88歳の秋−若月俊一の語る老いと青春

  目 次

1. まえおき
2. 目 次
3. あとがき
4. 著者紹介
5. この本を読んで


著者 南木佳士
発行所 株式会社 岩波書店

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1.まえおき
 このホームページで「風に立つライオン」を取り上げるきっかけとなった、神宮テニスクラブの仲間蓮見さんの息子さん純平君は、現在佐久総合病院で勤務しています。そのご縁で、佐久総合病院に関する本を三冊読みました。まず、著者の南木佳士(なぎけいし)さんは病院に勤めながら作家となり、第百回芥川賞を受賞しました。他の二冊の本については「あとがき」にも出てきますが、その一冊の「信州に上医あり」は、同じ著者による若月俊一(わかつきとしかず)氏のことを書いたもので、さらに若月氏の自伝とも言える著書「村で病気とたたかう」がもう一冊です。これらの本は二冊とも岩波新書です。今回取り上げた三冊目の本は、新書の二冊を探している時、大田区の図書館で偶然に巡り会ったものです。
 これらの本を読んで二つの因縁に驚かされました。著者南木さんの出身地は浅間山の麓の鎌原で、近くに友人と共有しているヒュッテがあります。もう一つは若月さんの恩師大槻菊男先生のことで、先生は私の父の主治医をしておられ、太平洋戦争の末期に、その頃住んでいた上野公園近くの自宅で、お目に掛かったことがあります。
 このような病院で学んでいる純平君は、必ず所期の目的を達成して、世の中、人のために貢献することでしょう。

2. 目 次
前口上 …………………………………………………………………………………………1

印象派(3) 蕎麦屋で考えたこと(9) 「若月俊一の退職」(13)
午後の読書(18) 窓際者の無知(24)

病んで初めて分かったこと ……………………………………………………………………31

医者としての思い上がりに気づく(33) 弱者への共感と弱者のための行動の逆説(40)
専門分化への不信と信頼(42) 自力の限界、たたかいの変容(47) 安楽には死なない(52)
老いて病む者の存在と価値(55)
第1回インタビュー後記(61)

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若月俊一と太宰治 ……………………………………………………………………………65

太宰治との相似(67) 商大予科(73) 左傾のきっかけはいじめだった(75)
食いっぱぐれのない医学部へ(78)
第2回インタビュー後記(83)

青春時代としての戦前…………………………………………………………………………87

複雑なエリート意識(89) 理想か実践か(93) 理念だけでは死ねない(102)
小説家の結核、医者の結核(107) 留置場でしたたかに生きのびる(111)
都落ちの絶望はなかった(120)
第3回インタビュー後記(124)

虚構の終点 現実の始点 ……………………………………………………………………129

佐久は寒かった(131) 敗戦で知る農民のしぶとさ(136)
背景の理想、細部の現実(143) 斜陽の太宰、闇米の若月(149)
死への誘惑、生への執着(155) 「いま」しかない(161)
第4回インタビュー後記(166)

 あとがき(171)

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3. あとがき
 次の一作こそが生涯の最高傑作になるはずだと思って書き続けるのは、文豪に限らず、作家という人種の矯正しがたい習性であろう。だから、多くの作家はすでに書いてしまった作品には興味を示さなくなる。私の尊敬する亡き開高健さんは自分の著書が出版されると一度も読まずに押し入れの奥深く蔵したそうである。
 私はすでに5年前、『信州に上医あり−若月俊一と佐久病院』を上梓し、若月俊一の価値に関しては自分なりに書きつくしたつもりだった。この本はおなじ岩波新書から出ている若月の『村で病気とたたかう』からバトンタッチされたものと勝手に決めて書いた。両書を読み比べていただければ分かるが、リレーゾーンのごとく内容が重なつている部分も多い。
 これを書いた頃、私の心身の不調は最悪で、午前中の外来診療をするだけで疲れきってしまい、同僚の心療内科医から処方される抗うつ剤と抗不安薬の助けを借りてようやく原稿用紙に向かっていた。明日にでも死んでしまいそうな予期不安が常に頭を去らなかったので、作家になってから第一の目標にしていた若月に関する本を書き残しては死ねない、とあせっていた。
 この時期、若月は月に一度「若月塾」を開いて若い職員たちに自分の過ごしてきた激動の昭和という時代の解説と、その時々の権力にいかに対峙したかを語っていた。この私塾は一年間にわたって開講されていたのだが、私は出席する気力、体力がなく、医局の秘書の方に頼んで録音してもらい、そのテープを家で横になって開さながらメモを取り、必死に下書きを作った。原稿を清書するとき、参考文献からの引用の部分はワープロを覚えたての小学六年生の次男に入力してもらった。
 いささか大袈裟だが、『信州に上医あり』はこんなふうに命がけで一年かけて書きあげたものなのだ。その後、私は周囲の理解あるスタッフたちに甘えて楽な勤務に回してもらい、なんとか生きのびてきた。そこに、今回の若月の危機が起こつたのである。
 若月の価値は曲がりなりにも記録しつくしたつもりだが、本音を聞いていない。
『信州に上医あり』が識者たちから「面白いが不完全な評伝」と評されていたことがどうしても気になっていた。そして、なによりも、熟考してみれば、若月と二人きりでじっくりとプライベートな話をしたことなど私の22年間の佐久病院での生活で一度もなかったのである。
 佐久病院は千人を越える従業員を抱える企業なのだから、係長クラスの私が会長の若月と話す機会がほとんどないのはあたりまえなのだが、だからこそ、作家として、語り部として彼の言葉を多くの人に知ってもらいたいとの義務感を覚えた。なんというか、私は若月を頂点とする佐久病院という組織のピラミッドからはみ出してしまった、それがなくても構造的には何の問題もない崩れ石みたいな存在なのでかえって自由な立場に立てるような気がしたのだ。

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 4回の合計でも3時間余しかないインタビューではあったが、思いきって病室に飛び込んで行った私に若月は率直過ぎるほど裸の自分を語ってくれた。若月の人生は彼の生きた時代によって決められた部分が多い。佐久病院が大きくなれたのは高度経済成長の追い風を受けたからに過ぎないと皮肉を言う人たちもいる。
 しかし、この時期、なぜ若月なのかと問い直してみると、理想を手ぬぐいで頭に巻き止めながら現実の泥海を犬かきで必死に泳ぎ抜いてきた彼の一見みっともない生きざまこそが、生きる、ということの基本を教えてくれているように思えるのだ。「農村医療」という理想だけに惹かれて佐久病院に来た若い医者たちは、現実との乖離に失望して去っていった。彼らはまた他の青い鳥を捜しに行ってしまったのだ。
 私は青い鳥など最初からいるはずはないと予感して就職し、やっぱりいなかったよな、とすぐに気づいた。でも、青い鳥なんてどこにもいないんだよな、と無理に言い聞かせながら若すぎる日々を生きるのはやはりかなりつらかったので、現実をありのままに受け止める道具として小説というクッションを必要としたのだった。
 若月を青い鳥だと思って佐久に来て、その俗っぽさに失望して出ていった医者たちは、いまどこかで本物の青い鳥を見つけているのだろうか。私はそうは思わない。
彼らなりのやり方で現実と折り合いをつけて、ストレスに満ちた現実の海を泳いでいるのだろう。理想への欲望は常に失望をもってしかかなえられないのだから。
 ならば、もう一度、失望の原点であった若月を検証してみれば、自分が折り合い、これからもつき合っていかざるを得ない現実の素顔がよりよく見えてくるのではないか。地下鉄サリン事件の林郁夫受刑者はどこまでも、どこまでも青い鳥を捜し続けた医者だった。彼の手記は、純粋に理想のみを追い続けていると、棚上げしておいた現実の重みに耐えかねて棚が落ち、己の頭の上に現実が凶器と化して降りかかってくることを教えてくれている。
 若月の現実と切り結ぶしたたかさこそが、この時代を生さ抜く若者たちに最も必要なものなのではないか。
 小さな説を書き続けてきた私が大きな説を口にするつもりは毛頭ないのだが、これがインタビューを終えての素直な感想である。『村で病気とたたかう』、『信州に上医あり』、そしてこの本を読んでもらえば、若月俊一の全体像がかなりはっきりと分かっていただけるのではないかと期待している。もちろん、本書が強烈な個性を持つ医療実践家ではあるが、心身ともに日々流転する生身の人間であることをまぬがれない若月の、88歳の秋の姿のみを記録したものに過ぎないことをよく知っていただいた上での話だが。

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 若月へのインタビューが可能かどうかも分からない時点で私の出した企画に素早く対応してくれた岩波書店の川上隆志さんにあらためてお礼を申し上げます。この後押しがあったおかげで、内輪話に終わることのない、広がりのある本音を若月は語ってくれたのだと思います。
 一般の面会が許されない時期の安静時間に押しかけた治療関係者でもない私の入室をこころよく許可してくださった若月家の方々にも深く感謝いたします。ありがとうございました。
 最後に、若月俊一の救命処置に携わった佐久総合病院内外の医療スタッフのみなさんに一介の作家として敬意を表します。

 1998年立冬 信州佐久平にて
                                著 者
4. 著者紹介
南木佳士(なぎけいし)
 1951年群馬県に生まれる
 1977年秋田大学医学部卒業
 作家・内科医
 著書−「信州に上医あり」(岩波新書) 「エチオピアからの手紙」「ダイヤモンドダスト」(第100回芥川賞受賞)「落葉小僧」
      「ふいに吹く風」「医学生」「山中静夫氏の尊厳死」「阿弥陀堂だより」「冬日和」(いずれも文藝春秋刊)

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5. この本を読んで
 この本は、「あとがき」にもあるとおり、著者が若月俊一に対して行った四回のインタビューをまとめたものです。前に「信州に上医あり」(岩波新書)を書いた筆者が、かねてからの疑問を大病をした後の若月さんにぶつけ、その答を編集したものです。第1回目は、病気をした若月さんが気付いたことを中心にしており、高齢者に向けた若月さんの発言になっています。第2回目は、同時代人の太宰治との比較をしています。また若月さんが医者になろうとした頃のことを聞き出しています。内容的には「信州に上医あり」を書いたときの疑問が中心になっています。第3回目は、若月さんが高校生になってから佐久平に赴任するまでの時代を、第4回目は、佐久に赴任してからの時代を取り上げています。この本を読んで改めて思ったことは、彼の若い頃の理想が、現実との折り合いを付けながら、地域医療に結実しているということです。

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[Last updated 10/31/2007]