汐見坂


汐見坂(坂を登り切ったところから蓬莱坂に向かう乗用車を望む)

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8. 汐見坂
 大田区の坂めぐりの最後は、鐙(あぶみ)坂から続け中央界隈(かいわい)を歩く。坂下の馬込桜並木通りを横断し直進する。信号を渡り次の十字路を左へ折れると、左手が汐見坂の頂上だ。
 かってこの坂から大森の海が遠望され、白帆や海苔ひびなどがよく見えたのが坂名の由来。また、この坂道は池上本門寺への古道で、旧池上道の近道だった。坂上からは本門寺の社殿が見え、瓦屋根がキラキラ光る。坂下は閑静な住宅街で、手入れのいきとどいた小庭が美しい。人通りも少なくしっとりした趣だ。坂下の途中、1本目の左側に黒鶴稲荷神社の長い石段が見える。シイ、桜などの古木が小さな森を作っている。
 坂上に戻り、左折直進すると、蓬莱坂の頂きに出る。坂名の由来は、先の黒鶴稲荷神社で黒鶴が捕獲され、これを将軍家に献上したところ、吉兆であると大いに喜ばれたので、縁起のよいことに使われる「蓬莱」の字があてられたという。急激に落ち込む広い坂。美しいマンションの間を静かに流れている。
 坂下にある池上署市野倉交番脇を右折して進む。太田神社の先に長勝寺。寛永7(1630)年、幕府からの布施受け入れの是非をめぐって論争があり、「不受不施」を主張した本門寺15世日樹聖人は敗れ信州飯田に流された。この日樹聖人の供養塔が建っている。
 長勝寺を出て突きあたりまで進み、ここを右折しにて進むと貴船坂の上りになる。瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいの中を、おおらかにかけ上る。坂名は貴船明神にちなむ。元は西側にある東之院にあったが、のちに太田神社に合祀(ごうし)されたという。坂上を直進し、第2京浜まで進むと西馬込駅だ。
  (坂道研究家・山野勝)
[出典 朝日新聞 2004.1.26]

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9. 汐見坂についてひとこと
  龍子記念館から桜並木に入り、直ぐの所を左折する道があります。この道は本門寺の横を通り、国道の本門寺裏に抜ける道で、桜並木からは登り坂で、国道に出るところで下り坂になります。この登り坂が汐見坂かと思っていたのですが、友人に訊いて、もう一本海側に平行に走る坂が汐見坂だとわかりました。汐見坂の途中には中央五丁目公園という割に広い公園もあるのですが、龍子記念館の方から汐見坂に入るには、桜並木の海側の端にある郵便局の先の割に細い道を左折すること、かっては本門寺に通じる道として使われていたようですが、現在では誤認していた道の方が車道として便利なことなどか間違いの原因かと思います。この道は右上の地図では汐見坂の上の信号と貴船坂の上の信号を通っています。
 従来の説明や地図には間違った表現は無かったのですが、黒鶴稲荷の位置をもっと良く確認すれば良かったのにと反省しています。

10. 蓬莱坂(ほうらいざか)
 大田区・中央5丁目10番と13番の間を南東6丁目1番あたりまで下る旧市之倉町の坂道で、坂上の東方二百メートルほどはなれた高台の裏崖はかつて横穴古墳群があったところで、台上には十日森(とうかもり)神社がある。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、つまりお稲荷様だが、明治初年の神仏分離令のあとには近くの小社の神様を合祀したので「十神森(とうかもり)社」とも書かれるという。その稲荷社はかなり古く、通称を黒鶴稲荷とよばれていた。黒鶴の名義は三代将軍家光のころ、この境内で黒色の珍しい鶴が捕獲され、それを将軍家へ献上したところ吉兆であると喜ばれ、以来は黒鶴の稲荷と尊信されたという。蓬莱坂の坂名はその黒鶴伝説につながる吉兆を象徴した名であろう。
(出典 「江戸東京坂道事典」 石川悌二著 新人物往来社)

11. 貴船坂(きぶねざか)
 南馬込6丁目の南界から、池上1丁目と中央5丁目の境界を南東に下る坂道で、蓬莱坂の西に並行していて、坂の西側が本門寺公園である。坂名の由来となった貴船明神(神狐の石像)は、坂側の東之院(本門寺の子院)に、むかし本門寺の鬼門除けとしておかれていたが、神仏分で同寺院と分離され、明治45年になって近くの太田神社(中央6丁目3番)に合祀された。太田神社はもとは長勝寺を別当寺としていた。
 鎮座の年月は不詳だが、俗に八幡様と称する那須の与市を守本尊として主祭しており、中世のころはこの一帯が太田氏の所領だったことから太田神社と称したという。貴船明神は開帳されないが、その「かげ祭り」は毎年9月15日に行なわれている。
(出典 「江戸東京坂道事典」 石川悌二著 新人物往来社)

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[Last Updated 11/30/2006]