須賀敦子氏 「コルシア書店の仲間たち」ほか


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  目 次

1 須賀敦子さんとの出会い
 須賀さんの作品との出会いを想い出します。
2 須賀敦子・作品解題
 須賀さんの作品を解説します。
3 須賀敦子解読
 池澤夏樹氏の湯川豊氏を聞き手にした解読です。
4 「コルシア書店の仲間たち」目次
 代表作「コルシア書店の仲間たち」の目次です。
5 ダヴィデに−あとがきにかえて(コルシア書店の仲間たち)
 「コルシア書店の仲間たち」の「あとがき」に当たるものです。
6 「ミラノ 霧の風景」目次
 彼女の第1作「ミラノ 霧の風景」の目次です。
7 「ミラノ 霧の風景」あとがき
 「ミラノ 霧の風景」のあとがきです。
8 「ヴェネツィアの宿」目次
 彼女の第3作「ヴエネツィアの宿」の目次です。
9 「トリエステの坂道」目次
 「トリエステの坂道」の目次です。
10 「トリエステの坂道」エッセー
 
日経新聞に載った解説です。
11 「ユルスナールの靴」 目次
 「ユルスナールの靴」の目次です。
12 「ユルスナールの靴」 あとがきのように
 「ユルスナールの靴」の「あとがき」に当たるものです。
13 「時のかけらたち」目次
 「時のかけらたち」の目次です。
14 「地図のない道」目次
 「地図のない道」の目次です。
15 書評「本に読まれて」
 新聞に載った「本に読まれて」の書評です。
16 須賀敦子のミラノ
 1998年に亡くなった作家・須賀敦子の足跡をイタリアにたどる紀行真集。ミラノは、61歳といっ遅咲きのデビューになったエツセー集『ミラノ 霧の風景』の舞台だ。
17 「須賀敦子を読む」
 須賀の担当編集者だった湯川豊氏が、須賀のエッセイ5冊を熟読して著した初めての本格的な評論です。

1 須賀敦子さんとの出会い
 須賀さんの本は『コルシア書店の仲間たち』を読んだのが初めてで、次に読んだのは「ヴェネツィアの宿」だとおもっていました。今度全集に入った「地図のない道」の「ザッテレの河岸で」を読んだところ、これが「ヴェネツィア案内」(新潮社 とんぼの本)に載っており、この方が先だと思いました。しばらく須賀さんの作品からは、遠ざかっていました。それが、この夏(2000年)に久が原図書館でリサイクル資料の中に「文学界5月号−[没後一年特別企画]須賀敦子の世界(平成11年5月)」を見つけ、さらに「文芸別冊 追悼特集 須賀敦子 霧のむこうに(KAWADA夢ムック)」を入手して、読みなおすきっかけとなりました。
 須賀さんの著作はそれほど多くないのですが、最近全集が出たこともあり、改めて読みなおされているのだと思います。

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2. 須賀敦子・作品解題
1) 『ミラノ 霧の風景』       (1990 白水社)
 イタリア文学者として一部にのみ知られていた著者は、この一冊によって、多くの人の注目を浴びることになった。とはいえ本書には大々的な前宣伝も刊行時の大反響も無縁であった。ひそかに読みつがれながら、ひたひたと読者をひろげていき、少しあとに出たタブッキ『インド夜想曲』の名訳の評判も相俟って、いつのまにか人々の共通の話題となり、それから当然のように女流文学賞と講談社エッセイ賞を受賞した。今では奇跡的といっていいこの本の運命そのものが、いかにも須賀敦子的ではないか。「SPAZIO」の連載を集めた本書には、記憶と想起から織りなされる、須賀文学のエッセンスがみずみずしく凝縮されている。

2) 『コルシア書店の仲間たち』      (1992 文芸春秋)
 書き下ろしである第二作は、著者が二十代から三十代の青春時代を賭けたコルシア書店を舞台に、そこに集まり、関わった人々を描く。そこで夫や彼女たちがめざしたのはカトリック左派の思想をベースにした社会変革のための共同体の形成だった。夢へ向けた青春の物語がすべてそうであるように、本書もほとばしる希望とパッションの物語である以上に、挫折と諦めと離別の物語なのだが、そこを書ききる著者の距離感は絶妙という他ない。この時期の経験が著者にとって至高のものであったことは確かだろう。九冊の著書の中でも最も美しい書物として支持する読者も多いのではないか。

3) 『ヴエネツィアの宿』      (1993 文芸春秋)
「文学界」の連載をまとめた第三作は、はじめて、しかも集中的に自身の幼・少女期を綴った、読後、余韻がのこる名作である。ヴェネツィアのコンサートの夜に、かってここを訪ねた父を思い出す見事な序章にはじまり、その父の死で閉じられる構成の鮮やかさといい、そしてエピソードとエピソードをつなぎあわせる妙といい、著者がその技法の熟練をきわめた一冊といってよいのではないか。

4) 『トリエステの坂道』     (1995 みすず書房)
『ミラノ 霧の風景』以降、「SPAZIO」に書きつがれた文章を集めたもの。亡夫の思い出の地トリエステを探ねたことから綴り起こされる本書の中心をなすのは、鉄道員の子に生まれた夫ペッピーノの家族とその周辺の人々の肖像である。インテリでもブルジョアでもない、どちらかというと幸薄い庶民たちがこの本の主人公なのであり、そのためか全体にデ・シーカや初期のフェリーニらネオ・レアリズモの映画のような雰囲気がただよう。そういえば、著者は本書がすぐ反響をよんだことへの感想をキアロスタミをひきながら語っていた。気どらないが、不思議な力にみちた本だ。

5) 『ユルスナールの靴』    (1996 河出書房新社)
ユルスナールと須賀敦子という二人の文学者による魂の二重奏。だが著者には日本の文学者に宿痾のようにつきまとう対象への同一化の欲求は無縁である。「文芸」連載の始め頃著者は語っていた−「ユルスナールとの違いを確かめるために書くの」。この両義的な批評性は自身へも向けられていた。当然、この二重奏の試みは、著者の潜在的主題を緊張感とともにあらわにすることになった。そのためかここでのエピソードが、渡欧や宗教との出会いなど多くが「越境」にかかわるものであることが注意をひく。本号収載の堀江敏幸の素晴らしいテキスト(堀江敏幸『幻視された坂道−「ユルスナールの靴」をめぐって』本項末尾[出典]P.184)は、本作のまたとないガイドである。

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6) 『遠い朝の本たち』      (1998 筑摩書房)
 著者にとって生きることは読むことと切りはなしがたかった。幼年期からの読書体験を著者ならではのスタイルでたどりなおした本書は、どの著書よりも魂の自伝という趣きをもっている。本書を、『ヴエネツィアの宿』などの幼年期の記述と重ねると、その軌跡がより立体的に、うかびあがってくる。須賀敦子がいかにして須賀敦子になったか、その自己形成の原風景に遡る、爽やかな幸福感にあふれた一冊。

7) 『時のかけらたち』       (1998 青土社)
「ユリイカ」の連載(石の軌跡)を中心にまとめられた没後二冊めの著書。著者はここでヨーロッパの建築や美術との出会いをたしかめながら具体的に出会ったひとの様々な記憶を交錯させていく。というと、日本人が西欧体験を語る本にはありがちなスタイルかと思われそうだが、当然ながら、本書はそれと縁遠い。著者が心ふるわせるのは、大伽藍の構築性ではなく、群衆をのみこむ大階段であり、舗石のぬくもりなのだ。多層的で、より小説的な色彩の強い須賀文学の新しいひろがりを予感させる美しい書物。

8) 『本に読まれて』     (1998 中央公論社)
 読書家であった著者は、また当代無比の書評家でもあった。書評は、論じる者の書物への愛の深さをさらす。だから様々な書評を集めた本書は他の著書より軽く扱われるべきではない。川端、タブッキら著者の偏愛する書き手の本から、いかにも折りにふれて読んだという感じの新刊まで、本書がフォローする領域はひろい。読むことの歓びにみちていて、どの一篇も読み流すことを許さない一冊。

9) 『イタリアの詩人たち』       (1998 青土社)
 没後四冊めの著書は、77〜78年「SPAZIO」に掲載された、サバ、ウンガレッティ、モンターレ、カンパーナ、クワジーモドという五人の詩人をめぐるエッセイを集成したもの。これによって、著者帰国後の初の仕事がまとめられたことになる。著者の愛する詩人たちの軌跡とその魅力の核心が、美しい翻訳詩とともに紹介されている。詩への愛こそ須賀文学の核心であった。本書はイタリア現代詩への望みうる最良のガイドであると同時に、新しい世代のための須賀文学の入口となるだろう。なお、同時期に著者訳『ウンベルト・サバ詩集』(みすず書房)も刊行された。
      (出典 文芸別冊 [追悼特集]須賀敦子 霧のむこうに (株)河出書房新社 1998.11.15)

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4.
「コルシア書店の仲間たち」目次
入口のそばの椅子  7
銀の夜  29
街  59
夜の会話  79
大通りの夢芝居 99
家族  111
小さい妹  147
女ともだち  163
オリーヴ林のなかの家  177
不運  191
ふつうの重荷  205
ダヴィデに −− あとがきにかえて  217

コルシア書店の仲間たち
1992年4月30日 第一刷

著 者 須賀敦子
発行所 (株)文 芸 春 秋

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5. ダヴィデに−あとがきにかえて(コルシア書店の仲間たち)
 2月6日、木曜日にダヴィデが死んだ。そうミラノの友人から電話がかかってきたのは、ついこのあいだのことで、ちょうど、去年の夏から書きついできたこれらの文章が、一冊の本としての輪郭をとりはじめた時期とかさなっていた。訃報をきいて、私は、偶然のめぐりあわせに茫然とした。書きはじめたばかりの昨年の9月には、いまはタデイーノ街書店、もとのコルシア・デイ・セルヴィ書店が、経営がうまくいかなくて、人手にわたったという噂をきいた。それを伝えてくれたのは、台風に触発された大雨の夜、夕食で同席した、まったく初対面のミラノからの旅行者だった。その人は、「タディーノ街書店」の常連で、私が20年まえ、その書店にかかわっていたと知って、おどろいていた。彼女は、ルチアが、やはり重い病気で再起がおぼつかないとも話してくれた。本の結末を、著者が書くのではなくて、事実が先取りしてしまうというのは、いったいどういうことなのだろう。

 ダヴィデとは、20年まえ、山の修道院の石畳のうえで別れたのが、最後になった。数年まえ、彼が悪性腫瘍のための手術をうけてから、いつ最悪の事態がきてもふしぎではないはずだとは、私がイタリアに行くたびに、友人のだれかれから、聞いていた。しかし、ダヴィデからも、ルチアからも、そのことについてはまったく音沙汰がなかったし、私のほうも、お見舞の手紙を書くこともしなかった。75年ごろからは、ほとんど毎年のようにミラノに寄っていたのに、ベルガモの山に彼に会いに行くことはしなかった。そして、とうとう、彼の訃報に接してしまった。

 昨年の11月、ローマに行ったとき、『最後の詩集』と題された、ダヴィデの本があちこちの本屋の店頭にならんでいるのを見て、はっとした。彼の詩集が、こんなふうに人目にたつ場所で売られているのは、見たことがなかったからだ。灰色の表紙のその本は、大手のガルザンティ出版社から出ていて、どの書店に行っても、詩集にしてはかなり目立つ場所に置かれていた。自分がそこに立って、ダヴィデの本が売られているのを、 まるで他人のように見ていることが、妙にせつなかった。自分は、ほんとうはその本の なかにいるような、本のなかから、書店に来る人たちを見ているような、そんな気がした。それでいて彼の詩学が、現時点の私とは離れたところにあるだろうことは、本を読まないでも、だいたい、わかっていた。処女詩集『わたしには手がない』から数えて、半世紀ちかい歳月がすぎている。あの本には、戦争中、抵抗運動のなかで生まれた作品があつめられていて、それを暗い山道を照らすトーチライトのようにして、一歩一歩、進んだ戦後の時代が、私たちにはあった。あれが、出発点だった。そのあと、私たちは、しばらくはいっしょに、それからは、ばらばらに、それぞれの道を歩いた。
 山のように積みあげられたダヴイデの詩集のそばに、私はしばらく立っていたが、まわりに人がいなくなるのを待って、一冊を手にとってひらいてみた。扉の献辞には、この本をながい年月、ずっとそばにいてくれた友人のカミッロに捧げる、とあり、表紙の折り返しには、ダヴイデ・マリア・トウロルド、1916年、フリウリに生まれる。コルシア・デイ・セルヴィ書店の創立者、とあった。それだけ読むと、なぜか安心した。詩集は買わなくてもよかった。
 私のダヴィデは、これからもずっと、あの巨大な図体のまま、ロンバルデイア平野を見下ろす山の修道院の仕事部屋で、若い修道士たちを大声でこきつかい、大きな手で小さなグラスに注いだグラッパを、朝っぱらからぐいぐいやりながら詩を書き、満月の夜には、中世の塔が影をおとす石畳の広場で友人に別れを告げつづけるだろう。

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 ダヴィデの死を電話で知らせてくれた友人にたのんで、私は新聞の記事を読んでもらった。葬儀のミサの参列者の名を、彼は、ひとりひとり、ゆっくり読んでくれた。カミッロをはじめ、この本に出てくるひとたちの名が何人もあった。記憶のなかの、そのひとたちの、ちょっとした身振りや、歩き方のくせが、ゆっくりと私のなかを通っていった。私の知らない名もあった。それは、たぶん、ダヴイデがミラノをはなれて、山の修道院に行ってから、親しくなったひとたちに違いなかった。葬儀のおこなわれたのは、ペッピーノのときとおなじミラノの大聖堂に近い、私たちのコルシア・デイ・セルヴィ書店が軒をかりていた、サン・カルロ教会だった。暗い聖堂に置かれた柩を照らす、蝋燭の灯影の赤いバラの花束も、祭壇に焚きしめた沈香の匂いも、きっとあのときとおなじだったろう。

 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐつて、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しょうとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。

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6 「ミラノ 霧の風景」目次
  遠い霧の匂い              5
  チェデルナのミラノ、私のミラノ    13
  プロシュッティ先生のパスコリ    29
  「ナポリを見て死ね」           47
  セルジョ・モランドの友人たち   71
  ガッティの背中             87
  さくらんぼと運河とブリアンツァ  107
  マリア・ポットーニの長い旅    124
  きらめく海のトリエステ      142
  鉄道員の家             161
  舞台のうえのヴェネツィア     179
  アントニオの大聖堂        197
   あとがき               215

7 「ミラノ 霧の風景」あとがき
死んでしまったものの、失われた痛みの、
ひそやかなふれあいの、言葉にならぬ
ため息の、
灰。                  ウンベルト・サバ《灰》より

 純粋な時間として考えると、六十年の人生のなかの十三年は、さして長い時間ではないかもしれない。しかし、私にとってイタリアで過した十三年は、消し去ることのできない軌跡を私のなかに残した。二十代の終りから、四十代の初めという、人生にとって、さあ、いまだ、というような時間だったから、なのかもしれない。
 二十年まえ、日本に帰ってきたとき、いろいろな方から、イタリアについて書いてみてはと勧められた。自分でも、書きたいとは思ったが、自分にしか書けないものをどのように書けばよいのかわからなくて、時間が過ぎた。それが、ある日、チェデルナの本を読んでいて、ふと、書けそうな気がして、そのことを友人の鈴木敏恵さんに話したときから、この文章は書きはじめられた。
 本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本、翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知り合った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。
 そして、なによりも、尊敬する友人たちの支持とはげましがあったから、私はこれらのページを埋めることができた。ながいこと忍耐をもって、いつかこんな本ができるのを信じて待ちつづけてくださった鈴木敏恵さん、なにかイタリアについて書けるはずだと自信のない私を何年にもわたって勇気づけ、この本を企画してくださった白水社の芝山博さん、面倒な原稿の整理を一手にひきうけ、貴重な数々の助言をくださった藤波健さんには、言葉にあらわせないほどの感謝の気持をお受けいただきたい。

 いまは霧の向うの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる。
                                                       須賀敦子

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8 「ヴェネツィアの宿」目次
ヴェネツィアの宿          7
夏のおわり             27
寄宿学校              47
カラが咲く庭             77
夜半のうた声           105
大聖堂まで            129
レーニ街の家           155
白い方丈              179
カティアが歩いた道        203
旅のむこう             225
アスフォデロの野をわたって  247
オリエント・エクスプレス     265

ヴェネツィアの宿  1993年10月1日 第一刷
著 者 須賀敦子 発行所 (株)文 芸 春 秋

9 「トリエステの坂道」目次
トリエステの坂道 ……………………………………241
電車道 ………………………………………………260
ヒヤシンスの記憶……………………………………271
雨のなかを走る男たち………………………………284
キッチンが変った日 …………………………………297
ガードのむこう側  ……………………………………310
マリアの結婚…………………………………………325
セレネッラの咲くころ …………………………………338
息子の入隊  …………………………………………352
重い山仕事のあとみたいに…………………………368
あたらしい家…………………………………………382
ふるえる手……………………………………………395

出典 須賀敦子全集第2巻 2000年5月10日 初版発行 発行所 (株)河出書房新社

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10. トリエステの坂道《エッセー》
  異郷の2人が結んだ絆(描かれたヱルダー)

 イタリアを題材にしたエツセーでも、須賀敦子による作品は明るく享楽的な南国のイメージとは対極にある。霧深いミラノの街に沈む鉄道員官舎を舞台に、そこで暮らしていた夫の肉親らを描いた「トリエステの坂道」 (新潮文庫)に漂うのも、ネオ・レアリズム映画のような重く濃い陰影だ。
 その中心にいるのが、41歳で急逝したイタリア人の夫、ペッピーノの母親、著者が「しゅうとめ」と書き表す義母である。
 色白の肌にブロンドの髪、肥満体の彼女は、片田舎の居酒屋の娘だった。その居酒屋にふらりと入ってきては、計算を手伝ったりしていた出生の定かでない少年を両親が気に入り、としごろになった時にふたりは結婚した。
 彼は下級鉄道員の職に就き、息子が三人、娘がひとり生まれた。四人の子どものうち、長男は21歳、長女は18歳で結核に倒れ、次いで夫も心臓麻痺(まひ)で亡くなった。著者の夫だった二男は、家族の中でただひとり、苦学の末に大学を終えた息子だったが、その彼も人生の半ばであっけなく病魔に命をもぎ取られてしまう。
 そんな運命を神から与えられた義母は、「水の中で呼吸をとめるようにしてつぎの不幸までを生きのびて」きた老女だった。彼女が居揚所にしていた狭い台所には粗末な木のテーブルや黒ずんだ食器棚が置いてあり、彼女の人生に寄り添いながら、その不幸を存分に象徴していた。
 だが圧倒的な貧しさ、不幸の中にも、生が息づく場面はそれぞれに用意されている。「私の菜園」と彼女が呼んだ、ハンカチほどのささやかな″庭"で、紫苑(しおん)の花を摘んできたとき。家族のための靴下や、自分の仕事用に指先のない手袋を、黙々と編んでいたとき。鉄道員の配偶者がもらえる国鉄の無料パスを、大事そうに見せてくれたとき−。
 追憶の中にある「しゅうとめ」の姿を丁寧にすくいとる著者の筆は淡々として、決して美化に走ることはない。が、そこには、年齢も育ちもまるで違う異郷の女性二人が結んだ絆(きずな)が確かに存在する。そして読む者を深い感動に導くのだ。  (清)
(出典 日経新聞 2002.5.12)

11 「ユルスナールの靴」 目次

プロローグ………………………………………………………11
フランドルの海…………………………………………………20
1929年…………………………………………………………43
砂漠を行くものたち……………………………………………66
皇帝のあとを追って……………………………………………93
木立のなかの神殿……………………………………………119
黒い廃墟………………………………………………………141
死んだ子供の肖像……………………………………………158
小さな白い家…………………………………………………181
あとがきのように……………………………………………  196

12 「ユルスナールの靴」 あとがきのように
 二年半にわたって書きつづけたこの文章がいま本になろうとしているのを、私はもうすこし手もとにおいて書き足りないところを埋め、あるいは文章を練り、理解の浅い部分を深めたい気持でいっぱいだ。でも、書くあいだ、たえず私のなかにあった目に見えない読者のところに、いまはこれを本にしてお送りする時間が来てしまったようにも思える。私、ではなくて、「本」が決めた時間が−。そこで小説にしばしば「覚え書」をつけて、作品の経緯を説明したユルスナールをまねて、私もあとがきのようなものをつけることにした。

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 強靭な知性にささえられ、抑えに抑えた古典的な香気を放つユルスナールの文体と、それを縫って深い地下水のように流れる生への情念を織り込んだ、繊細で、ときに幻想の世界に迷い遊ぶ彼女の作風に、数年来、私は魅せられてきた。
 作風への感嘆が、さらに、彼女の生きた軌跡へと私をさそった。人は、じぶんに似たものに心をひかれ、その反面、確実な距離によってじぶんとは隔てられているものにも深い憧れをかきたてられる。作家ユルスナールにたいして私が抱いたのは、たしかに後者により近いものであったが、才能はもとより、当然とはいえ、人生の選択においても多くの点で異なってはいても、ひとつひとつの作品を読みすすむにつれて、ひとりの女性が、世の流れにさからって生き、そのことを通して文章を熟成させていく過程が、かつてなく私を惹きつけた。
 ユルスナールのあとについて歩くような文章を書いてみたい、そんな意識が、すこしずつ私のなかに芽ばえ、かたちをとりはじめた。彼女が生きた軌跡と私のそれとを、文章のなかで交錯させ、ひとつの織物のように立ちあがらせることができれば、そんな煙みたいな希いがこの本を書かせた。
 この本はまた、ながいこといろいろな思いでつきあってきたヨーロッパとヨーロッパ人についての、そして、彼らと私の出あいについての、私なりのひとつの報告書でもあるだろう。
 究極的には、作品を愉しみ、著者に興味をもつという、きわめて単純な発想がこの本を書かせたにすぎない、とも思う。そして、そのことをすこしずつ私に教え、さとらせてくれた、ときにはこの本にも出てくる、日本とイタリアの友人たち、先学の方々に、私はどう感謝してよいかわからない。
 二年半にわたって、この仕事を応援してくださった河出書房新社の川名昭宣さん、また『文芸』に連載中、さまざまなかたちではげましつづけてくださった阿部晴政さん、そして本になるまでの山のような難問を、時間と労力をかえりみないで、辛抱づよく解決にみちびいてくださった木村由美子さんにも、深い感謝の気持を受けていただきたい。

[追記]
 参考文献というと重くるしいが、この本の土台となった本だけをあげておく。マルグリット・ユルスナールの作品については、ガリマール社刊の二冊のプレイアード版(Marguerite Yourcenar,Fuures romanesques, " La Pleiade " ed. Gallimard, 1982;ibid. Essais et Memoires, 1991)。なお、『恭しい追憶』(Souvenirs pieux)、『北の古文書』(Archives du Nord)、『なにを? 永遠を』(Quoi? L'Eternite)および『ハドリアヌス帝の回想』と『黒の過程』については、グラツィエッラ・チッラリオ訳、エイナウディ社のイタリア語版を、『ハドリアヌス帝の回想』については多田智満子氏の、そして『黒の過程』については岩崎力氏の日本語訳(どちらも白水社刊)を参考にした。その他の直接的な文献には、サルド、ブラミ編のユルスナール書簡集、Lettes a ses amis et quelques autres, ed. Gallimard, 1995' また、テレヴィジョンのためにマチュウ・ガレイが行なった長い対話Les yeux ouverts, Le Centurion, 1980がある。
 伝記的な事柄については、とくにジョジアヌ・サヴィニョー(Josyane Savigneau)の、Marguerite Yourcenar : L'Invention d'une vie, Gallimard, 1990に、またミシェル・サルド(Michele Sarde)のVous, Marguerite Yourcenar : La passion et ses masques, Robert Laffont, 1995に負うところが多い。
 終りに、ジッドについて貴重なご教示をいただいた中央大学の中島昭和教授、そしてピラネージ関連の資料やご教示をいただいた武蔵野美術大学の長尾重武教授に心からのお礼を申しあげたい。
(出典 須賀敦子全集第3巻 2000年6月9日 初版発行 発行所 (株)河出書房新社)

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13 「時のかけらたち」目次
リヴィアの夢−パンテオン…………………………………203
ヴェネツィアの悲しみ………………………………………216
アラチェリの大階段………………………………………   232
舗石を敷いた道……………………………………………248
チェザレの家……………………………………………… 260
図書館の記憶……………………………………………   271
スパッカ・ナポリ…………………………………………… 283
ガールの水道橋……………………………………………303
空の群青色…………………………………………………319
ファッツィーニのアトリエ……………………………………332
月と少女とアンドレア・ザンゾット………………………… 345
サンドロ・ペンナのひそやかな詩と人生…………………  360

14 「地図のない道」目次
地図のない道………………………………………………377
 その一 ゲットの広場
 その二 橋
 その三 島
ザッテレの河岸で…………………………………………  457
(出典 須賀敦子全集第3巻 2000年6月9日 初版発行 発行所 (株)河出書房新社)

15 書評「本に読まれて」 須賀 敦子著
 翻訳家、エッセイストとして知られ、98年に亡くなった著者による書評集。デュラス、タブッキといった海外文学から、歴史書、さらにダンテや世阿弥などの古典まで取り上げる対象は幅広い。読書から得る「世界はいつも、じぶんの知らないところでつながっているようだ」といった実感は、長く欧州に暮らした人だけに説得力に富む。書評の名を借りた鋭敏な時評は、芸の域に達している。(中公文庫 648円)
(出典 日経新聞 2002.1.27)

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[Last Updated 9/30/2009]