した。南木さんは内科医なのでやることが無く麻酔をやっていた。
 仲佐先生は良く手術をし、よく寝て、夜はよく飲んでいた。先生は新米なので団長と同じチームに入れられた。団長にいろいろ教わりながら一生懸命やっていた。
 日本には自分がいなくても良い。カンボジアで日本人でない人と接するのは面白い。
 帰国して作家との感受性の違いを感じた。

[患者は自分で治る 医者が治すわけじゃない]
 先生が主にやっていたのは、地雷で足を吹き飛ばされた難民たちの足の切断や帝王切開など。
 仲佐先生はカンボジアで奥さんになる看護婦さんと出会った。海外に夫婦一緒に出られる。
 難民は家族全員が病人の看護をする。日本には見られなくなった光景。ボリビアでも、エチオピアでも、パキスタンでも同じ実感を持つ。家族が病人を支えている。

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[無力感を背負ったまま、現地にとけ込んでいく]
 国によって、技術が進んできたところにそういう援助をすれば、自立してやって行く。
 パキスタンのいちばんの問題は識字率で女性は10パーセント以下である。
 医者しか医療をやっていないからよくない。看護婦さんとか、検査をする人とか、ケアしてくれる人のレベルが上がらないと難しい。
 エチオピアの山奥の、雨が2、3年降らなくて、なにも食料が採れない状態の土地に病院を建てた。人間がどんどん死んで行く。エチオピアでは無力感を募らせるだけだった。
 先生は現地にとけ込んじゃう。

[医学は医療活動の一部にしかすぎない]
 先生は平成6年から7年にかけてアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学で公衆衛生を勉強する。公衆衛生では人間をすべて社会の中でとらえる。
 著者はそれは佐久総合病院の若月俊一がやったことと言い先生もそれに同意します。
 今働いているバキスタンは妊産婦死亡率が高い。産婦人科はイスラム教なので、女医さんしか診療できない。母子保健センターで教育し先生はアドバイザーをしている。
 自分が学びに行くんだという姿勢が大切である。

[国際医療協力後進国である日本の捨て石に]
 やっぱり家族で絆なり、関係というのが、開発途上国は自然である。
 今、国際医療協力の基礎固めである。


◎研究者の信念(武田伸一)
[偏差値用の頭と学問のための頭]
 1年上の1期生のなかに、それまで出会ったこともないような優秀な学生がいた。彼らを知って、この大学でやっていこうという気持ちになった。
 秋田大学の場合は他の大学ならは教養科目たけをやっているような時期に、いきなり解剖学などの専門科目の講義が始まってしまった。
 ある決まった体制、カリキュラムのなかで学問を身につけていくことはできるけれども、それから出ることは難しいと感じさせられる場合があります。私は逆に、決められたものを学んでいくことはあまり得意じゃなかったけれど、自分で探して勉強していくことは、大学の6年の間に身についた感じがします。

[医者の無力感との出逢い]
 信州大学で受けた夏の実習に強い衝撃を受けた。東大から赴任して来られた塚越広先生に出逢った。
 大学病院で初期研修を1年半やったところで、実際の病院に出た。そこで臨床がいかに大変かということを身をもって感じた。出張先の病院に半年の予定で務めはじめた。そのとき基礎医学の教室に行って研究をしてはとの誘いがあった。東大医学部の薬理学教室である。
 秋田大学が一人前の臨床医をつくることを目標にやっているのに対して、東大は医学者をつくるという教育をしていました。具体的には各論の講義を例に挙げると、秋田大学ではそれぞれの病気について網羅的に教えられてきたけれども、東大では代表的な病気についてどのように研究されてきたかを教授が話すんです。その他の各論の知識は、自分で教科書を読んで勉強してくださいという感じで、このあと研究をどう展開したらいいか自分で考えられるわけです。
 実際に与えられた課題について一生懸命に研究したのですが、そうしていると自分が解放されて生きていく活力が与えられていく感じを覚えたんです。臨床をやったときの非常なる疲労感と無力感に対して、コントラストをなしていました。

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[難病筋ジストロフィーに立ち向かう]
 私の場合も信州大学に戻って来て、助手を3年半近く務めたあいだに診察した患者さんで、いまでも忘れられない人が何人かいるんです。その患者さんたちを診察したことが、研究をずっとやってゆくうえでも励ましになったりヒントになったりしたと思います。
 1980年代の後半にハーバード大学のクンケルという若い博士が、分子遺伝学のテクニックを駆使して、原因となる遺伝子を見つけだした。

[真実を追究する方法はいくつもある]
 研究者にとって必要な資質はしつこさである。
 フランスのパストゥール研究所で分子遺伝学の出発点となる分子生物学を身につけた。

[細胞の死 個体の死]
 細胞の死を研究することによって、個体の死も身近になってきた。


◎結核治療に生きて(小野勝)
[結核が死病だった頃]
 父も伯父も医者だったものですから、子供の頃からなんとなくおれは大人になったら医者になるんだと思っていたんですね。
 日本人の死亡原因として結核がトップでしたが、何万人ぐらい?
 昭和17年頃がいちばん多かったというのをどこかで見たことがありますが、17、8万人は死んでいたみたいです。

[治療法なき病との闘い]
 傷痍軍人東京療養所、いまの国立東京療養所東京病院で働くようになったのは偶然です。
結核の患者をちゃんと診たのはそれが初めてと言ってもいいくらいでした。結核になってしまったら、あとは安静療法しかないと思っていたような時代です。

[結核は告知されて隔離される死病だった]
 結核療養所に入ってた人たちは、自分が結核だということは分っているわけですよね。
 それはもちろん知っていました。だって癌と違って強制隔離をしたわけですから。

[外科医としての人生観]
 先生はもし癌だというふうに診断されたら、告知を受けたいですか。
 受けたいですね。もうね、何というか、一生かかってやろうと思っていたことがなくなっちゃったんでね。

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◎在宅医療の理想(隅田俊子)
[リハビリの概念を探索する]
 新潟や長野のような寒い県の場合、やっぱり脳卒中が圧倒的に多いんです。脳卒中は治っても障害が残る患者さんがいっぱいいたわけです。もしかしたらこういう人たちのお手伝いができないかなと思ったんです。

[患者さんとの出逢いが自分を変える]
 留学から歸って、大学にほんのわずかいて、あとは新潟市内の信楽園病院に行きました。一人のAL S (筋萎縮性側索硬化症)の患者さんを受け持ったことも、大きな意味がありました。その患者さんは現役の保健婦さんだったのですが、家にかえるためいろいろ努力しました。
 私はこの患者さんと出会えたことで、医者の頭ってすごく硬いんだなってことを実感できたんです。

[家族は介護のプロ]
 昭和63年から佐久総合病院では、その当時は在宅ケアといわれる仕事が始まったんですが、在宅ケアのなかで、あるいは地域ケアのなかで私どもが目指すものを二つ作ったんです。ひとつは「生命と暮らしを守る」、ふたつは「サービスはお年寄りと介護者に」
 介護のことをいちばん分っているのは決して医者ではなくて、やっぱり家族を介護した経験のある方ですね。

[医者の死生観は患者によって決まる]
 リハビリテーションというのは、メイク・フィット・アゲインというふうに言われるんですけど、障害を持ちながらでも、もう一度社会に適したものになっていく。それをお手伝いしていくのがリハビリテーションという医療なんだというのが、基本的な考え方ですね。
 医者がまだ関与できる部分というか、医療というものが関与できる領域が残されていて、そこはまったく未開発のままなんですね。

[女医の時代]
 やっぱりこれからの女医さんには、あんまり男と同じことをしようなんて思わないでほしいですね。子育てだったら子育てに思いっきり力を注いでみる。そうすると子育てをしたことが、実は医者をやってゆくなかで男にはないとてもいいものを蓄積してくれるんじゃないでしょうか。


◎文学か医学か(皆川夏樹)
[文学部で人間を知り 医学部で医療を知る]
 もともとは哲学とか宗教をやって、医者という職業を考える上で自分に必要なものを身につけようという思いもあったんですが……。

[医療の現場で]
 南木 タフでないと医者は続けられない。死を他者のものとして乗り越えていけるような医者じゃないと医療は長く続けていけない。

[文学と医学と]
 SFではクローン人間ができてきたときに起こりうることについて、ずいぶん前からあらゆる想定がされていますよね。
 南木 小説の修行というのは、「文学界」の編集者で非常に優秀な人がいまして、たくさんの人に分ってもらえるような小説を書く、というのが出だしでしたね。

[小説を書く医者か 医者をする作家か]
 南木 先生はたぶん医者が小説を書こうとしているんじゃないかな。私は小説家がたまたま医者をやってるんです。

5 あとがき
 正直なところ、酒を飲まないで人と話をするのは苦手です。最近、ほとんど酒が飲めなくなってしまったので、人と話す機会もめっきり減ってしまいました。
 ただ、妻に言わせると、酒を飲んでいた頃の私は自分の言いたいことだけを言い放って、あとは勝手に寝てしまうだけのどうしようもない酔っ払いだったようです。
 酒なしで対話するのはとても緊張してしまうのですが、その分、相手の言葉に耳を澄ますことができ、じっくりと考えてから応答できます。小説を書くときにも、何度も書き直しをする不器用な性格なので、気を許せる人たちと時間をかけて話すのは私の気質に合っているのだと分かりました。
 ふつうの医者たちとの対話を終えて、私はなんとなくほっとしています。私の生きられなかった部門で活躍している彼、彼女たちの生活と意見を活字に定着させることができた満足感なのかもしれません。死を見ざるを得ない医者という職業の語り部のつもりで小説を書いてきた私は、己の作品世界の狭さに嫌気がさしてきていたところだったので、広い世界を教えてくれた対談相手のみなさんには大いに感謝しています。
 ありがとうございました。
1998年冬 信州佐久平にて  南木佳士

5. この本を読んで
 この本の中には、いろいろなお医者さんが登場します。タイトルの「ふつうの」というのは、特に有名またはマスコミに登場しない医者という意味で、医者の種類、研究と診療、診療の科目、仕事の移り変わり(医学の進歩)、海外での活動、自己実現の方法などは多岐に亘っています。
 いずれにしろ、医者という職業はストレスが多いと思います。ただ、担当する部門によってストレスの強さは異なるのは当然です。
  「88歳の秋−若月俊一の語る老いと青春」の項でも触れましたが、小野先生が所属しておられた大槻外科の大槻菊男先生には、お目にかかったことがあるので懐かしく思いました。

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[Last updated 9/1/2011]