沖縄・先島への道
街道をゆく 6

  目 次

1. まえおき
2. 本の目次
3. 概 要
4. この本を読んで



司馬遼太郎著
発行所 朝日新聞社

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1.まえおき
 2013年の暮れに大学の同級生とその夫人計16名で石垣島に旅行しました。帰ってから司馬遼太郎さんの「街道を行く」シリーズを探したところ第6巻「沖縄・先島(さきしま)への道」のあることがわかりました。そこで先ず図書館でこの本を借りて読みました。沖縄や石垣島、竹富島の歴史、文化などを知るのに役立ちました。

2. 本の目次
那覇・糸満
 那覇へ                   7
 沖縄について              16
 那覇で                  25
 ホテルの食堂              34
 空港の便所で              43
 糸満(いとまん)にて           53
石垣・竹富島
 石垣島                  67
 宮良殿内(みやら どんち)       78
 竹富島へ                89
 竹富島のT君              98
 東シナ海の見張所         109
 森の中の鍛冶遺跡         119
 鉄と星砂                128
 蒐集館(しゅうしゅうかん)の館主  138
 波照間(はてるま)の娘        148
与那国(よなぐに)島
 与那国島へ              163
 南国食堂                174
 小さな魚市               183
 商売と商人              194
 女の長(おさ)の世          205
 花 酒(はなざけ)            215
 村の劇場                224

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3. 概 要
那覇へ
 琉球(りゅうきゅう)列島 琉球弧
 沖縄諸島 宮古諸島 八重山諸島(主な島は石垣・西表・与那国)
 沖縄から南西の洋上に浮かぶ島 宮古諸島・八重山諸島を先島と呼ぶ。

那覇で
 古典的価値をもつ伊波普猷(いはふゆう)と比嘉春潮(ひがしゅんちょう)は琉球文化の厚みを感じる。本土では千年も前にほろんだかもしれない古代が、民族のなかに生き生きと息づいている。

 日本国家というのは、明治4年の廃藩置県で誕生した。それまでに歴史的日本というのが存在したが、それは近代の意味でいう国家ではない。それまでの日本は二百数十個の藩にわかれていて、それぞれの独立性はさほど弱いものではなかった。この多勢力の連合国家の状態が、4年つづき、明治4年7月14日、わずか1日で藩が廃止され、県がおかれ、にわかに統一国家が成立するのである。
 といえばひどく簡単だったようだが、やがてその強烈な反発として士族の大反乱が相次いでおこり、佐賀の乱、萩の乱につづいて、なお薩摩勢力が抵抗し、明治10年の西南戦争によってそれが崩壊するとともに、廃藩置県が完成したとみていい。

 「琉球処分」とよばれる琉球の廃藩置県は、明治12年である。

 沖縄諸島に日本民族が姿をあらわしたのは、とおく縄文式文化の昔であった。このころ、北九州を中心に東と南に向かって、かなり大きな民族移住の波が起こった。その波は南九州の沿岸に住む、主として漁撈民族を刺激して、南の島々に移動せしめたと考えられる。この移動は長い年月の間に、幾度となくくりかえされた。そしてここに、言語、習俗を日本本土のそれと共通する日本民族の一支族−−沖縄民族が誕生する。
(比嘉春潮)

 琉球には、それ以前、250年にわたって薩摩藩から受けた痛烈な被搾取の歴史がある。さらには廃藩置県後の差別の問題もある。もっとも廃藩置県の効用として、琉球内部における搾取・被搾取の関係を断ったということで、伊波普猷氏は一種の奴隷解放であったという一面をとらえておられるが、しかし歴代の知事の現実の行政では旧制を墨守することがほぼ方針とされ、たとえば明治30年代になってはじめて人頭 (にんとう) 税が廃止されたという事実をみても、明治政府における沖縄というものがどういうものであったかが想像できる。
 太平洋戦争における沖縄戦は、歴史の共有などという大まかな感覚のなかに、とても入りきれるものではない。
 同国人の居住する地域で地上戦をやるなど、思うだけでも精神が変になりそうだが沖縄ではそれが現実におこなわれ、その戦場で15万の県民と9万の兵隊が死んだ。

 独自の神話をもち独自の古典をもち、さらには世界のどの民族にも誇りうる民族文化をもっている以上、他から堂々たる独立圏としての尊重と尊敬を当然受ける権利をもっているし、そのことはむろん、復帰という歴史の再共有の出発ぐらいではとても片づかない問題なのである。

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石垣島
 言語学のほうでは、沖縄言葉は日本祖語から6世紀頃にわかれれた、といわれるが、沖縄での基本的単語で、日本語ではすでに古語になっているものが多い。
 沖縄言葉がわかりにくいのは、母音が2個欠けているためであろう。本土言葉の母音がアイウエオの5個であるのに対し、沖縄ではいつのほどかエとオが欠けてしまっている。

宮良殿内(みやらどんち)
 石垣島というより県下でもっとも貴重な住宅建築の一つとされている「宮良殿内」へ行った。殿内とは士族屋敷と思えばよい。石積みの塀がめぐらされ、塀は赤い琉球瓦でふかれていて、それだけでも充分美しい。

竹富島へ
 町のなかながら、御岳(うたき)があった。本土の古神道と琉球のそれはおなじものといっていい。
 御岳は神が降臨する−−もしくは住む−−神域だが、本土でもふるくは森や自然石があるだけで、建物などなかった。

 沖縄史は、本土の歴史より10世紀以上遅れている。本土の統一は4世紀だが、沖縄は15世紀初めである。沖縄における鉄器の普及の遅れは決定的で、14世紀までは石器、土器の時代だったといっていい。

鉄と星砂
 竹富島はちっぽけな隆起サンゴ礁なのだが、それが本土の室町期には、となりの大きな石垣島や西表島、またそれらを含めた八重山諸島全体の総督府(蔵元)が置かれていたのはマラリアが多かったからだと言われている。

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4. この本を読んで
 冒頭に出てくる「本土では千年も前にほろんだかもしれない古代が、民族のなかに生き生きと息づいている。」という箇所は大切だと思います。鉄が使えなかったため近代化が遅れた反面、本土と違った文化が保存されていることは沖縄の特徴かと思います。
 また言語などにより縄文の時代から日本との関わりがあったことも見逃すことができません。
 さらに二人の学者伊波普猶、比嘉春朝さんのことを知り、続けて勉強するきっかけになりました。
 関心のある方は是非とも本に目を通していただきたいと思います。

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[Last updated 5/31/2014]