韓のくに紀行
街道をゆく2

  目 次

1. まえおき
2. 本の目次
3. 歴史と地理
4. 解 説
5. 著者紹介
6. この本を読んで
7. 本の種類
8. 参考書
9. 本の紹介


司馬遼太郎著
発行所 朝日新聞社

「本の紹介2c」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

1.まえおき
 司馬遼太郎さんの「街道を行く」シリーズは数年前、弘前に行ったとき、お邪魔したI(あい)家のことが知りたくて、その巻だけを読みました。今回韓国行きが話題に上り、友人からこの巻を勧められました。たまたま中国史を勉強した後であり、韓国との歴史も知る機会があったので、大変興味深く読みました。韓国人から見た日本人、儒教の特異性、宗教のことなど歴史以外にも得るところが沢山ありました。
 この紹介を読んで興味を持ち、読んで戴けたらありがたいと思います。なお記事に関係のある韓国南部の地図を参考にしてください。

2. 本の目次
加羅の旅
 韓国へ         9
 釜山の倭館      17
 倭城と倭館      25
 釜山にて        34
 李舜臣         43
 駕洛国の故地    52
 金海の入江     60
新羅の旅
 首露王陵       73
 新羅国         82
 慶州仏国寺      90
 歌  垣        99
 七人の翁      107
 慕夏堂へ       115
 倭ということ     123
 沙也可の降伏    131
 金忠善         140
 友鹿の村       148
 両  斑        156
 沙也可の実在    164
百済の旅
 大邱のマッサージ師 175
 賄賂について     183
 洛東江のほとり    192
 倭の順なること    200
 李夕湖先生      209
 百済仏         217
 まぼろしの都      225
 日本の登場      234
 白村江の海戦    242
 平済塔         251
 近江の鬼室集斯   260
解 説  牧 祥三   269

目次に戻る

3. 歴史と地理
  この本を読むには日韓の歴史を復習しておき、この本に出てくる地名がどこにあるかを調べました。
 3.1 日韓の歴史の確認
(1) 日本国の成立以前 朝鮮とわが国の間を自由に行き来していた時代
(2) 白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い(663年)
(3) 元寇(1次 文永の役 1274年、2次 弘安の役 1281年)
(4) 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役 1592〜1598年)
(5) 江戸時代(明治維新まで) 倭寇対策としての韓国から対馬への米の供給
(6) 日韓併合(1910〜1945年)
 以上とは別に次の二つがあります。
(7) 漢字の伝来(4世紀頃)
(8) 仏教の伝来(6世紀中頃)
 3.2 この本に出てくる地名(頁は文庫版の掲載頁) 参考書については本ページ8項をご覧下さい。なお「韓国南部の地図」の地名に白線が付いている地名の下または上にある数字は、次の項目番号です。
(1) 倭館 24頁 30頁 38頁  参考書(1)の付地図「韓国」(または項目1にある「韓国南部の地図」 以下同じ)の4CとP.254[釜山の竜頭山公園 釜山市中央部にある小高い丘全体が公園となっている。日本の江戸時代には、この周囲に倭館という対馬藩駐在施設があった。釜山タワーと李舜臣の銅像がある] 地下鉄1号線 南浦洞徒歩10分
(2) 倭城 31頁 参考書(1)の付地図「韓国」の4CとP.254[釜山の子城台公園 文禄・慶長の役の際、秀元が築城し、小西行長が指揮をとった山城)] 地下鉄1号線 佐川洞6番出口徒歩10分
(3) 金海 60頁 参考書(1)の付地図「韓国」の4C 任那(金官、駕洛[からく]、加羅、伽揶[にんべん])がこのあたりにあった。釜山への空からの入口である金海国際空港がある。釜山と昌原市とのほぼ中間に位置する。洛東江の河口に近く、水路で日本にアクセスできた。
(4) 慶州仏国寺 95頁 参考書(1)の付地図C3
(5) 七人の翁(おきな) 107頁 掛陵(かいりょう 前項慶州仏国寺の直ぐ南、参考書(1)のP.288の地図(慶州全体)C4とP.288 西域人の顔をした石像)
(6) 友鹿(うろく)の村 148頁 鹿洞書院[大邱の東南、参考書(1)P.31の地図 B5] P.307 大邱市の地下鉄1、2号線「半月堂」駅から友鹿行きのバスで終点の一つ手前
(7) 大邱(テグ)のマッサージ師 175頁 参考書(1)の付地図C3
(8) 洛東江のほとり 192頁 倭館 付地図B3 豊臣日本軍の補給基地
(9) 倭の順なること 200頁 扶余(ぶよう 205頁 扶餘 百済の旧都 参考書(1)の付地図A3 P.350)
                   途中、大田(てじょん 205頁)で食事 郊外に儒城(ユンソ)温泉 205頁 参考書(1)のP.339
(10) 白村江(はくそんこう はくすきえ)の海戦 249頁 P.353 白馬江 群山港 参考書(1)の付地図A3 錦江の河口
(11) 平済塔または百済塔  259頁 扶余 参考書(1)のP.353
(12) 近江の鬼室集斯(しゅうし) 260頁 日本の近江国蒲生郡小野(この)日野町の東北3.5km

4. 解 説
「街道をゆく」シリーズのなかで、この第2巻はことに特色のある読み物である。全巻がすべて韓国紀行である。いや最後の章だけは滋賀県の街道すじをたどるのだが、これとても韓国歴史探訪記の延長であり、最終章にふさわしい感銘的な部分となっている。
 司馬氏はあるシンポジウムの席で、じぶんが朝鮮という問題について深い関心をもつにいたった由来について語っている。
 はじめに小学校時代の考古趣味により、普通に教えられる日本史をさらに越えたものの予感をもたされた。つぎに少年期の終わりに外国語専門学校でモンゴル語を専攻し、おなじウラル・アルタイ語系のうちに満州語も日本語も、そして朝鮮語も加わっていることを知って、この朝鮮語に日本人が関心をまったく示さないのに不審をいだいた。そして最後にこの作家らしい特徴的な説明をする。「さらに私がいま住んでいる東大阪市は大阪のイースト・タウンで、朝鮮の人たちがたくさん住んでいる。芦屋あたりの電柱だと、たまに張り紙がしてあっても、うちのスピッツが行方不明だから探して下さった方に10万円あげる、というようなことですな。しかし私のすんでるあたりは皆、永住権申請反対とか賛成とかのそういうステッカーばかりで(笑)。そういう所に住んでるから朝鮮人の友人もできた。まあ私と朝鮮のかかわりあいは、そういうごく具作的なことなんで、これがぼくの(朝鮮研究の)前説です」。
 長い引用を敢えてしたのは、ここに、朝鮮問題の重要性をとらえた、良い意味のするどいジャーナリストの眼と、風土を基本とするこの作家の認識とが、まさに鮮明にあらわれているからである。そして作家の世代ということも考えさせられる。古い史蹟も多く、また現代的に雑駁(ざっぱく)でもあるこの中河内地方に住んでも、今東光は風俗小説の環境としてしか採りあげていない。この対比は、すべてを私生活の危機のなかでうけとめてきた大正期の作家と、大きく動揺する歴史の危機のなかで原体験をもった世代の作家との相違であろうか。
 司馬氏がこの発言をしているのは、ある持志の朝鮮人実業家が10数年前から刊行している研究誌『日本のなかの朝鮮文化』に掲載されたいろいろなシンポジウムのひとつにおいてである。知名の専門家をまじえたこれらの会合の熱心な参加者として、この作家の蓄積した知識が、この朝鮮篇に寄与していることは言うまでもなかろう。
 さきの引用のなかで私たちがさらに気がつくことは、この作家の朝鮮史への関心が、日本の現代史の傷痕のひとつ、日本に居住する朝鮮の人びと70万人の存在を契機としていることだ。歴史家のマルク・ブロックは、「死せるものの研究と生けるものの研究とを結合することをたえず必要とするのが歴史だ」と言っている。この韓国への旅もまた現代から過去への旅でもあった。 「イルポン(日本)というこの発音には、無限の不快さと怨恨がこもっているはずである」。
 現在のこの国をゆくことは、はげしく怒号する韓国紳士のごとき人がそうであるばかりでなく、眼にふれるさまざまな風物が、かつての日本の侵略を思わすとともに、今のきびしい関係を考えさせる苦しく、せつない旅である。しかも敢えてここを旅ゆくのは「日本人の先祖の国にゆく」 ためであり、「他国の政情視察というようなものではない。韓とか倭とかいうものはなにかという原型を知りたい」ためである。これは古代朝鮮への好古趣味や高麗・李朝の陶磁器の秘色などに導かれての旅行ではなかった。このゆえに慶川の土地を訪れても、仏国寺にも石窟席にも私たちを案内してはくれない。じぶんは「美術オンチだ」と言いきる。この作家が須田国太郎の画集や空海の書蹟集のすぐれた解説者でもあることを知る私たちにとっては、まことに意外なことばである。これは、趣味、鑑賞を敢えてきりすてて、いまの私たちにとってもっと重要な、基本的なものに私たちを導こうとする姿勢なのであろう。
 歴史書は時代の移るたびに、あたらしく書きかえられねばならない。日本史の書きかえのために、朝鮮関係でもっとも活発な論争が噴出しているのが任那日本府の在り方である。
 これについて北鮮の朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨氏の説にたいして、井上秀雄氏の修正的な研究を司馬氏は紹介している。史料をほとんど欠き、わずかに残された文献にも疑惑の多いこの部分の研究は、仮説と想像によらねばならぬ点が多く、いまだにきわめて流動的である。

目次に戻る

 著者が朝鮮古代史へ私たちを招待する最初の場として、この任那の故地、金海の土地を選んだのも当然であった。そしてこの土地に来て、朝鮮人と日本人が「人類学的にも相似的要素がつよく、そして地理的にもちかい両民族」であることをいまさらに学ぶのである。
 韓国の旅はかならずしも、つねに苦しくせつないものではなかった。駕洛楼の王陵前で「李朝500年という儒教国家がなおもつづいている」かに思わせる拝礼儀式を見る。つぎに仏国寺のかたわらで、村の婦人たちによる古風ゆたかな歌垣のおどりをながめる。また新羅王の掛陵を訪れ、そこで見かけた七人の老農夫の野遊びは、「『十八史略』の『帝尭』の文章のなかからぬけだしてきたような感じなのである」。
 韓国を旅しても妓生(キーセン)の舞曲などにひとことだに触れることをしないこの作家が、これらの現代朝鮮のなかにある牧歌的泰平の情景に、かくまでくりかえし魅了されるのは、私たちの国にすでに失われてしまったものへの、ふかい郷愁の情を抑えがたいからであろう。これは近代化史論から見ればアジア的停滞現象にも属するもので、「悠然たる停滞」である。ここには司馬氏のなかにあるきよらな、純なるものにひかれる詩的精神と合理的な文明史観との対立がうかがわれる。
 進歩、発展と言われるもの、それらははたして何か。真に人間が幸福になるために何が必要か。凝視する作家の眼は、これらの疑問によって一瞬翳(かげ)りをもつようである。この対立、矛盾はけっしてたんなる負数となるべきものではないであろう。作家の物見る眠が、これによりいっそう深く豊かになるのではなかろうか。
 任那の歴史は、百済滅亡と白村江の日本水軍大敗につながる。海戦の跡をたずねる百済の都、扶余の夜は−たんなる懐古的感情にだけ流されてしまうのをつねに拒否する−この作家をめずらしく感傷的にさせ、「扶余の夜は暗かった。………死者の声が聴えてくるのではないかと思われるほどに寂しかった」と書かせる。
 白村江は日本歴史の大きな転換点を意味した。「古代南鮮人もしくは古代日本人が倭という人種名」で、共通な未分の名で呼ばれていた集団がかつてあり、そこには国家的責任として問われるべきものはまだなかった。しかし白村江の戦いの経過のなかで、国家としての日本と天皇制が確立することが「日本の登場」の章で説かれている。
 天智帝によるまったく勝算のないこの百済援助の出兵は、百済からの使者と帝のブレーンである百済渡来人たちの説得によるものであった。この間(かん)に逡巡し、おそれ、そしてついに大胆な賭を敢行する天皇の心理は、感情移入により見事に描きだされた。  これに反して、秀吉の朝鮮出兵は「無名の師」であり、「名聞皆無という侵略戦」であった。朝鮮役の7年はこの旅行記のなかでも、日本、すなわち「日帝」の殖民地支配36年とおなじように、酷薄な深いつめの跡を各所に見せている。
 秀吉の侵略戦にあらわれる戦国武士の在りかたを、司馬氏は日本人のステレオタイプ、日本人の祖形にちかいものとしての「ふんどし一本に大刀をふりまわす」倭人の系譜にむすびつける。和冦、戦国武士、赤穂浪士、そして現代の学生運動にまで達する粗野で、非理性的な「凛々しさ」の性格が、儒教的礼法に規制された朝鮮人の在りかたと対比される。
 この日本人のタイプが朝鮮人だけでなく世界の国々の大かたの人びとに、嫌悪され憎悪されていることを、著者は充分に知っている。しかしこの「凛々しさ」を司馬氏は、困惑の多分にまじったいとおしみの感情でながめざるを得ない。日本人の原型をこのようなふんどし武士として観ることに反対の人は、私たち日本人のなかにも少なくないであろう。しかしまたこのような試みにより、日本的性格のいろいろなものが理解しやすくなることも事実である。  和辻哲郎氏が『風土』のなかで古代ギリシャ人を「海賊」、「奪掠する戦士」と規定し、この在りかたに現代ヨーロッパ人の祖形を見ようとするのもおなじ試みである。この作家もまた和辻博士もともに、多くの人に反感をひきおこすばかりに烈しく荒々しい生命力の発露をみとめたのであった。問題は、私たち日本人が、この生命力をどれだけ文化創造作用に昇華できるか、ということであろう。
 だが「凛々しさ」の日本的美学だけではとうてい理解できないさむらいとして、沙也可の物語がある。これはこの紀行のもっとも重要な部分であり、旅行記の頂点となるものであった。

目次に戻る

 沙也可は朝鮮役に敵軍に降伏した日本武士である。徳富蘇峰は『近世日本国民史』の朝鮮役篇で、いわゆる降倭とよばれるこの種の人びとが多いことにおどろいている。降伏を意外とするのは、多分に戦前の軍国教育にもとづくものであろう。だが沙也可という日本の小部将の降伏の不思議は、彼の行動が「中華(夏)の文明を慕う」慕夏思想という理論的理由に裏付けされている点である。
 ふんどし武士の非理性的な輩(やから)から、理論的、原理的な意図でこのような決定的行為に出るものがあるのだろうか。著者は藤原惺窩にあらわれた、武家体制を否定する儒教的知識人の存在を想いだして、このような人物のなんらかの感化を沙也可の投降とむすびつけようとこころみる。それであれば、ふんどし武士の祖形の亜流として考えることのできる、イデオロギー青年の亡命行、脱日本行の戦国版であろう。著者はこれについて、決定的な解答はくださないで、疑問のままにとどめているようだ。
 私たちは著者に案内されて沙也可の村、友鹿洞を訪れて、この降倭武士が金忠善と名のり、李王朝の忠勇な軍人としてはたらいて生涯を終え、ひとつの平和な村の祖となったことを知る。投降の理由がはたして何であったかは、この見事に完結し完成されたひとつの生涯の前に、もはやあまり意味はない、と著者は言わんとしているかのようだ。
 国と民族の差別をのり越えて、ここにもひとつの価値ある生命力の燃焼があった。そしてこの牧歌的田園のなかに、ひとりの白髪の老師があらわれて、私たちのさまざまな疑問にたいして、なにか超世間的な託宣のごときことばをあたえる。「こっちからも日本(むこう)へ行っているだろう。日本からもこっちへ来ている。べつに興味をもつべきではない」。
 この巻の最後の章は日本の旅である。近江蒲生郡小野(この)の村の草むした墓の前に、私たちはみちびかれる。渡来百済人で、古代日本の文化発展に寄与した人物、鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓を訪れて良い旅が終わる。  週刊誌の各週ごとのつづき物、シリーズの週ごとの読みものとして、分断されちぎれた印象としてしか理解できなかったものが、このように朝鮮紀行だけで一冊の書としてまとめられると、いまさらに作家司馬遼太郎の文学的な用意の周到さ、詩的構成力の卓抜さにおどろかされる。
 さりげなく、どこにゆくのか目的地もさだかでない、右往左往の旅路のごとくして、最後に近江路の渡来百済人の忘れられた墓の前に案内され、いまさらに忘れられし降倭武士、沙也可の墓に私たちは思いを馳せる。そして沙也可の村の白衣白髪の老師の託宣のもつ重さ、ずしりと磐石のごとき重さをこの巻を終わって知る。「こっちからも日本(むこう)へ行っているだろう。日本からもこっちへ釆ている。べつに興味をもつべきではない」。
 老師は日本人にも朝鮮人にも問いかけているのであろう。彼我2千年の民族交流の歴史のなかで、この永遠の相の下で、朝鮮役7年、日帝殖民史36年の、怨恨と罪過のこの数字が何ほどの意味をもつべきか、と。
                                                    牧  祥 三

目次に戻る

5. 著者紹介
司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日) は、日本の小説家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。
 大阪府大阪市生まれ。産経新聞社在職中、『梟の城』で直木賞を受賞。以後、俗に「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観に基づいて数多くの作品を執筆、歴史小説に新風を送る。代表作に『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。また、『街道をゆく』をはじめとするエッセイなどで活発な文明批評を行った。

6. この本を読んで
 司馬さんの作品は数編読みましたが、この本はわが国と朝鮮との歴史や文化の違いを挙げて、興味深いものになっています。やはり日本と朝鮮の地理的な位置の違いが、大きく影響していると思います。近い国でありながら、まだ訪れことがありません。我々の場合、どこまで行きたい所に行かれるかが問題ですが、司馬さんの訪れた地を訪ねてみたいと思っています。
 これを機に『街道をゆく』シリーズを何冊か読んでみようと思っています。

7. 本の種類
 この本は私の知るところでは現在4種類あります。このページの冒頭に掲げてあるのは、初版の表紙ですが、現在は文庫版とワイド版があり、そのほか一部ですが、司馬遼太郎全集にも収録されています。上にのせた解説は文庫版にのみ載っています。ワイド版は文字を少し大きくし、形も文庫版より一回り大きくなっています。目次や図、挿画も多少異なっています。

8. 参考書
 (1) 地球の歩き方 '08〜'09 韓国 (株)ダイアモンド社・ビッグ社発行
 (2) 街道をゆく13 壱岐・対馬の道 司馬遼太郎著 朝日新聞社発行

9. 本の紹介
 司馬遼太郎さんの書いた他の本を紹介します。
 9.1 「耽羅(たんら)紀行(街道をゆく28)」 司馬遼太郎著 朝日新聞社発行
 9.2 「台湾紀行(街道をゆく40)」 司馬遼太郎著 朝日新聞社発行
 9.3 「沖縄・先島への道(街道をゆく6)」 司馬遼太郎著 朝日新聞社発行

「本の紹介2c」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

[Last updated 5/31/2014]