馬込の坂

   目 次

1. まえおき
2. 右近坂
3. 馬込坂
4. 臼田坂
5. おいはぎ坂
6. おいはぎ坂-2
7. おいはぎ坂についてひとこと
8. 汐見坂
9. 汐見坂についてひとこと
10. 蓬莱坂
11. 貴船坂

右近坂(地図の右側から坂上を望む)
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1. まえおき
 大森の山王から馬込にかけては、九十九谷といって坂の多い地域です。私の家からJRの大森駅までは歩いて30分位の場所ですが、二つの丘を上り下りしなければな
りません。もっとも自転車で行くときは、坂を避けて多少迂回し、平地を行くことにしていますが。
 先日、NHKの日曜喫茶店という番組を聴いていると、大田区にある「おいはぎ坂」が話題になっていました。面白い名前の坂だなと思っていたところ、家内から「朝日新
聞の地方版に馬込の坂が載っている」と教えられ読んでみました。その結果、我が家から数分のところにある坂だということがわかりました。そこでこれらの記事を片手
に、坂道をたどってみてました。さらに「江戸東京坂道事典」という本があることも判りました。

2. 右近坂
 大田区南馬込の坂めぐりは善慶寺から続ける。池上通りを進み環7通りを横断し、「大田文化の森」の信号を右折して進む。先の信号を左折すると、画家・川端龍子の「龍子記念館」があり、直進すると臼田坂の上りにさしかかる。
 ここから南馬込3、4丁目。馬込は昔から九十九谷と呼ばれ、丘と谷が複雑に入り組み、起伏に富んでいた。臼田坂も湾曲しながら天に向かうようにかけ上る。坂名の由来は、この付近に古くから臼田姓の人が多く住んでいたからだという。
 坂上に地蔵尊があり、右折して進むと右近坂の頂上に出る。近くに「右近」という者がいたとか、「おこん」という女性が住んでいたとか、坂名の由来には諸説ある。お屋敷の竹林を借景にして、坂下を眺める景色は抜群だ。
 再び臼田坂に戻って進むと、2本目の右角に磨墨(するすみ)塚がある。磨墨は、源頼朝から梶原景季に与えられた名馬。佐々木高網との宇治川の先陣争いは有名だ。この地の平張(ひらばり)谷に磨墨が落ちて死んだという伝説がある。
 さらに臼田坂を進み、十字路を右折すると萬福寺へ。景季の父、梶原景時はこの寺で眠っている。また、室生犀星の「笹鳴や馬込は垣もまだらにて」の句碑がある。萬福寺を出て左折、1本目を左折して閑静な住宅街をしばらく歩くと、蛇坂の頂上に出る。坂が蛇行しているからとか、蛇が群生していたからとかの連想だ。坂下は環7通り。殺風景に感じるたたずまいは、蛇坂にふさわしい情景かもしれない。
 坂上にもどり右折して直進すると第2京浜に出る。ここが馬込坂。小高い丘や水田が広がる一帯に開かれた昭和の坂だ。
  (坂道研究家・山野勝)
[出典 朝日新聞 2004.1.12]

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3. 馬込坂(まごめぎか)
 西馬込1丁目と南馬込5丁目の境界を馬込橋陸橋あたりから南西に下る第二京浜国道にかかる何の面白味もない坂で、上方を東海道新幹線が横切っている。
 この坂のすこし下ったところを東へ入ると、南馬込5丁目2番に真言宗長遠寺と八幡神社が並んでいる。馬込八幡社はもと元正八幡と称して鎌倉時代に源氏の一党で渡辺対馬守正久なるものが、この地に山城の石清水八幡を勧請したものと伝えられ、また梶原氏累代の鎮守ともいわれている。長遠寺のほうも鎌倉時代からあった古寺と伝えられ、その後、このあたりがしばしば戦場となって兵火にかかり衰微したのを、定尊上人が再興し、明治初年に至るまでは八幡社の別当寺であった。
 馬込の名義は、古くこのあたりが馬の牧場であったことにおこっているといわれ、九十九谷といわれたほど起伏に富んでいて、太田道灌は、はじめこの地勢を利して城をつくるつもりであったが、土人の者に問うと、九十九谷あると答えたので、もう一つ足りないといって築城をやめたという伝説がある。
 馬込坂の東部には、源氏の部将梶原氏の菩提寺万福寺があり、その南方には梶原景季の愛馬磨墨の塚碑が坂下にある臼田坂が南東に下っている。
 このあたりから東馬込にかけては、尾崎士郎の小説『空想部落』の舞台となったところである。尾崎士郎は大正12年に、当時の荏原郡馬込村の大きな農家を買って、女流作家宇野千代と所帯をもち、広津和郎も放浪生活の終止符として大正15年に松沢はまと結婚して尾崎家とほど遠くない馬込村に一戸を構えた。続いて詩人室生犀星も万福寺の墓地裏に居し、萩原朔太郎も同じくこのあたりに移り住んだ。そのほか榊山潤、藤浦洸などの文人が集まってきて、おのずから文化村といった寡囲気が醸成され、その人々の交遊を作品化した小説空想部落』は当時の馬込村を「牛追村」として、次のように描写した。
 丘から丘につづく椎の並木。深い竹薮の中を折りかさなっている落葉の道。それから霧である。秋の終りから冬のはじめにかけて深い日がつづく。月のあかりにぼうっと照し出された牛追村の全景が立ち迷う霧の中からうかんでくるときの、あのひとときの田園のやすらかさをどうして忘れることが出来よう。誇張して言えば彼等の生活は月光の中に描き出された一枚の影絵であった。その頃この村に住んでいた詩人の浦野空白が、「住めばうれしや牛追村、たがいに見交す顔と顔」とうたったのも当時の彼等の生活を諷し得て妙なりと言うべしである。 (中略)
  丘をめぐる雑木林は片っぱしから伐り倒された。なだらかな頃斜面はまっ二つにきりひらかれて赫土の肌のなまなましい道路が一日ごとに前へ前へとのびてゆく。竹薮のかげに点在していた農家の藁屋根は一つ一つとり壊されてそのあとにはあたらしい文化住宅があとからあとからと軒をならべる。品川湾の海風を正面からうけるこの高台は何時の間にか郊外第一等の住宅地とされて地代はおそろしい速さで騰りはじめた。
(出典 「江戸東京坂道事典」 石川悌二著 新人物往来社)

4. 臼田坂(うすだざか)
 大田区中央1、4丁目の境を区役所前通りから北西に上る長坂で、坂名はこの辺に臼田を姓とする家が多いためにおこった。臼田坂上バス停留所の東側、南馬込3丁目18番の引っ込んだ場所に磨墨(するすみ)塚という塚碑があり、裏面に明治33年8月建之、平張谷(ひらばりだに)、と刻まれている。
 磨墨とは、源頼朝に従って宇治川の合戦に出陣し、佐佐木高網と川越えの先陣を争って武名をあげた梶原景季の愛馬の名前で、誤って此地の平張谷に落ちて死んだのだという。馬込は梶原氏の治領であったが、梶原氏滅亡のあと、ゆかりの家臣阿部家久なる人がこの谷にかくれ住んで磨墨の塚碑を建てたと伝えられるが、現在の塚碑はもとより後世のものである。
(出典 「江戸東京坂道事典」 石川悌二著 新人物往来社)

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[Last Updated 11/30/2006]