須賀敦子解読

池澤夏樹
聞き手湯川豊(文芸春秋)

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       目 次

1 ヨーロッパとは何かを追った人
2 土地と人間を結ぶ
3 より良く生きようという意志
4 孤独とは何か
5 導入された小説的技法
6 カトリック思想家として
7 なぜ父を書いたのか
8 「家族の肖像」として描かれた夫
9 ユルスナールとヴェイユ
10 ヨー口ツパを読み解く深々とした教養
11 須賀敦子から渡されたもの

1 ヨーロッパとは何かを追った人
 − 須賀さんが生前に出された五冊の本、『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』『ヴェネツィアの宿』『トリエステの坂道』『ユルスナールの靴』を中心に、順を追って論じていただきたいと思います。その際、池澤さんのお考えを引き出すために、あえてこちらの読後感などを少し話すということがあるかと思いますが、インタビューによる須賀敦子論という趣旨からしてあらかじめお許しいただければと思います。
 さて、『ミラノ 霧の風景』が1990年12月に出て、まもなく澎湃として評価が沸き起こりました。そのときに池澤さんが受けた感じからお話しいただけますか。
 池澤 最初に感じたのは親近感でしたね。非常によくこの新しい作家のことが分かると思いました。ほとんど自分の同類のようだと思った。僕が中途半端にやめてしまったことを徹底した人。僕はアテネに三年いましたが、ヨーロッパという部屋をちょっと覗いただけで帰ってきてしまった。それを須賀さんは二十年かけて、僕が入り口から覗いた部屋の一番奥に掲げられた絵まで一枚ずつ全部丹念に見た。
 日本人は敗戦で自信をなくした後で、アメリカのほうにすり寄つた。しかし、「これからはアメリカだよ」という声を無視して、「そんなに分かったような顔しちゃいけない。ヨーロッパというのはもっと奥が深いんだから。ヨーロッパにはまだまだ日本人が知らない知的・文化的・精神的な富があるんだから」と考えた人たちのなかで、最も徹底してヨーロッパを知ろうとして、しかもその姿勢において大変誠実であった − 須賀さんはそういう人だと思ったんです。

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 − ヨーロッパをここまで感じることができるのかというのが、多くの読者の驚きだったようです。須賀さんの本は、語られる方法においても中身においても、日本人のヨーロッパ体験という流れのなかで突出しているのではないかという思い。そう感じさせた最大の要素は何でしょうか。
 池澤 まず言葉ですね。つまり、ヨーロッパとは何かということへの答えが日本語で書けるかという間題がある。ヨーロッパという概念は翻訳可能か。ヨーロッパの言葉を逐語的に日本語に訳しても、それだけでは通じない。むしろ、その分からなさがありがたさだという勘違いがずっとあった。須賀さんの場合は、純正な日本語の文章の中に移してもなお、表層だけではなくヨーロッパ的なるものの真髄が高濃度に含まれている。それに近い例として、たとえば森有正さんや阿部良雄さんのヨーロッパもあったけれども、やはり彼らは学者であって、ここまでの思想と生活感の一体化はないでしょう。須賀さんが書いたヨーロッパの現場の多くは会話の場面ですね。そこがすごい。
 イタリア人の考え方に沿って、あの論理のカーブの切り方をうまく追いかけながら、自分の思想にしていく。その理解の探さ。言ってみれば、日本とイタリアという、ものの考え方において遥かに離れた両方の土地に片足ずつが置けるほど、この人は足が長いんだなという印象ですね。それも、かろうじてつま先で触ってるんじゃなくて、両方をしっかり踏みしめたときに書き始めた。
 − 確かにそうですね。イタリア人の会話を書くとき、かぎ括弧の中に入れたものが全く日本語になり切っているんですね。それでいて同時にイタリア人が喋っているという感じがそこから立ちのぼってくる。
 池澤 目に見えている像の裏に実物があるわけで、言ってみれば日本語に移せばこうもあろうかという憶測の結果なのだけれど、その間で像が歪んでいないんです。表面的には練れた日本語だけど、その一段下のロジックは日本語じゃない。翻訳でも、うまくいけばそうなるわけでしょう。須賀さんの場合、表面の層は優れた翻訳小説以上に日本化しています。
 − 外国の小説が非常にうまく日本語に翻訳された場合に、かぎ括弧のなかは日本語の会話になっていながら、日本人が喋っているのではないのが自然に伝わってくるのと、同じような効果ですね。
 また、『ミラノ 霧の風景』は、″須賀敦子的文体″というのが後の作品に比べると手さぐりで作られていっている感じもあって初々しいですね。いろいろなことを考え考え形にしていく喜びみたいなものに溢れているというか。
 池澤 確かに初々しい。触って確かめながら書いているよう。それでいて、文章そのものは最初からやっぱりとても上手ですよね。昭和十年代の子供の時に関西と東京の両方で上品な日本語を覚えて、その後、長じてからはフランス語とイタリア語と英語を意識的に道具として扱ってきた人。しかも大変な読書家という蓄積がある。この本には、その後に膨らむテーマが幾つも見つかりますよね。たとえば「鉄道員の家」はこのあと何度も違った形で書かれて、亡夫ペッピーノの一家の姿を描ききった『トリエステの坂道』に発展する。そういう意味では、彼女はまず自分の力を試した。自分に書きたいことを正確に書く日本語の能力があるか確認した。内容と文体の組合せの有効性を試した。
 自分のなかにあって書かれることを待っている素材を発見していったんだとも思いますね。たとえば「ガッティの背中」であれば、『コルシア書店の仲間たち』でずっと詳しく書かれることになる、あの書店の雰囲気をさらっと書いている。「ナポリを見て死ね」には彼女の父親がちょっと出てきますが、これも『ヴェネツィアの宿』でふくらむ話です。そういう意味では、見本市みたいな一面もある。『ミラノ 霧の風景』は完成されているけれど、しかし、大作ではない。ここで終わっている話じゃなくて、次への促しになっている。

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2 土地と人間を結ぶ
 − 文筆の書き方でも、風土と本の世界と人間をからませるというふうなやり方など、後にさらに自在に展開する手法が試みられていますね。
池澤 ええ、土地の描き方ね。須賀さんは土地を描写するのが実にうまいでしょ。ある町をまず地理的に説明して、そこに住んでいる人達、言葉、自分の体験、いくつもの面から、だんだんに像をつくってゆく。
 − これだけ風土というものを話の中に生かせるものかというのが非常に新鮮でした。「さくらんぼと運河とブリアンツァ」というミラノ郊外を語った文章の絶妙なうまさ。そこに近代イタリア精神の柱であるマンゾーニが出てくる。
 池澤 ある町に住み始めて、あるいは訪れて、そこを地理的にとらえた上で人が動き始める、その書き方の手続きがよく分かるんです。古典的手法ではあります。たとえばアテネのことを僕が書く場合にはどうするか。アクロポリスとリュカベトス、この山二つを結ぶ線とシソタグマとオモニアという二つの広場を結ぶ線が十字になっていて、それを基に町のさまざまな性格が各方面へ展開されているんだ、というふうな言い方をするわけです。こつちの広場に集まる人はだいたいこういう人で、こっちは観光客と。何かそういうヨーロッパ的な手法があるんですね。
 − その一方で、おかしいことに須賀さんは案外土地勘の乏しい人でもあった。東京でもそういうところがあったし、あれだけ長くミラノに住んでいて、コルシア書店があるところと自分の住まいのムジェッロ街六番地の間を行き来していて、その間のミラノしか私は知らない、と言う。つまり、あくまで自分が体験した地点からじわっと広がっていくというのかな。けっして一気に全体を俯瞰しない。「アントニオの大聖堂」で、フィレンツェの北の山の町に車と電車でつれて行かれる話では、曖昧な記憶を辿りながら、気がつくとエニシダが丘の斜面に咲いていたというふうな話の進め方をしていますね。
 池澤 鳥瞰する気がない。上から見て要約しない。一歩ずつ歩くという体験的な方法を徹底的に洗練する。歩いていながらここだと思ったら、実はここではなくて、途方に暮れるということが……。
 − 途方に暮れるのが得意なんですよね、須賀さんは(笑)。
 池澤 そう、立ち竦んでしまうでしょ。ヨーロッパの論理のなかに迷い込んだ日本人の運命でもある。
 − それがかえって須賀さんのヨーロッパ理解を本当に人間的なものにしたという感じがします。
 池澤 だから、歩いていって全体が見える場所に立ったときの喜び。一番いい例はトリエステで、着いた翌日の朝のホテルの食堂から一歩ベランダに出るとパッと海が見えて町の展望が開ける(「トリエステの坂道」)。あの視点が得られたときは嬉しい。
 ミラノは本当にあまりにも生活の場であるから、一本の電車道とコルシア書店と、自宅だけだったというのは、つまり、自分にとってミラノはそれだけでいいという気持ちもどこかあるんじゃないかなあ。
 − 簡単に客観化しないところがある。須賀さんは実にそこのところ独特ですね。
 池澤 何事にも近道を使わないから面白いんでしょうね。四角いところはきちんと四角く回るから。

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3 より良く生きようという意志
 − その態度を人間に移していえば、自分が付き合っている具体的な人間を通してヨーロッパ人を生き生きとしたものとして把まえる姿勢がありますね。この辺から『コルシア書店の仲間たち』について語っていただきたいのですが、この第二作ではそれはさらに強力なものになっていく感じがしますが。
 池澤 彼女目身も含めて、これらの著作に登場する人たちに共通するのは、良く生きようという意志なんですね。そういう意志を持ってる人たちを彼女は相手にしている。それを彼女は原理としては提出しないで、常に具体例として並べた。『コルシア書店の仲間たち』に出てくる人たちの場合にはそれが格別に強烈です。その遥か先にはシモーヌ・ヴェイユが立っている。ヨーロッパ人は「人はより良く生きなければいけない」という要請を最初から背負って育っていると思う。人はいろんな生き方をするものですが、日本人やアメリカ人から見ていて最も分からないのは、この「良く生きるべく努めなければいけない」という促しではないか。これは須賀さんの一生を貰いた原理だった。書店を運営して、そこから影響を広めていくという運動自体が、サン・フランチェスコにはじまる神の御心によりかなう生き方を真剣に踏襲した宗教的実践だった。宗教というのは常に自分に対して問いかけをするものでしょう。充分に祈っているか、周囲の人びとに目を向けているか、人間の社会全体を良いほうへ持っていこうと努力しているか、そういう質問表を脇に置いた上で生きてゆく。宗教者でなければ、今度は哲学的な質問表の用意がある。日本の場合はそういうものが全く抜け落ちているからヨーロッパが分からないんですね。
 − より良く生きようとする人をめぐる文学的営為が須賀さんの仕事であった、というのは非常によく分かります。
 池澤 社会改革の意志まであるかどうかは別にして、たとえばペッピーノのお母さん。非常に苦労して夫を支え子供たちを育てる、その努力をも須賀さんは、そういう視点から称賛するんだと思う。
 もう一つ言えば、時代もありますね。みんなが貧しかったということが。貧しいときに、まず自分を生かしむること、日々をなるべく明るく元気に過ごすことも、すでに「より良く生きる」努力であったでしょう。だから須賀さんは、そう努めている人たちに対して共感する。そういう神学的な勤勉さなんだと思う。怠惰を嫌う、あるいは自分のなかで充足することを嫌う。神様のやさしい促しの視線をいつも背後に意識している。そういう裏付けのある勤勉さ、それが彼女にすれば一番大事なことだったんじゃないでしょうか。
 − 須賀さん自身は、なかなかやんちゃで我儘な人であった(笑)。しかし、須賀さんと付き合っていた人は、それをすべて肯定的に見ていたと思うんです。それは、彼女のどこかに池澤さんがおっしゃるような強靭な意志、モラルにまで高められた意志を感ずるからですね、きっと。
 池澤 ヨーロッパはやんちゃで我儘でなければやっていけないところなんですよね。つまり、その場その場でいつも意志をはっきりして自分の旗を立てていなければ、人から見えなくなっちゃう。どんな意見であれ表明することによってそこに存在することが認められる。一種政治的判断として、そう思ってないけれどここでこの意見言っておいたほうが立場が強くなると思ったら、それを言うぐらいレトリカルな意見もあるわけです。『コルシア書店の仲間たち』の中に、その人の意見というのは平凡で常識的なものだけど、でもその人が意見を口にすると夏の日に涼しい風が吹いたようだった、という女性が出てきますよね。
 そうやってやってきて身についたのか、あるいはそういう資質があったのか、須賀さんの「私はそんなものは認めない」は妥協の余地なく認めないんであって、もしそれについて「こういういいところもあるじゃないですか」と言ったら、彼女は滔々と議論を展開しますよ。須賀さんが「私はね……」とはじめたら、この「私」は日本語における軽い発語の辞ではなくて、彼女の全存在がかかった強固な「私」なんです。

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 − 須賀さんはイタリアに行って直観的に「私に合う」と思ったと書いていますね。フランスから帰って二度目の留学先をイタリアにするというのはいくぶん唐突でもあるんですけれども、イタリア人というのは、お節介で黙っていることを許さないでしょう。寄ってきて「あなた言いなさいよ」としむける。そういうお節介さが日本人の須賀さんにとっては救いになったようなところがあったのかもしれません。
 池澤 手を取って無理やり上げさせられるようなところがあるわけね。人とのコミュニケーションを大事にしようという以上に、コミュニケーションがあって当たり前。寄宿舎を出た彼女がローマの駅で重い荷物を持って時間がくるのを待っていると、人が来てやたら声をかける。彼女は警戒して黙っていたけれど、南のほうから来たおばさんが「うちに来ない。下宿しない?」って言うんで仰天する。
 − 『ヴェネツィアの宿』の「カラが咲く庭」に出てくる話ですね。
 池澤 ああいう声のかけ方は、確かに地中海の国々にはありますね。
 − 一方で沈黙していることを許してくれたということが書いてありますね。あたかも自分がいないかのようにコルシア書店の仲間が会話を交わして、そのおかげで自分がどれぐらい彼らを観察したり彼らを認識したりすることができたか感謝していると。引き上げてくれる力と静かに脇に置いといてくれる力と、イタリアというところは、そういう点、絶妙である、と。
 池澤 もう一つは、彼らはインテリですから、それがすごく大きいと思う。つまり、この人はここまで分かるんだから、とりあえず放っておけば、もうちょっと前へ出てくるかもしれない、という教育的配慮でほっておく。その配慮はやっぱり知識人だからですね。
 − 自分の居場所を見つけるときの直観力はすごいと思うんです。聖心女子大の頃から、既にカトリック左派のいろんな動きに対して興味を抱いていた。パリへ行って必ずしも受け入れられないけれども、そういう運動があるということは須賀さんは勉強によって知っていて、ローマでは、そういう人たちにめぐり合う機会をパッとつかまえる。
 池澤 ある国に行って、そこの人間とか文化とか言葉を学んでゆく。これほど奥行きがあって、やってもやっても飽きない遊びは世の中にないでしょう。僕は敢えて「遊び」と言ってしまうんですが。僕もギリシアに行ってみたり、ハワイに通ったり、沖縄に来てここの元気を貰ったりしている。そのときに、行った先のインテリたちのなかに入れてもらうのは、本当に大事なことなんです。庶民のあいだに入って庶民ごっこをしてもやっぱり分からない。そういう意味では、須賀さんは一番いいところへ行ったと思うし、自分の精神的同類の仲間に入れた。
 また知性という尺度をしっかり持つことで、社会の上から一番下まで、さまざまな階級の人と出会える。知性と階級は無関係ですからね。大金持ちから庶民まで一つのテーブルに付いて話ができる。だから須賀さんが書いたものに出てくる人物像はバラエティがあって、イタリアの全体が見える。僕の場合は、その一歩手前まで行って、もう一つ奥まで入れなかった。ギリシアは軍事政権が倒れて民主化されて、それでもまだ軍事政権時代の問題がいろいろ残っていて、それをみんな日々論じているわけです。その議論の細部が具体的に分かるまでにはならなかった。最終的にそれを教えてくれたのは、アングロプロスの映画『旅芸人の記録』です。須賀さんは、それを現場で追っかけていたわけでしょう。これをやれば僕にもヨーロッパが分かったのにという意味でやっぱり羨ましい。それが僕が須賀さんを尊敬した一つの理由です。
 − なるほど、知識人であることで社会的な階級の壁を突き破るということですね。その意味でも『コルシア書店の仲間たち』ですごいなと思ったのは、ハンガリーのユダヤ人とシチリア出身の女性が結婚してできた家族の話(「家族」)。こういう人たちと日常的に、しかも深くつきあって、ユダヤ人というものの運命からヨーロッパを語る物語になった。
 池澤 しかも、娘の結婚相手の顔がヒトラーに似ているというのだから、出来すぎている(笑)。いろんな人種が土地を争いながら生きてきたというのは、なかなか日本人には分からない。

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4 孤独とは何か
 − 先程、池澤さんが用意してくださった、「より良く生きようとする意志を持っている人びと」という補助線は非常に有効だと思うんですが、ただ『コルシア書店の仲間たち』に登場する一人ひとりを考えていきますと、敢えて言うと、須賀さん自身が相手のなかにそういう萌芽を見たがっている、そういう角度からその人を描いているところがありませんか。実際はもっといい加減でだらしがないかもしれない人間からそういう意志を掬い出そうとしている、といえないでしょうか。
池澤 そのとおりですね。言ってみれば、ほとんど神父の視点ですね。神父とか牧師というのは、一人の人間の悪い側を知り尽くしながら、いい面を引き出すことを任務としているわけでしょ。それに近いと思う。「良き信者」はお互いに対して良き神父にたぶんなり合うんだろうと思う。人をなるべく良い点において、神の視点から見てうべなうべき点において評価する。ただ、それが堅苦しさにならない、お説教にならないのは、あの人の幅ですよね。
 − たとえば「女ともだち」(『コルシア書店の仲間たち』)では、ガブリエーレという、女に振られ続けて、しかも追っかけ回しつづけるどうしようもない男が出てきますが、彼は最後にジェノワで落ち着きを得て、この話はそこで終わっている。つまり、ガブリエーレの女の尻を追っかけ回す生き方が最終的には全肯定的にとらえられている。と同時にそれは須賀さんが登場する人物一人ひとりをのっぴきならない孤独へと追いつめていっているというふうにも見えるんです。「より良く生きようとする意志」と同時に、そういう意志を持って生きる人間が本当にどうにもならない孤独というものを背負っているというふうに。それはカトリック的認識なのかどうかよくわからないのですが、ヨーロッパの近代人は孤独というものを背負っているというのが、須賀さんの認識の核心にあったのではないか。知識人であれ庶民であれブルジョワであれ、人間をとらえるその視線が須賀さんにはあった。それが須賀さんのエッセイに魅力と重層性をもたらした、というふうにも思われます。
 池澤 孤独はカトリック的というより、近代キリスト教なんでしょうね。昔は会衆の一人としてミサに参列している限り個人に戻らなくて済んだのに、プロテスタントの誕生を契機に、神様と自分という一対一の関係が強調されるようになって、最後の審判で神の前に立つときは一対一で向かうしかないという厳しさが、現世での日々についても強調されるに至ったんだろうと思うんですけどね。

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 − コルシア書店の運動の中心人物であるダヴィデ・トゥロルド神父なんか、もう我儘いっぱい、自分のやりたいことをやって、いわば周囲にいる人間をおおいつくしていく。普通だと孤立感というものがこういう人から漂いにくいものですけれども、須賀さんは、その生き方をトレースしながら、最後に、ああこの人はこういう運命を生きるしかないという意味で、ダヴィデの孤独があらわになるところまで追い詰めている。
 トゥロルド神父を中心とするコルシア書店の活動は、一時代の青春ともいえるわけです。しかし須賀さんは青春を過ごす群像を描くのではなく、彼らが行き着いた地点にまで遠く視線を届かせて、一人ひとりの本当の孤独を見さだめている、という気がします。
 池澤 彼らの社会改革の意志が緩んでバラバラになって、それぞれにまた生き始めるという意味では、これは一束の「青春」の記録ですね。ただ須賀さんは「青春」という言葉を使っていない。使った途端に全部が日本的な個人の回想録に落ちてしまう。だけれど、真剣に取り組んでいたという姿勢はしっかり評価しているんですよ、「若いから、なんにもわからずにあんなことをやっていたね」というのじゃない。動かない核の部分は最後まであって、若い頃に目指していたことと、その後の彼女の人生のあいだにそんなに落差はない。ただ、なぜこのコルシア書店が最終的に解散することになったかといえば、成熟するにつれて距離が離れていく。言ってみれば、みんなが本来の自分になっていくにつれて孤独になっていく。若いうちは、核の部分の回りに柔軟な部分がたっぷりあって、その部分でお互い重なり合うことができるけれど、人が成熟してゆくというのは、その核の部分が大きくなって、柔軟な部分が減ることですよね。
 − ああ、そうですね。共同体というのは、やはり、他人と融け合う部分を重視する。その共同体がだんだん不可能になっていったときに、孤独、孤立が露呈してくるわけですね。須賀さんの「あとがきにかえて」の言葉を借りれば、それは「若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」。この文章が全編の軸になって、その軸に全部のエピソードが収斂されていくかたちになっているわけですね。
 池澤 若い人たちの共同体運営は、冷たくいえば、社会改革ごっこだった。試験管のなかでしか通用しない議論だったんじゃないか。だから外に出したら、それは外の風に耐えきれず枯れたんじゃないかという言い方もできる。ヨーロッパというのはずっとそういう議論をしてきた所なんですね。もっともあの頃は日本だってけっこうみんな熱っぽかったですよ、貧しくて。僕が子供の頃、親の世代はずいぶん議論をしていた。稚拙な議論だったかもしれないけど。ヨーロッパと日本の違いもあるけど、もう一つは時代がすっかり変わって、いまは、人の距離がいやに開いて、言葉が絶えて、白々としてしまった。
 − たしかに、戦後のある時期まで人びとはさかんに議論をしていたという感じがしますね。
 池澤 そう。あんなに議論して、その貧しさを何とかしようとした結果がこんなものなのか、という皮肉な感想を豊かになった僕たちの世代は持つわけです。ヨーロッパの場合は、普通に生きてきて、ある程度誠実であれば、孤独が何なのか、ある齢になったら分かって、それに耐えるようになる。そういう構造が社会の側から用意されているような気がする。日本では、人間が孤独だということが遂に分からない。歳をとつて一人っきりで寂しいという感情以外の何でもないんじゃないか。寂しさと孤独はまったく無関係なんだけど。ヨーロッパでおばあさんたちが真っ黒いコートを着て、静脈癌の浮いた足でよちよちと歩いて、最小限の年金で独り暮しをし、近くの店で口論しながら食料をなるべく安く買って大事に食べて、そうやって生きている。友だちもほとんどいないし、ただ頑としてそこに生きているだけですよ。しかし、それで生きているあのしぶとさというのは、なかなかすごいものだと思いますよ。

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5 導入された小説的技法
 − もう一つ、『コルシア書店の仲間たち』の話法について伺っておきたいんです。『ミラノ 霧の風景』よりもさらに一歩進んで、立ち止まって描写する方法が出てきています。友人だったガッティを描いた「小さい妹」とか、「オリーヴ林のなかの家」とか、「ふつうの重荷」には、記憶・回想を超えた描写がはっきり意識的に使われはじめていて、その意味ではきわめて小説的な書き方をしているという気もするんですが。
 池澤 確かに『コルシア書店の仲間たち』で一歩前へ出た、小説的表現を取り入れた。なぜそこからもう三歩出なかったか、まるまる全部の小説を書くようにならなかったか、それが気になりますね。やっぱり彼女は作るということに対して、どこかで抑制が働いていたんだと思う。フィクションとして書くというのは、どこか、したり顔の嫌らしさがあるんですよ。僕なんかでもずいぶん昔、それに邪魔されてフィクションが書けなかった。小説は万引きに似ていると言うんです(笑)。最初は自分の中の抑制が働くからドキドキしてなかなか実行ができない。繰り返すうちにだんだん慣れてきて、僕は、もう自動車一台でも万引きしてしまいますよ。
 『トリエステの坂道』ではペッピーノの亡父ルイージを描いた話で、途中から彼女は完全に小説の描写をするでしょう。彼は土手の上に立って夕陽を見ながらこう考えた、と(「ガードのむこう側」)。ああ、遂に入り込んだなと思って読みました。ルイージは須賀さんが強く共感しながら、ペッピーノほど近くはなかった人物ですね。乗り移りやすい距離ではあった。
 しかしあれがギリギリの形だったというか、つくりごとをしてはいけないという抑制のほうが最後まで強かった。それでエッセーか小説かのあいだという形式が最後まで用いられた。人間たちの心の話、運命の話ですからね、エッセーとして書くにはあまりにもふくよかな話なんですよ。個人的にも親しかったナタリア・ギンズブルグのことを考えるとよく分かるのだけれども、あの人も、フィクションを書きながらどこかはにかみがある人で、書簡体をつかったりした。須賀さんがあれだけナタリア・ギンズブルグに共感したというのは、そこだと思う。
 もう一つは、どうしても書かなければいけないのはまず自分のイタリア体験であり、自分の人生であり、見聞きした人たちのことである。そういうタイプの作家であった。つまり、既に一つの人生を経てしまったわけでしょう。その完成された過去の人生を書くことが次の仕事になっている。それに一番相応しい手法は何かというと、エッセーから小説のほうへ一歩だけ踏み出したこの手法だったんではないかなと思うんですけどね。
 − 小説の方法をとりこみつつ、エッセーの枠から出ないということですね。
 池澤 もう一つ『コルシア書店の仲間たち』についていえば、この書店を中心にした活動の具体的内容、その時点その時点の議論の内容には入ってないんですよ。つまり、カトリック左派という看板を掲げただけであって、彼らが実際何をしようとしているか、どういう勢力とぶつかっているか、何が争点か、なぜ教会から睨まれたかというところには入っていない。運動する人たちを書いているのであって運動そのものでほない。むしろそれは、「あの頃イタリアにいて信仰心があって誠実だったら、左寄りのカトリックになるしかないでしょう。そんなことは大前提」と言って飛ばしちゃってる感じ。

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6 カトリック思想家として
 − 思想のドラマというか、宗教と人間という問題はやはり先送りしているような気もしますが。「古いハスのタネ」(文庫版『トリエステの坂道』に収録)は箴言的エッセーですが、これを基に小説を書きたいと須賀さんは言っていたんだそうです。この思想を物語として表現しようとするなら、回想エッセーの形では語れない。やっぱり小説にする以外に書きようがないんじゃないでしようか。アルザス出身の修道女を主人公にした「アルザスのまがりくねった道」という題名で書きはじめようとしていたということです。
 池澤 最終的に彼女はそれを書くつもりだったんですね。「古いハスのタネ」はモンテーニュ以来のフランス人のエッセーの口調で精髄だけを書いている。散文と韻文の関係を、宗教における集団の祈りと個人の祈りに絡めて圧縮した文体で書いている。イタリアでふだん彼らがやっていたのはあの手の議論だったと思うんです。僕はとても感動したんです。ああいう書き方で論じるべきテーマが本来あって、それを最終的に小説にするために、いわば準備として入れ物づくりに取り組んできたとも言えるのかもしれませんね。お好きだったサン=テグジュペリでいえば『城砦』のような、フィクションの衣を軽くまとった硬質の思想の表現。カトリック思想家としての須賀敦子の表現ですよね。
 − その小説が実現しなかったのも残念ですが、こういう論理と言葉だけによる、いわゆるエッセーというよりも評論に近いような文章も、もっと書いていただきたかったですね。
 池澤 そうですね。それに迂闊な人だと、『コルシア書店の仲間たち』まで読んでも、彼女自身がカトリックだったことに気がつかない。自分の信仰のことはほとんど言わないし、教会へ行って告解したというようなことも一切書いてない。信仰告白の道具として本を使ってはいないんですよ。それは神に向かってすればいいことだから。キリストが言ったとおり、祈るのは部屋の中で、人が見ていないところですればいいんですから。しかし、カトリックであったことを無視しては絶対に論じようのない人であるのは明らかです。
 − 幼時洗礼ではなく、青春時代にキリスト教を自分で選んでいるのに、なぜ選んだかは書いてないですね。
 池澤 友だちが修道院に入ってしまったとか、そういう話はあるんだけど。最後まで揺らがなかった心の一番奥の部分は書かなかったんですね。「書きたい」と「最終的にはそこまで書きたい」の間にあって揺れていたところですね。キリスト者であることを表へ出さない。遠藤周作は出してしまった。神との仲を書いた。須賀さんは神に見られていることの緊張と安心感を前提にした人の生き方を書いた。恋の過程ではなく恋の成果を書いた。そういう意味では須賀さんの宗教はもっと深いところにあった。そこにも非常に魅力がある人だったと、僕は改めて思う。
 − それにしても「より良く生きようとする意志」という宗教的なモラルがなければ、『ミラノ 霧の風景』と『コルシア書店の仲間たち』の二冊の本はできていないとたしかに思わせられます。
 池澤 須賀さんはたぶん日本に戻ってからずっと、自分が見つけたものを表現して世に伝えるに相応しい形式を探し続けた。表現したいものがあると確信していることと、それが書けるようになることはまた違う。信仰を比喩に使っていいか分からないけれど、「召命」という言葉があるでしょう。神様が呼んでくれるのを待っている。自分としては精いっぱい生きてます、という姿勢でいながら、神様から声がかかるのを待っている、あの感じ。「内容の準備は済みました。後は形式ができるのを待つだけです」というふうな姿勢が須賀さんの後半生にはずうっとあったんじゃないかと思う。「じゃあこの辺から始めてもいいよ」という促しがきて、その先も「ここまでなら書けます」という限界が少しずつ広がっていって書いていって、いよいよ最後の、「本当に一番書きたい一番大事なものを書きなさい」と告げられる前に、終わってしまった。

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7 なぜ父を書いたのか
 − 次に『ヴェネツィアの宿』に移ります。これは一冊の本として見ると、ちょっと不思議な感じがする作品ですね。須賀さんの両親のことが大胆に語られるいっぽう、主としてミラノにたどりつくまでの留学体験がその間に入っているという構成です。
 池澤 『ヴェネツィアの宿』では「カティアが歩いた道」が非常にうまくできていて、最も自分の心に近いところにいた人を書いて完成度が高い話です。しかし、須賀さんの生い立ちとその周辺の人たちの話とイタリア側の話の関係があんまりすっきりしていない。対比させているのか、たまたま並んだのか、何かもっと深い動機があったのかいまひとつ分からないところがある。
 − お父さんやお母さんのことをストレートに積み重ねるようにして書くことにどうしてもためらいがあったのでしょうか。そのために大きく迂回しながら書きすすめようとしたのかとも思われます。
 池澤 表題作で、オペラ劇場から漏れてくる二百年祭をホテルの部屋で聴きながらうつらうつらしていると、昔、父親が愛人連れで歩いているのに出会ってしまったという思い出が入ってくるところで急転直下、父の肖像のなかで最も醜い部分にいきなりいくでしょ。あそこに踏み込む勇気がどこから来たのか。しかも話はそこで唐突に終わっている。最終的には、「オリエント・エクスプレス」で、最も良き父の姿を書いて埋め合わせているんですけれど。
 − 外に女の人ができた父親との対決をいきなり書いたのも、すごいと思う一方でやはり不思議ですね。お父さん子でもあった自分と父親との関係を徹底的に書いてみたいと考えたのかもしれないと思うんですが。そうなるとどうしても「私」が主人公になるわけですね。しかし須賀さんにはエッセーという形式のなかでベタベタと私小説に接近することが生理的あるいは思想的にできなかったんじゃないかという気がするんですが、どうなんでしょう。
 池澤 家族というテーマは須賀さんの中に、自分自身が良く生きるということと同じぐらい重くあったと思うんです。間接的にはナタリア・ギンズブルグの家族小説の翻訳をすることを通じて表現していた。それと同じように今度は自分の家族のことを書こうとした。それも手法としては短編の積み重ねの回想録でという点では、ペッピーノの一家を書くのとほぼ同じような書き方をしようとした。だけど彼女自身が出てくるわけだから、それは全然違うものになる。抑制が利かなくて行き過ぎるし、戻ろうとすると戻り過ぎるし、その辺でずいぶん苦労しているように見えましたね。
 − 須賀さんは徹底的な反抗児で、お父さんは絶対的なワンマンなんですね。そのお父さんがある弱みをフッとみせたことで一種の理解が成立したんじゃないか。一個の人間としての父親にきちんと向かい合っている書き方になっている気がするんですよ。そう考えると、この一番恐ろしいシーンというのは、一種の理解だったのかなという気もするんですけど。
 池澤 なるほど。それを書きながら、彼女がそれまでのやり方では書かなかったカトリック信仰の直接的な話が出てきます。シャルトル巡礼に加わった話(「大聖堂まで」)で自分の精神史に近いものを書こうとしている。彼女がヨーロッパに行って得た思想的な成果を書きたいというのは、それはよく分かるんです。ただ、それも含めて自分の全部を表現したいという欲求の方は、僕の場合は自分にないものだから、共感もする一方、よく分からないというふうにも思うんですね。ものを書くには、その時々の必然性というのがありますからね、周りが何と言おうが書かざるを得ないことっていうのはあるんですが。
 − やっぱりここで書いておかないと先に進まないという意識はあったのかもしれないですね。特にお父さんとのことは一回書いておかないと気が済まない。とにかくもう徹底的なお父さん子で、反抗のしかた、和解のしかたからしても本当にお父さん子だったようですから。
 池澤 それが家族ってもんなんでしょうねえ。それが自分の話だから書きにくいんですね。イタリアの家族の話だったら、もっとうまい距離を取れていた。

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 − ええ。その客観化ということを軸に考えると、須賀さんが、エッセーを書きながら、西洋的な小説を書くという態度に似たものをきちんと持っていたというととになりませんか。構造と細部がなければいけないという自覚があるから、「私」そのものではなく、対象化できるものほど見事に書けるという。
 池澤 彼女には常に意図があるんです。どの作品についても、自分はこのことが言いたいから、こういう手法を使って、ここから書き始めてこう展開して、この文体でこう書く−というこの構築的姿勢はよく分かるんです。
 一種の含羞の姿勢から、託して述べるということをするでしょう。これは須賀さんの文学の一つの特徴だと思う。自分がしようと思ったような生き方をした人たちのことを書く。「カティアが歩いた道」は、私はこうありたかったという生き方が自分の近くに模範としてあったことを発見する話で、それが須賀さんの一つの執筆の姿勢であり、それによって自分語りだけではない幅や普遍性が出て文学としてすごく面白くなったんだと思いますね。
 彼女が模範とした先輩たちというふうな系列でいえば、最も幼い段階ではカテリーナ・ペニンカーサ (「シェナの坂道」『遠い朝の本たち』)とか、その後はエディット・シュタインとか、シモーヌ・ヴェイユとか、カティアとか、はっきりとは言ってはいないけれど「しげちゃん」とか。つまり神様の命を受けて献身した女性たち、というのが一つの理想像として常にあったと思う。繰り返しそういう人たちが出てきて、この人のこの部分を自分は範として認めたという評価がついた上でみんな紹介される。それが「託して自分を語る」ということで、おのずから須賀敦子にとっての理想の人生とは何であったかが見えてくる気がするんですね。カテリーナ・ペニンカーサについて書きながら、「神だけにみちびかれて生き」はしても「修道女として生き」はしなかったこの修道女に強く共感している。ちょっと引用しますと、「『神だけにみちびかれて生きる』というのは、もしかしたら、自分がそのために生まれてきたと思える生き方を、他をかえりみないで、徹底的に追求するということではないか。私は、カテリーナのように激しく生きたかった」。これが大学生になった時の須賀さんの理想の人生ですよ。その後もたぶんほとんど変わっていない。
 これは僕にとっては非常に魅力がある。そうか、そういうふうに生きようとしたんですね、それはやっばりヨーロッパの誠実な知識人の取る道の一つであって、それをたどろうとなさったんですね、こう話しかけたい気持ちになりますよね。
 − いまおっしゃったことは極めて重要な須賀さんのテーマでもあって、使命感によって生涯の道を決めてそれを歩む人というテーマは、完成しなかった最後の作品「アルザスのまがりくねった道」に繋がるように思われますね。そこでの主人公は、おそらくもう一人のカティアですよ。

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 池澤 さっきから、ついヨーロッパを強調してきたけれど、「より良く生きねばならない」というのはどの宗教にもある要請ですよね。日本での誠実に生きる人間とその失敗を書いた人に高橋和巳がいると思うんですよ。たとえば『邪宗門』は一つの宗教コミュニティーの成立と崩壊の歴史を描いていますが、ああいうものが日本人のなかにもある時期まではあった。いまは全く読まれなくなったけど、これは思い出しておいてもいいでしょう。
 それも含めて全部がサクセス・ストーリーだけのアメリカになし崩しにされたのが、この二十年間でしょう。みんな何にすがっていいか分からないままに、最後の時を待ちながら遊び惚けているわけだから。
 − 須賀さんが『ヴェネツィアの宿』で日本の家族のことを語るときの魅力として、話がほんとにうまいんですね。関西の人で実に話を楽しみながらするお喋りがいるでしょう。その片鱗がここに出ていないでしょうか。直線的な話し方ではない、持って回ってうまく話すという話上手を、家族のことを書く須賀さんになぜか強く感じました。
 池澤 「白い方丈」なんて、よく出来た話ですよ。人を魅惑できるだけの喋りができるというのは、作家の一つの資質だと思うんです。それがなくてやっている人はいっぱいいるけれども。喋るのが上手で、それがそのまま書くのに繋がっているという一面は確かにありますよね。須賀さん自身、なかなか挑発的な座談の名人だったし。

8 「家族の肖像」として描かれた夫
 − 次の『トリエステの坂道』ですが、ここではイタリアの家族の話をまっこうから描いているわけですね。
 池澤 一つ一つ良くてねえ。夫のペッピーノ一家の通史というか、彼らについて分かるべきことがすべて分かって、しかもその後日譚である義弟のアルドの遅い結婚からその息子の話まで伸び伸びと書いている。若死にの多い家系であって、貧乏で、しかもそれぞれが誠実に生きようとしている。ペッピーノだけじゃなくて、アルドにしても、お母さんにしても。そういう意味で深く共感ができる。つまり、須賀敦子の人生におけるギンズブルグ的なテーマに正面から取り組んで、それが理想的にうまくいった。
 − 義父のことを語ったのが「ガードのむこう側」ですね。このルイージという人は、ファシストが大嫌いな社会主義者であるために出世できなかった鉄道員だったという説明があります。ペッピーノという自分が結婚した知識人の父親、普通の庶民ではあるけれども、やっぱりインテリを生んだ父親という感じはすごくしますね。
池澤 弁は立たなくても思想がある。行動的に表現して、それによって受難の人生を送つた人ですね。

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− ガードのむこうにいる娼婦たちの絶大な信頼を得ていたヘンな鉄道員であつた。
池澤 ある意味では理想の神父の姿ですよ。娼婦の魂である金を預かっていた。そういった信仰的なものが、いつも陰にチラッと見える。僕が、共感を持って読んだのは、やつぱりこの貧しさ。「貧しさってものがあったんだよ」って、いま改めて日本人に向けて言わなきゃいけない。それこそ『鉄道員』から『自転車泥棒』から、『苦い米』から、あの手のネオ・レアリズモの世界があって、それを日本人だって共感を持って見たわけでしょう。須賀さんは、それを伝えたい気持ちが強かったと思うんですね。
− それが、この"家族の肖像"にぴたりと合つてもいますね。そして自分の隣に歩いているペッピーノを書いたのは、『ヴェネツイアの宿』の「アスフォデロの野をわたって」ですが、『トリエステの坂道』ではペッピーノをこの一家の一員として書こうとする意志が強く働いていますね。「雨のなかを走る男たち」などは中でも最も見事な例でしようか。
池澤 ペッピーノの姿を"家族の肖像"という額縁のなかにさりげなく入れて、すごくうまくいった。その先では、義弟のアルドの話で少し暗くなっていくでしよう。それが、アルドの奥さんシルヴァーナのお父さんの「重い山仕事のあとみたいに」という実に美しい死に方の話で一たん軽く完結した後で(サン=テグジュペリが『人間の土地』に書いている庭師の死を思い出しますね。手のひら一枚の重さで地面の中に眠っている大森林の出現を抑えていた庭師の、仕事を終えた後でごろっと横になるような死)、ミラノを引き上げた現在のアルドが「あたらしい家」で描かれる。このあたりは、長編として見てもうまくできている。そこに、頭と尻尾にちょっと別の話みたいに詩人のサバとギンズブルグの話が付いている。この関係が面白くて、一冊としての組み立ては、これが一番上手だなと思う。
− ギンズブルグといえば『ある家族の会話』を読んで、そこに自分もいつの日かこんなふうに書いてみようという鏡を見ることができた、と須賀さんはいつています。それが一番うまく実現したのが、この『トリェステの坂道』ということでしょうか。
池澤 他人というものがなかなか分からない、つまり、分かった振りして会話をしているけれど、本当のところその相手が何を考えているか分からないという感じが、「セレネッラの咲くころ」でお義母さんの話に実によく出ている。そんな見るほどのものじゃないからと言っていた小さな菜園に最後に連れて行ってくれて、「うるさい嫁が来たのが嫌で、家にいたくないからだ」というふうに言い訳をする。分からなさ加減をたどりながら、最後にフッと分かった感じになる。義理の血族の人間関係を表現する、ああいった場面、僕は好きなんです。親しさに至るには時間がかがる。ゆっくり飼いならして育てていかなければ行き着かないけれども、必ず至ることができるという原理を須賀さんはサン=テグジュペリの『星の王子さま』の中のアプリヴォアゼ(飼い馴らす)という動詞の話として書いています(「星と地球のあいだで」『遠い朝の本たち』)。『トリエステの坂道』全体をその思想が繋いでいる気がする。出会ってから本当に安定した関係になるまで、いつでも時間がかかっている。

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− 人間をゆっくり見るというのを教わったのは、ほかならぬペッピーノからだ、と須賀さんはどこかで書いていました。とにかくイタリアの庶民の姿を書いてこれだけ力があるという文章は、ほんとにすごいことだと思います。

9 ユルスナールとヴェイユ
− 須賀さんの読者は、これまで取り上げた四冊のエッセー集がそのエッセンスだと感じている人が多いと思うのですが、その後で『ユルスナールの靴』という特異な作品が書かれます。池澤さんはこれが出たとき、高く評価されましたね。
池澤 これが「託す」の一番徹底した例なんです。彼女は、自分自身のあり得べき姿としてのユルスナールを書いた。いつでも自分と彼女の違いをはっきりさせながら、しかし、こういう生き方があると共感を持って書いている。そういう意味では、結局、須賀敦子が書いたものは、すべて自伝であるといえば言える。仮託による自伝というものがブッキッシュになつたものが『ユルスナールの靴』。須賀さんの本のなかでは特異だけど、このブッキッシュであるところが僕は好きなんだなあ。ユルスナールの人生を素材にして、それを切ったり貼ったりして自分の間尺に合わせながら、いわば衣装を作るというか、そういう手法が僕はだいたい好きなんですね。それを須賀さんがやって、自分とのあいだに距離を置いて安心した上で、しかもユルスナール経由で自分を語る。
− けれど、ユルスナールをこれによって知ることができたかというと、必ずしも明確ではないような気もしますが。
池澤 もともとユルスナールは目的じゃないんでしょうね。たぶんこの話で大事なのは、固有名詞じゃなくて、「どこまでも歩いていく」という動詞なんでしょうね。カティアの靴と一緒で、これも靴の話です。自分の生まれたところからしつかり地面を踏んでどこまで行けるか、それが人生である。
− それをシモーヌ・ヴェイユでやらずに、ユルスナールを選んだ。
池澤 ヴェイユは近過ぎたんじゃないかしら。こういう形での自己表現もあるという試みだったんじゃないか。須賀さんの周到さみたいなのがあって、けっこう遠回りしていきますよね。だからヴエイユとかエデイット・シュタインなんかでは、あまり自分が出過ぎちゃうと思ってたんじやないかな。それはもつと後の段階でするはずのことだった。ただ確かにユルスナールというのは唐突な感じは残ります。ユルスナールは、しばらく歩いたら、そこに山を作って、その上に立って説教始めた人ですからね。須賀さんの「どこまでも歩いていく」というのは最終的に神に近づくことですが、ユルスナールは異教の人ですから。 

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10 ヨー口ツパを読み解く深々とした教養
− 亡くなった後に出た『時のかけらたち』を池澤さんがどういうふうにお読みになったか、お聞きしたいんです。『ミラノ 霧の風景』から『ユルスナールの靴』までは人間が中心になっている。この本では人間も語られますが、中心になっているのはヨーロッパの建物や絵画です。
池澤 一個一個のテーマと建物とか場所との組み合わせが実にいいし、ストーリーのない短編といいましようか、それぞれ完壁にできていると思う。自分を書くとか自分の本質のところを何かに託して出すのでもなくて、目の前にあるものを理解して描写しようとする、そういう知的な営みに徹した良さだと思いますね。
− たとえばローマのパンテオンについて、これだけ目から鱗が落ちるように語るというのは、よほどの建築に対する教養がないとできないでしょうね。
池澤 ヨーロッパの石の文化というのは造つた人々の生き方と思想が形になって残るから、その文法を身につけた者が見れば、読み解けるわけでしょう。それを読み解く須賀さんの教養がそのまま力を発揮してますよね。
 こういうものがもっとあってもよかったんじゃないかと思うんだけど、やっぱりあの人は、「その前にすることがあったのよ」と言うでしょう。結局は彼女自身の歩んできたところを書くんだという、それが先ず第一であって、こちらを僕らがいくら褒めても、「それは余技なの」と言われかねない。非常にうまくできているけど、魂の問題として見ればやはり表層的ですよね。これとペッピーノの一家たちの話とどっちを神様は愛してくれるかというと、ペッピーノのほうだと彼女は言うんじゃないかしら。
− そのとおりと思いますが、いっぽうで日本のヨーロツパ通の知識人が、こういう文章でヨーロッパを語ってくれていれば、われわれのヨーロッパ理解ももうちよつと重層的になったであろうという意味では、これはとびきりのものだし、強く心をうたれました。
池澤 そうなんですよね。ただ、もし日本に帰ってきて五年目からこれを書き始めていたら、いわゆるヨーロッパ屋の一人になってしまっていたかもしれないと思う。
− 「空の群青色」なんて、これ絵を見たいですね。
池澤 ヨーロッバへ行ったら、この本を持って一ヵ所一ヵ所回る旅をしてみるとか。パンテオンについていえば、つい身に引きつけて考えるんだけど、たとえば僕が、アテネのパルテノン神殿について単なる讃歌以上のことが書けるかと考えても、なかなかこんな深いものにはならないですね。僕も建築が好きなほうだけども、ここまでの思い込みが深い建築体験はないなあ。好きな場所は多いですよ。ギリシァの山のなかには、ほんとに草ぼうぼうのなかに大理石のかけらが転がっているような小さな遺跡があるんですよ。しかし、ここはいい所だ、また来ようというレベルを越えない。自分は思想としての建築と付き合っていなかったんだと、そういう反省をしましたね。

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− 女子大生時代に、ノートルダム寺院を中心としたゴシック建築の写真集を見に毎日のように図書館に通い詰めて、熱病みたいに写し続けるという一節が『ヴェネツィアの宿』にありました。それは彼女のそのときの年齢、終戦直後の日本の状況を考えると稀有なことでしょう。ヨーロッパの根幹にある石造建築というのは、日本人には一番難解という感じがすることを思うと、いよいよもってすごい。二十歳前後の学生がそれに取りつかれて、やがてパリに留学したいと突拍子もないことを言い出して、お父さんを説き伏せて行くことができた。若い頃の須賀さんの突き抜けるような直観力を思うと同時に、ヨーロッパという文明に自分の手で直接触れ、そこで自分を練りあげていった姿が、『時のかけらたち』にはあざやかに出ていると思うんですが。
池澤 あの時代、それはもう刷りも悪いし色もひどいけど、でも、一冊の画集が拠り所というインテリはいたでしょう。福永(武彦)におけるゴーギャンなんかそうだつたしね。その理解がどの程度のものだつたかは、須賀さんのようなすごい例が後になって出てくるといささか揺らぐんだけれど、それでも何がどうなってもヨーロッパはあるという信頼の象徴として、画集や文学があつた。須賀さんはその正嫡の子ですよ。ここでちょっと『遠い朝の本たち』のことを話しておきましょうか。子供のころから青年期までに読んだ本を語る時は、さすがの須賀さんもガードが緩むというか、うっかり本音が出るというか、自分の人生の原理をずいぶん直接的な言葉で書いている。つまり、いかにもスローガン風の言い方はなさらない方で、ぼくがさっき言った「人はより良く生きなけれはならない」なんていう言葉も、御本人が聞かれたら「いやねえ、そんなはっきり言うもんじゃないわよ」と言われたと思う。都会人の含羞ですね。しかし『遠い朝の本たち』では、たとえばサン=テグジユぺリが「胸中に建造すべき伽藍を抱いている者」を語る言葉を読んだ喜びを引きながら、「パリ、シャルトル、ランスとはじめはゴシックの、それからはロマニックの大聖堂をたずね歩いた留学生のころ、寄贈者の名を彫った小さな真鍮の札のついた聖堂のなかの椅子を見るたびに、また、自分がこうと思って歩きはじめた道が、ふいに壁につきあたって先が見えなくなるたびに私はサンテグジュペリを思い出し、これを羅針盤のようにして、自分がいま立っている地点を確かめた」なんて、ずいぶんはっきり書いている。あるいは、さっき言ったカテリーナ・ベニンカーサのこと。「シエナの坂道」にはこの人がほとんど崇拝の対象だった頃のことが書いてある。それも自分が若かったというような言い訳はなしに、かつての自分を暖かく肯定しながら書く。いってみれば、カテリーナに対する姿勢は一貫して変わっていないわけですよ。あるいは自分自身のカテリーナ的人生を語った上で、若い未経験な頃のカテリーナ像と向き合っている。この姿は実にいいです。全体に知的でしなやかでいいエッセー集だけれど、この話は中でも格段にいい。

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11 須賀敦子から渡されたもの
− 池澤さんの『詩集成』で対談されていることもあり、須賀さんと詩についてうかがいましょうか。
池澤 あの対談のなかで詩とは何かということについて話しました。基本のところはずいぶん似ているんですよ。彼女の言う韻律を精密につくって書き上げるヨーロッパの詩、見た目、平明な言葉で書いてあって分かりやすいように見えても、読んでみると、すごく精妙にできている詩、サバがそうだけど。そういうものこそが詩であるから、僕のも含めて日本の詩人のことは彼女なにも言わないわけね。それだけ意識的な姿勢を持って言葉を扱う。これがまた日本では珍しいことで、詩というのは、ロマンティックなことが何となくきれいな言葉で書いてあるものだという域をなかなか出ない。あるいは逆に、前衛風で難解になっていくだけ。そのなかで、詩は韻律を重視しながらつくり、意味と同時に響きをも読み解くんだということを、彼女はヨーロッパへ行ってから学んだわけです。ヨーロッパでは「ここは響いてない」とか、そういう言い方をしながら、それこそ音楽と同じように評価するでしょう。彼女はそういう読み方を身につけて生涯の宝にしたと思う。サバの詩集を最後に訳しましたが、意味を取って響きの大半を捨てたとはいっても、まだよく響く。本当に素晴らしい訳ですよ。思想の問題は日本語に訳したりいろんなことができるけれども、詩は簡単に翻訳しようがないもの。須賀さんにとってすごく大事な仕事だったと思いますね。会話ができたのと同じように、ああいう耳があるから、あそこまでのヨーロッパ理解ができたんだろうと思う。
『コルシア書店の仲間たち』での書店の点描として、誰かが自分が書いた詩を持ってきてみんなで聞いて批評したという場面にわずかに表れていますが、詩というのは彼らにとってずいぶん重要なものだったんですよ。なんといってもダヴィデは神父であると同時に詩人だったんだから。
− 須賀さんが文章のなかで引用する詩の引用の見事なこと。つまり、文章との繋がりにおいてその引用の仕方は絶妙ですね。サバやジョッティを論じたものもそうですし、ダヴィデ神父の詩も実にうまく引用している。あれは本当に身についているということでしょうね。
池澤 ああいう引用はストックがたくさんないとできないんですよ。
− もう一つは、イタリアにおける詩というのは、フランスなどとは考えられないような身近な読まれ方をしているのかなあと思ったんですが、その辺はどうなんでしょうか。
池澤 ぼくが少しは知っているギリシアの場合、文芸というのはあらかた詩であって、小説は非常に少ない。これは小国でマーケツトが小さいから、小説を書いて食べていくというのは至難の業で、小さいマーケットに対して少しの知的労働の投資で文芸に携わるとしたら詩になる。ほかに職業を持ちながらもできるから。そういう意味でだいたい小さい国では詩のほうが盛んなんです。自分の信仰を語るために詩を使うとか、いまの状況を語るのに詩を使うとか、そういう身近な文芸としての詩なんですよ。詩というのは引用できるものであり、耳から聞いて頭に入っていくものなんですよね。そういう姿勢を、須賀さんは身につけていたわけです。

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− 少女時代に「詩人になるしかないと思った」と『遠い朝の本たち』に、はっきり書いてますね。それがイタリアへ行って、いよいよ詩に傾斜していったんでしょうか。
池澤 そう。そしてこの『ウンベルト・サバ詩集』はずいぶん楽しんで、長い間かけて、言葉を入れかえながら訳していたんでしょう。いろんな言葉を用意しておいて嵌め込んで響きを見て、違うなと思って別のを入れて、意味がずれたなと思ってまた取り替てって、そういう作業です、詩の翻訳というのは。だから本当に職人の仕事で、その職人に徹することの快楽があるんですよ。
− そういうことも含めて、自分が温めてきた表現を達成しようと最後まで努力し続けた人ですね。
池澤 僕は今回、主要な御本を読み返していて、宗教的な面がずいぶんくっきり見えた。須賀さんは表立ってカトリック作家という顔をなさらないから、読み落としていたところが多いんだけど、いまにしてみれば、そういう筋はどの本にも通っているじゃないか。それを『聖書』を引用したりしないでやっている。日本筆頭の力トリック作家ですよ。ただ日本人に対してヨーロッパの話をするんだから背景を説明してあげなければ分からないという親切はない。現物のまま渡す。後は自分たちで読みなさいという、そういう水で薄めてない感じですね。生のままの思想を受けとって、これから僕たちは読んでいかなければならない。須賀敦子は始まったばかりですよ。             (1999年3月5日、沖縄にて)
     (出典 文学界 平成11年5月号 没後1年特別企画 「須賀敦子の世界」
     須賀敦子解読 池澤夏樹 聞き手 湯川豊[文芸春秋] 項目に番号を振り目次を追加しました。)

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[Last Updated 3/31/2002]