台湾紀行
街道をゆく40

  目 次

1. まえおき
2. 本の目次
3. 概 要
4. この本を読んで


司馬遼太郎著
発行所 朝日新聞社

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1.まえおき
 2013年の春に大学の同級生とその夫人計10名で台湾に旅行することになりました。そこで司馬遼太郎さんの「街道を行く」シリーズを探したところこの第40巻「台湾紀行」のあることがわかりました。そこで先ず図書館でこの本を借りて読み、その後購入しました。台湾の歴史、人、文化などを知るにはとても良い本だと思いました。お陰で台湾への興味が増し、具体的な観光地を決めるのにも役立ちました。

2. 本の目次
 流民(りゅうみん)と栄光          9
 葉盛吉(ようせいきち)・伝        18
 長 老                   28
 でこぼこの歩道              39
 歴史の木霊(こだま)           50
 二隻の船                  62
 李登輝(りとうき)さん           72
 続・李登輝(りとうき)さん        82
 南の俳人たち               94
 老台北(ラオタイペイ)          107
 馬のたとえ                120
 児玉・後藤・新渡戸(にとべ)      130
 潜水艦を食べる話           142
 客家(はっか)の人たち         153
 看 板                  163
 魂 魄(こんぱく)            175
 沈乃霖(しんないりん)先生      187
 伊沢修二(いざわしゅうじ)の末裔  198
 海の城                 209
 海僚(かいりょう)の貴公子      222
 八田與一(はったよいち)のこと   233
 珊瑚潭(さんごたん)のほとり     244
 鬼(クイ)                 254
 山川草木                265
 嘉義(かぎ)で思ったこと       276
 山中の老人              286
 日本丸(にっぽんまる)が迎えに  297
 浦島太郎たち             308
 大恐慌と動乱             317
 寓意の文化              329
 山人の怒り              339
 大野さん                348
 千金の小姐(シャオチエ)      388
 花蓮(かれん)の小石        370
 太魯閣(タロコ)の雨        380

 対談  場所の悲哀---李登輝/司馬遼太郎   395
  索引                427

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3. 概 要
[流民と栄光]一部は[でこぼこの歩道]
 オランダの東インド会社は、関ケ原の役(1600年)がおわってほどもない1609年、日本の平戸に商館を置いた。
 すでにオランダはインドネシアの海港バタヴィア(現・ジャカルタ)を根拠地にしているから、日本への北航には途中に寄港地があったほうがいい。
 結局、オランダは、明末の1624年、台湾南部の一港を占領して拠点にすることになる。
 オランダ時代が30余年もつづいた。その吸引力によって、漢人の渡来がふえた。オランダ時代の末期には、漢人が5万人もいたという資料もある。

 明末の海僚(人扁でなくけもの扁)の代表的な者が、鄭芝龍(ていしりゅう 1604〜61)だった。
 その子が国姓爺(こくせんや)≠ニよばれた鄭成功(1624〜62)である。平戸の武士田川氏の娘を母とする人物で、学才と武勇があり、長じて明を回復すべく獅子奮迅の働きをした(明は清に亡ぼされた)。日本では、近松門左衛門の『国性爺合戦』で知られる。
 鄭成功の末期、台湾に拠ろうとし、兵2万5千をひきい、オランダを駆逐したものの、その翌年、急死した。
 鄭氏の台湾占領は、3代22年つづいた。

 台湾の山地人は、本来黒潮に乗ってきた民だった。かれらをいつの頃か運んできた黒潮は、フィリピン東方の海に発し、ときに流速5ノットで台湾、日本に北上している。フィリピンはとなりの島のようなものである。
 1868年に、アジアに異変がおこった。日本が明治維新をおこし、近代国家に変容したのである。
 周辺の中国・朝鮮は、儒教という超古代の体制のままだったから、この衝撃波をうけた。
 近代国家である手はじめは、国家の領土を、アジア的「版図」の概念から脱して、西洋式の領土として明確にすることだった。ただし、国際法など法知識については、明治初期政権は、御雇(おやとい)外国人から借りた。
 たとえば琉球は、両属(清の版図と日本の版図)だった。
 たまたま明治4年(1871)、琉球国の島民66人が台湾の東南海岸に漂着し、そのうち54人が山地人に殺された。山地人は、西海岸の漢人だとおもったという。
 日本はあざやかすぎるほどの手を打った。まずその翌明治5年9月、琉球王国を琉球藩にし、国内の一藩とした。清はのどかにもこれに対し、抗議を申し入れなかった。
 殺された琉球の島民は、日本人になった。この基礎の上で、使者を北京に送り、清朝に抗議した。
 清側は口頭でもって、「台湾の蕃民は化外(けがい)の者で、清国の政教はかれらに及ばない」と答弁した。
 日本はその後、一貫してこの口頭答弁を基礎とし、台湾東半分は無主の地であるという解釈をとった。
 その後、清国は表現を変えた。両国のあいだで水掛け論がかさねられた。
 この時期、明治維新の主勢力だった旧薩摩藩(鹿児島県)が、新政府に不満で、半独立を維持し、他の府県の不平士族とともにいつ暴発するか、きわどい状態にあった。
 日本政府は、国内に充満したガスを抜くべく、まったく内政的配慮から、兵を台湾東部に出した。明治7年(1874)のことである。
 清国は、おおらかだった。
 ほどなく、清国はこの討伐費を日本に支払ったのである。支払うことによって、清国は台湾東部が自国領であることを証拠づけた。
 さらに清国は台湾が自国領であることを明確にするために、明治18年(1885)、台湾を台湾省に昇格した。つまり、国内≠ノなった。国内≠ヘ10年つづいた。
 明治27、8年(1894、95)、日清戦争がおこり、下関条約の結果、台湾は日本領になった。

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 日本時代は、太平洋戦争の敗戦で台湾を放棄するまで50年つづいた。私は日本人だからつい日本びいきになるが、余分な富力をもたない当時の日本が--植民地を是認するわけでないにせよ--力のかぎりのことをやったのは認めていい。国内と同様、帝国大学を設け、教育機関を設け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた。

 戦後、台湾は中華民国領になった。
 大陸でやぶれた中華民国≠ェ、1949年、国家そのものを台湾に持ちこんできた。しかも、台湾島はいまなお台湾省≠フままになっている。

 台湾の戦後史にふれねばならない。

 大陸から、中華民国がやってきた。
 当初、台湾の多くのひとびとはこれを光世(祖国復帰)として歓呼の声をあげ、青年たちは孫文の「三民主義」を論じたり、きそって国語(北京官話)を学んだりした。
 やがて失望した。
 やってきた陳儀(ちんぎ)以下の軍人・官吏は宝の山に入りこんだ盗賊のように掠奪に奔走し、汚職のかぎりをつくした。
「犬(日本人)が去って豚がきた。犬は小うるさいが、家の番はできる。豚はただ食って寝るだけだ」
 という悪口が流行した。犬も豚も、外からやってきた国家≠セった。
 1947年2月28日におこった民衆弾圧は台湾戦後史の出発点をなしており、いまなお2.28事件≠ニして語られつづけている。事は、ささいなことからおこった。
 自然発生的にはじまった民衆の抗議デモに対し、警備兵が発砲し、これに反対して暴動がふくれあがった。民衆は放送局を占拠し、全島に決起をよびかけた。
 台湾人による台湾がはじまりそうな勢いでもあったが、しかしわずか7日でおわった。陳儀は大陸から大軍が来るのを知っており、その間、さまざまに時間かせぎして現地人≠ニ妥協をかさね、援軍が上陸すると同時に凄惨な報復に転じたのである。

 台湾の多数派は、むろん根っからの本島人(本省人)である。多数派とはいえ、被支配層で、ながらく発言権が弱かった。それどころか、弾圧されたり、殺されたりした。
 これに対し、戦後40年以上、この島の支配層をつくっていたのは、大陸からきた外省人≠ナある。かれらは、大陸での内戦に負けてこの島に来、本島人を支配した。
 当然ながら本島人は大陸系をきらう。英語で言う場合に、みずからを台湾人と言いたがる。両者は文化までちがうのである。しかしながら、
 「孫文」
 という近代史のなかの人名には、どちらも悪感情をもっていない。

 彼はうまれつき欲望がすくなく、中国を近代化するための情熱にのみとりつかれていた。かれの手段は、武装蜂起によって清朝を倒すことだった。

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 兄がハワイで成功したので、頼って渡米し、ホノルルの英国系教会の付属学校に入り、17歳まで勉強した。わずか3年の留学ながら、その後、英語による読書によって世界を知ることができた。
 故国に帰り、医者になって自立すべく広州や香港の医学校でまがりなりにも西洋医学を習得した。
 革命家としての孫文は百敗の人であった。
 武装蜂起にしくじっては他国に亡命するということをくりかえしつつ、表情はつねに明るかった。そのあかるさが、ひとびとを魅きつけた。
 しばしば日本が活動の舞台になった。明治28年(1895)にはじめて来日し、大正13年(1924)、神戸で最後の講演をし、その翌年に亡くなった。
 日本でふかく交わったのは、宮崎滔天(とうてん)、平山周(しゅう)、大養毅(つよし)らで、とくに宮崎滔天の少年のような情熱と古武士のような信義に孫文は本来の日本人らしさを見出した。
 有名な『三民主義』は書きおろしの著作ではなく、講演速記である。以下、中央公論社刊の『世界の名著64』「孫文」の訳による。

 外国人の観察者は、中国人はばらばらの砂である、と申うします。

 同書の注によると、ばらばらの砂≠フ孫文の原語は、一片ノ散沙≠ニいう。握っても、かたまらない。
 かたまらないのは、中国人には、他国のように国家を意識した民族主義がないからだと孫文はいう。中国人にあるのは家族主義と宗族主義だけだと言いきるのである。
 宗族の概念は、日本人にわかりにくい。祖先、あるいは姓を同じくする血族集団のことで、私(し)と同心円のなかにある。
 「中国には、ただ家族主義と宗族主義があるだけで、国族主義はありません」
 と孫文はいう。国族主義とは孫文の造語で、血族という私的次元を超えた立場で、公ともいえる。

 国族主義は愛国と言いかえてもいいが、孫文の気分からいうと、すこしちがう。愛国者は、中国にたくさんいたし、いまもいる。
 やはり、公に対して私を滅する立場といっていい。

 ついでながら、儒教にも、まれながら、公の思想がある。五経の一つの『礼記』にある。天下為公も『礼記』に出ている。
 ただし中国の古代思想のなかで、公をやかましく言ったのは儒家でなく法家であった。 もっとも法家思想は古代の秦が採用して失敗して以来、中国には根づかなかった。
 これに対し、儒教は、多分に私の体系である。仁をやかましくいう。仁は私人である為政者の最高徳目で、それが人格としてにじみ出るのが徳であった。
 中国は前漢の武帝(ぶてい)以来、儒教が国教とされ、2千年もそれがドグマとしてつづいた。
 つらぬいて人治主義たった。
 身もふたもなくいえば、歴朝の中国皇帝は私で、公であったことがない。その股肱の官僚もまた私で、たとえば地方官の場合、ふんだんに賄賂をとることは自然な私の営みだった。このため近代が興りにくかった。

 台湾にやってきた蒋介石の権力も、当然私であった。

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 ひとびとの側に立って考えてみる。
 歴朝の私が人民にとって餓えた虎でありつづけた以上、ひとびとはしたたかに私として自衛せざるをえなかったのである。国族主義どころではない。
 王朝からの害をふせぐには宗族で団結するほかなく、このため、国家という場からみればひとにぎりの砂≠スらざるをえなかった。
 ただ、台湾にあって、ふしぎなことがおこった。その奇跡≠のべる前に、いきさつについて触れる。
 まず蒋介石についてである。かれは孫文死後の国民党(右派)の指導者になり、やがて中華民国の独裁的な支配者になってゆく。
 浙江財閥の四大家族≠ニよばれたグループの代弁者だったとも見られている。
 その生涯は波乱が多かった。外からは日本の中国侵略があり、内からは中国共産党の勃興があった。蒋介石は共産党と戦ったり、途中これと合作して対日戦争を指揮したりした。日本の敗北後、共産党を相手に戦った。
 やがてその戦いに敗れ、百万(あるいは60万)の軍隊とともに海にうかび、台湾に移った。1949年末のことである。
 大陸で成立した中華人民共和国は、当然ながら台湾省を領地とした。一方、現実の台湾にあって蒋介石は中華民国の呼称をすてず、全中国を版図としている以上、現実の台湾は単なる1省とせざるをえなかった。

 地生(じば)えの本島人にとって、たまったものではなかった。
 大陸からやってきた中華民国≠ェこの小さな島にのしかかり、軍と警察と秘密警察によって敵性人なみのあつかいをうけた。
 ただ台湾にとってありかたかったのは、持ちこまれた国家の体系が、孫文の理想である法治国家だったことである。

 ただし、ほとんどの国家機関がこの島に乗りこんできた大陸系の人達に牛耳(ぎゅうじ)られた。その上、共産国家なみの一党独裁体制で、さらには戒厳令が布(し)かれ、法治国家は凍結されたままだった。

 蒋経国(しょうけいこく)は、蒋介石の長男であった。
 1910年うまれで、父とともに台湾に移ったときはすでに39歳だった。
 1925年に革命早々のソ連に留学し、在ソ12年半ののち、中国に帰った。1937年3月、日中の全面戦争の前夜であった。
 この人の人柄や思想については、私は無知である。
 台湾時代の蒋経国は、父のもとにあって、秘密警察を担当した。父の私物を守るしごとだったといえる。
 1975年4月、蒋介石が88歳で亡くなったあと、蒋経国は、すこしずつ変ってゆく。多少の経緯をへて、78年、総統を相続した。

 その間、本島人たちは経済にのみ専念し、やがて台湾の経済力が向上しはじめた。
 が、内外の環境は、蒋政権にとってきびしくなった。

 蒋経国は私(し)としての権力の命数をよく知っていたようで、総統就任以前から台湾人(タイワニーズ)の俊才を抜擢しはじめた。奇跡が準備されはじめたといっていい。
 1972年以後、アメリカや日本、西側の主要国家が、中国との国交を正常化し、台湾は孤立の影を深めた。
 さらには、国内の台湾人の不満によって内圧が高まった。
 蒋経国は、1985年12月、おどろくべきことを公言した。「蒋家の者が権力を継承することはない」というのである。私の放棄というべき宣言だった。その翌々年、「台湾(ここ)がやがて本島人(あなた)たちのものになる」と発言し、内圧を低くしようとした。
 おなじ年の7月、40年に近い戒厳令を解除し、その月に「私も台湾人だ」とさえ公言した。その翌年の88年1月に死んだ。
 蒋経国は、死の四年前に後継者を用意した。
 後継者は歴とした台湾人(タイワニーズ)で、おだやかな学者である李登輝(りとうき)氏だった。これを、副総統にした。
 副総統は憲法の規定によって総統の死とともにあたらしい総統になる。
 88年1月、李登輝総統が誕生した。
 台湾のひとびとの表情が、一挙におだやかになった。以後、5年になる。

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[児玉・後藤・新渡戸(にとべ)]
 児玉源太郎と後藤新平が、日本領時代50年間の台湾の行政の基礎をつくった。初代の台湾総督は海軍大将樺山資紀(かばやまのりすけ)、2代は陸軍中将桂太郎、3代は乃木希典で反乱軍に手を焼き、その任にあったのは長くて1年間だった。
 児玉が明治の世で活躍できたのは、長州圏にうまれたことによる。
 彼は、ペリー来航の前年(1852年)にうまれた。
 彼は、少年兵士のあがりであった。このため7歳で入学した藩校興譲館(こうじょうかん)のほかは、別段の教育は受けななかった。むしろ児玉の場合、よりすくなかった教育が、かれの思考を自由にした。
 ただ、明治4年(1869年)、京都の教導隊や大阪の兵学寮でフランス式の下士官教育を1年足らず受けた。これが児玉の唯一の学歴といっていい。
 児玉の台湾における女房役になった後藤新平は、人材を探しては、台湾に送った。新渡戸稲造(1862〜1933)もそのうちのひとりだった。台湾では殖産局長兼製糖局長として、製糖による統治の経済的基礎を確立させた。
 後藤新平は須賀川医学校ができたとき、明治7年に入学した。以後、名古屋の愛知病院につとめ、やがて病院長兼医学校長になった。その後、内務省に入り、衛生局長をつとめ、日清戦争がおこると、陸軍の検疫部事務官長になった。
 児玉が台湾総督をひきうけるにあたって、女房役の民政局長(のち民政長官)に後藤新平を選んだ。児玉が着任早々、後藤に施政方針の演説原稿をつくることを命じたとき、後藤が無方針という意見を児玉は即座に理解し、それを貫いた。後藤新平は、日本式の法律万能が現地の不評を買っていることを知っていた。

[八田與一(はったよいち)のこと]
 日本領時代に八田與一(はったよいち)という土木技師がいて、嘉南平野(嘉義市と台南市の間の平野)を美田にしようとし、成功した。大正時代のことである。
 烏山頭(うざんとう)の珊瑚潭(さんごたん)は貯水池で、この水が嘉南平野にくばられる。その巨大な水利構造を「嘉南大しゅう(漢字は土扁に川)」という。嘉南平野を縦横にめぐっている水路の長さは1万6千キロで、万里の長城の2千7百キロを遥かにしのぐ。八田與一は、この大工事が終わるまで、家族とともに、現場の日本家屋に住んでいた。
 八田與一は金沢の人で、明治42年(1909)東京帝大工科大学土木科卒し、ほぼ同時に台湾総督府土木局に勤務した。
 夫人は外代樹(とよき)といい金沢第1高女を卒業して直ぐ與一と結婚し、台北の官舎に住んだ。大正6年(1917)のことである。2男6女を儲けた。
 與一は昭和17年(1942)、陸軍に徴用されてフィリッピンにむかう途中、乗船の大洋丸が米潜水艦の攻撃をうけ撃沈されて死んだ。56歳であった。3年後に外代樹があとを追った。

4. この本を読んで
 台湾旅行の前に、この本を読んで良かったと思いました。台湾の歴史がよくわかったこと、台湾に貢献した日本人のこと、台湾の地理や人々のことなどとても勉強になりました。司馬さんの本を読んでいつも感じることですが、山地人(いわゆる高砂族の人々)を暖かい目で見ています。この資料にはまとめきれなかったのですが、関心のある方は是非とも本に目を通していただきたいと思います。

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[Last updated 4/30/2013]