耽羅(たんら)紀行
街道をゆく28

  目 次

1. まえおき
2. 本の目次
3. 概 要
4. この本を読んで


司馬遼太郎著
発行所 朝日新聞社

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1.まえおき
 司馬遼太郎さんの「街道を行く」は43巻あります。韓国行きが話題に上ったとき、友人から第2巻「韓のくに紀行」と第13巻「壱岐・対馬」を勧められました。この2冊を読んだ後、図書館でこの本を見つけました。最初は本の題名も読めなかったのですが、旅行を計画しているチェジュ(済州)島のことであるとわかり、読了しました。お陰で済州島への興味が増し、具体的な観光地を決めるのにも役立ちました。

2. 本の目次
常世(とこよ)の国            7
焼跡の友情               18
俳句「颱風来(たいふうらい)」     30
三姓穴(サムソンヒョル)         42
塋域(えいいき)の記          56
石と民家                  68
"国民"の誕生              80
郷校(ヒヤンギヨ)散策          93
士大夫の変化              108
北から南への旅            121
父老(ふろう)とカプチャン        133
神仙島                  146
モンゴル帝国の馬           159
森から草原へ              172
お札(さつ)の顔              184
朝天里(チヨチヨンニ)の諸霊      194
不滅の風韻                204
思想の惨禍                214
車のはなし                 227
故 郷                    238
虎なき里                  250
憑(つ)きもの話               261
近くて遠い                  273
シャーマン                  285
泉靖一(いずみせいいち)氏のこと    296
赤身露体(せきしんろたい)        308
『延喜式(えんぎしき)』のふしぎ     320

索引                339

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3. 概 要
[常世(とこよ)の国]
 司馬さんが行きたかった場所はモンゴル高原、バスク地方(フランスとスペインの国境)、アイルランド島、ハンガリー平原、済州島です。
 済州島はチェジュド(13世紀末にこう変わった)といい、それまでは「タン」、漢字では耽羅(たんら)といっていました。古代は独立国で高麗(コリョ)朝の末期(1291年)に「済州」となりました。日本の香川県ほどの面積で、国立の総合大学(済州大学校)があります。
 李朝は1392年に興り、1910年におわりました。520年に近い長寿王国です。科挙の試験で官僚を採用しました。士禍(士[官僚]に対する粛清)により流罪にされた土地が済州島で、空海も済州島を見たはずです。
[焼跡の友情]
 三姓穴(サムソンヒョル)は済州市にあります。初めは人がいませんでした。良乙那(ヤンウルラ、梁[ヤン]氏の祖先)、高乙那(コウルラ、高[コ]氏の祖先)、夫乙那(プウルラ、夫[プ] 氏の祖先)が穴から出てきました。日本から3人の乙女が流れ着き、彼らと結婚しました。
 旅行には次の3人も同行した。文順礼(ムン・スルレ)は司馬遼太郎の奥さんの幼な馴染みの女性で、耽羅の人です。玄文叔(げんぶんしゅく)は文さんのご主人で、耽羅の人です。姜在彦(きょうざいげん韓国読みではカン・ジェオン)は玄さんと遼太郎との共通の友人で耽羅の人です。
[俳句「颱風来(たいふうらい)」]
 「妻発ちて時刻表残る颱風来」玄文叔氏の作です。
[三姓穴(サムソンヒョル) ]
 族譜(チョクボ)は、系図のことで、マッカーリは韓国の酒です。
 漢拏(ハルラHalla)山(サン)は、済州島にある山で、済州島は漢拏山(1,950m)一つでできています。ゆるやかな傾斜で山頂は鐘のかたちをしています。寄生火山(オルム)は瘤のように隆起している小山で、全島で約3百あります。
 三姓穴は小公園になっています。直径1m、深さ0.5m程度のくぼみで、そこから3神人が出て来ました。春秋に大祭が、毎月1日には小祭が行われます。

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[塋域(えいいき)の記]
 塋域とは、墓域のことで、姜在彦さんが墓参りにゆくのに、ついて行きます。済州島は三多(女多し、風多し,石多し)といい、風をよけるため家も畑も石垣に囲まれています。
[石と民家]
 李氏朝鮮第4世の王である世宗(1418〜1450 セジョン)は名君です。政治における善を表現しきった時代で、学問を好み、経済に通じていました。通貨を大切にし、鑄銭所を設けて銭貨を通用させました。農業技術の向上をはかるとともに、税制を合理化しました。また朝鮮語表現のために、ハングル(朝鮮文字)をつくらせました。
 外政においても、卓越していました。当時、朝鮮の北方は、女真(じょしん)人(固有満州民族)が跳梁していて、国境付近の領土権が不安定でした。世宗は兵を送って東北方面(咸鏡道[ハムギョンド])の境を定め、また西北方面(平安道[ピョンアンド])の女真族に対してこれを鎮めました。
 その当時、日本は南北朝の争いの最末期でした。農業生産高は上がっていました。倭冦が朝鮮や明の沿岸を荒らしまわっており、私貿易もさかんでした。乱世のくせに、こんにちの日本文化の基礎的なものはこの時代にできました。日本語による文学表現、法規表現、建築上独自な数寄屋普請,芸能における能と狂言、茶道などは、この時代にできあがってゆくのです。
 道立民族自然史博物館は濟州市郊外にあります。
 韓国・朝鮮語は、ウラル・アルタイ語に属し、助詞(テニオハ)という膠(にかわ)でことばが接着されて行くので膠着(こうちゃく)語といいます。
 「三無」乞食がなく、盗人がなく、門が無いといわれています。
 元(げん)代、この済州島は8、90年のながいあいだ、モンゴル人に支配されていました。元の滅亡後も、少なからぬ数のモンゴル兵が、ここに土着し、牧畜しました。
["国民"の誕生] 
 紅坡頭里(ホンパドゥリ 北岸を西に向かって歩く)は三別抄(サムビョルチョ)が13世紀に最後の抵抗した地で、土堤(山城)があります。高麗末、崔(チェ)氏が朝政を牛耳り、別抄(ビヨルチョ)という私兵をたくわえていました。左右の夜別抄(ヤビヨルチョ)と神義別抄(シニビヨルチョ)の総称が三別抄で、それが国民軍に変わっていきました。モンゴルが高麗に侵入して王朝は漢江(ハンガン)河口の江華島(カンファンド)に避難し、三別抄も江華島に移りました。王朝はモンゴルに降伏し、三別抄はこの地で潰(つい)えます。

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[郷校(ヒヤンギヨ)散策] 
 観徳亭(クアンドクチョン)は濟州市の古い建物で李朝の頃の練武館(吹き抜け)です。もう一つ古い建物として郷校があります。李氏朝鮮時代の国立のハイ・スクールです。
 両班(ヤンバン)とは国王の宮殿に侍立する文武の大官で、転じて、その子孫にして中央・地方の名族を指します。
[士大夫の変化]
 北岸の邑(むら)の名が涯月(エウオル 涯は水辺の意)、翰林(ハルリム)はアカデミーの意で、皇帝のそばにあって詔勅などの草稿を書く役目です。
 狭才窟(ヒヨプチエグル)は濟州市の西約30km[12号線沿い]にあり、溶岩洞窟と鍾乳石があります。司馬さんの記念碑を公園にした宋奉奎(ソン・ボンギュ)氏は(済農[チェノン 済州農業学校])の出身です。
[北から南への旅]
 済州島は中央に漢拏山(ハルラサン)を抱いて東西に長い楕円形で、北部は本土に近く、空港、朝天(チョンチョン)港があり、県庁の置かれている濟州市、国立濟州大学校もあります。
 韓国人は99%が両班(貴族)だと思っている誇りが高い国民です。
 西帰浦(ソグイボ)は南部の中心的な町で、近くに香港資本と地元資本との合弁のホテルがあります。
[父老(ふろう)とカプチャン] 
 蜜柑の木の海の中にいます。朝鮮半島は陸地(ユクチ)といいます。韓国・朝鮮では夫婦別姓です。中国や朝鮮には、一郷一村に必ず父老がます。徳がある人がなります。天帝淵(チョンジェヨン)は濟州島で最大の瀧です。甲長または同甲(カプチャン)という風習は、年長に礼をつくすが同年齢の人に対して無害な悪口雑言のやりとりをすることです。
[神仙島]
 天帝淵(チョンジェヨン)は瀑布で3段の岸壁から落流れちます。
 西好里(ソホリ)は金成順夫人の故郷です。済州島には椿が多く好近洞(ホグンド)は玄文叔氏の故郷です。三和農園は蜜柑栽培で成功しました。済州島は神仙島のような島です。
[モンゴル帝国の馬]
 日本は儒教を徳目として取り入れましたが,社会制度としては入れませんでした。朝鮮からみると、しばしば日本が非文明に見えるのもこういうことの有無であるかと思えます。
 漢拏山(ハルラサン)の中腹越えの道路をつたって、原生林や牧草地へ行きます。標高200メートルまでは農業、蜜柑で、標高600メートルまでは牧草地(モンゴル草原のよう)、標高1400メートルまでは、温帯林(ブナ、ナラ、トチ、クヌギ、ヤマザクラなど)、標高1700メートルまでは、寒帯林(針葉樹で原生林)です。 西帰浦から北上する東側横断道路は10月31日で大紅葉でした。韓国人の名前は5行説(木火土金水)、10干(かん 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬[じん]・癸[き])、12支の三つが組合わさったものです。
 モンゴル帝国は日本に対しては中国や高麗(コリョ)の兵を用いようとしました。
 高麗は8度以上、30年にわたってモンゴルに抵抗し、国中がふみにじられました。高麗王朝は、元に臣従し、最後に三別抄が済州島で全滅(1273年)したとき、元は済州島を高麗から切り離して直轄領としました。元が亡びた後、蒙古馬だけが残りました。馬格は大きくなく、体が小さいくせに頭が大きく、脚が短く太いのが特徴です。

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[森から草原へ]
 漢拏山には榧(かやまた栢とも書く)の木が生えています。ゆっ(木扁に四)は木を並べる遊戯で、済州島では今も遊ばれており、「うつむきさい」として万葉集に出てきます。
[お札(さつ)の顔]
 千ウオン札の肖像は李退渓(イ・テゲ )または李滉[イ・ファン]で、16世紀に朝鮮朱子学を集大成した人です。
 儒教には、神も、さらには迷信もありません。神にかわる至高のものとしては、堯、周公、孔子などの聖人です。
 朱子学の根本的な教科書として『資治通鑑綱目(しじつがんこうもく)』があります。日本の荻生徂徠(おぎうそらい)は、宋学とくに朱子学ぎらいでした。徂徠をはじめ諸学が存在した日本に対し、李氏朝鮮は5百数拾年、朱子学を唯一の価値とし、きびしくつらぬいてきたのです。
 細花(セファ)は海水浴場で、次が金寧(キムニョン)です。ここの出身者は、大阪でも成功者が多く、朝天(チョチョン)に司馬さんが寄りました。
[朝天里(チョチョンニ)の諸霊]
 朝天里は李氏朝鮮の時代、済州島を代表する港でした。ここには恋北亭(ヨンプクチョン)があります。済州島に流された大官が北[首都ソウル]、王を恋うるというもので、菅原道真と似た話です。
[不滅の風韻]
 朝天里はさびしい港です。済州は良港に恵まれていません。17世紀半ばになって、オランダの難破船の乗員ヘンドリック・ハメルにより「朝鮮幽囚記」が書かれ、この本によって朝鮮がヨーロッパに知られました。その中に出てくる牧使李元鎭(イ・ウォンジン)の風韻は不滅になりました。
[思想の惨禍]
 晩年、宋時烈(ソン・ショル)は済州島に流され、死を賜りました。恋北亭を見たでしょう。「朝鮮の開化思想(姜在彦氏の著書)」に出てきます。
[車のはなし]
 李朝朝鮮は1392(室町初期)〜1910年(日韓合併)と非常に長く、朱子学というドクマ(教義)で貫かれた5百年で、朝鮮には長い間、車がありませんでした。朱子学のせいです。朴趾源(パク・チュウオン 1737〜1805年)が車の必要性を説きました。動物に引かせる車さえ無かったのです。清国に使いし、何千何百種という車を見ました。

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[故 郷]
 故郷とは何でしょうか。玄文叔氏は、ほんの小さいときに古名眈羅と呼ばれる地を離れ、憶えているのは集落の共同便所くらのものでした。山河も変わり彼にとっての故郷は次の大学ではないでしょうか。
 濟州大学校を訪ね,多くの学者に会いました。かって済農(チェノン)と呼ばれた農業学校で敷地は約30万坪、六つの学部と四つの研究所を持っています。
[虎なき里]
 以下は「耽羅(たんら)紀行続編」で、秋の10月の終わりに訪ねたあと、1ヶ月経って、12月はじめに再訪しました。文化は予想以上に深く、海女(あま)と神おろしの巫人(ふじん)は済州島の存在を世界に主張できる要素です。
 儒教社会では、年長であることが価値です。
 果樹(蜜柑)のお陰で豊かになり、ホテルも多くあり、その頃は人口は50万人に増えていました。
[憑(つ)きもの話]
 古代インドのバラモン教徒は天を供養する一方法として護摩を焚きました。原始仏教は宗教というよりも思弁性が高かいものでした。密教はドラヴィタ族の社会から生まれました。仏教と交配することによって、高度に宗教化しました。密教が唐代の中国に移ったとき、護摩も付随して中国に入りました。
 ミコは学問上、シャーマンとよばれ、韓国では一般に巫堂(ムーダン)と呼び、済州島では神房(シンバン)と呼びます。
 シャーマニズムという原始宗教は、古代は中国をふくめて東アジア、北アジア全円に存在していたと思われます。
[近くて遠い]
 儒教は、多分に行事です。とくに先祖に対する祭祀が重く、それに両親の死にともなう儀式や埋葬、墓制のこと、服喪のことが大きいです。
 儒教には、キリスト教や仏教のような神・仏はありません。
 儒教にあるさびしさ(死者の霊魂は安らいでいるか、など)を中国では道教がうずめ、韓国ではシャーマニズムがうずめます。
 日本の神道は、もとをただせばシャーマニズムでした。韓国ではシャーマニズムは高麗時代は仏教によって軽んじられ、李氏朝鮮時代には儒教によって賤められました。日本の場合、そういう賤視はなかったのです。
 シャーマニズムの聖所のことを済州島では「堂(タン)」とよびます。天にいる神は樹を伝わって降りてき、樹の場所も堂とよばれます。

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[シャーマン]
 シャーマンはクッ(Kut 除災招福)をやります。歌舞が入ったり、伴奏が入ったりします。クッは韓国固有の無形文化財として認められました。朝天里(チョチョンニ)で神房による儀式を見学しました。
[泉靖一(いずみせいいち)氏のこと]
 「済州島」(東京大学出版会)という名著を書きました。故人で1915年東京生まれです。国文学を専攻しましたが、1936年漢拏山に登ってから文化人類学に専攻を変えました。1970年、東大教授の現職中、55歳でなくなりました。「済州島」には、写真が多く掲載されています。
 彼は1935年(昭和10年)に初めて済州島を訪れました。1936年からその翌年にかけて済州島の村々を歩き、1965年(昭和40年)に再訪しました。この間、1945年8月に朝鮮が解放され、それから3年たった1948年4月3日、済州島に暴動が起こり、總人口の四分の一が殺されました。
 海女(ヘーニョ)については、中国古代史に、越(えつ)人が登場しますが、現代のヴェトナム人の遠祖で彼らが長江の河口平野などで稲作を中心とした古代文化をつくりました。かれらは潜水漁法も持っていました。日本の海女の能力は、済州島の海女に劣ります。
[赤身露体(せきしんろたい) ]
 日本人は海藻を食べます。世界で海藻を食べる民族はすくなく、アジアでも、古代、黒潮に乗って北上した海人族の定住地域に、いまもその食習慣が息づいています。肥料にもします。馬尾草(ばびそう)とはホンダワラのことです。海女の後継者は減っています。
 儒教が濃密だったむかしの韓国では、海女は賎しいとされました。身を労することは賎しく、海村、裸という三つの理由からです。
 済州島は位置によって山村,陽村、海村に分けられます。山村は漢拏山の高原にあって牧畜をし(蒙古馬)、陽村(農業村)は海岸とは一定の距離を保って存在し、山村・海村に対し優位意識を持っています。日本は儒学であって儒教ではありません。済州島風土記に「濳女は赤身露体にて海汀に遍満し(伝統的な水着をつけているのだが)……」というくだりがあります。

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[『延喜式(えんぎしき)』のふしぎ]
 海女は古代眈羅国の象徴のようなものですから、済州島の沿岸の海村には必ず彼女たちがいます。北済州郡朝天面北村里(プクチェジュグンチョチョンプクチョンニ)へ海女(ヘーニョ)に会いに行きました。済州島の海女は冬も海に入ります。午前と午後の2回漁に行きます。その間、男たちはのんびりしています。彼女らは日本にも、陸地(ゆくち)沿岸にも行きました。
 海女は、韓国と日本だけにいます。両国で3万人で、日本は5〜7千人です。済州島の方が技術も潜る深さも勝っています。
 沖にはターリョという岩礁(しま)があり、藻や魚介の巣になります。
 余談として延喜式に触れます。平安初期の延喜5年(905)に編纂された律令の施行細則です。延喜式に調(みつぎ)の記録があり、鰒(あわび)または鮑も調に入ります。「耽羅鰒六斤」という記録があります。

4. この本を読んで
 済州島の旅行の前に、この本を読んで良かったと思います。一緒に旅行した済州島出身の著者の友人が素晴らしいのと、朝鮮や朝鮮人に対する著者の尊敬や愛情を感じます。朝鮮との歴史や文化の違いがわかるのも、特徴かと思います。今回初めて韓国を訪問したわけですが、いずれは司馬さんの訪れたほかの地も訪ねてみたいと思っています。

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[Last updated 3/31/2010]