遠藤周作氏
深い河ほか

  目 次

1. はじめに
2. 全体構想
3. 年 譜
4. 戦いと和解と
5. 参考文献
6. 深い河
7. 沈 黙
8. 白い人
9. 私が愛した小説


遠藤 周作氏

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1.はじめに
 遠藤周作さんの本は、深い河、沈黙、白い人・黄色い人など何冊か読んできました。彼の作品の主題は、カトリック文学、フランス留学の二点かと思います。彼は12歳の時(昭和10年)、伯母さんの影響もあって受洗しますが、日本人にとってカトリックとは何なのかを一生追い続け、それらを作品として残しました。フランスに留学したのは、戦後間もない昭和25年、27歳の時で、この時の経験が彼の生涯を決めたといっても過言ではないと思います。
 今年(2006年)は没後10年であり、改めて作品を読みなおしてみたくなりました。これから1年くらいかけて、主な作品を採り上げて行こうと考えています。これを機会に留学中の経験を描いた「ルーアンの丘」を読むことができ、早くもよい勉強になったと思っています。

2. 全体構想
 このページでは遠藤周作さんの生涯と作品を、全体として捉えたいと思います。生涯については次項の年譜をご覧下さい。作品については主要な5〜6点の作品を順次採り上げて行きたいと思います。現在候補に考えているのは、次のような作品です。
 1) 深い河
 2) 沈黙
 3) 死海のほとり
 4) 白い人・黄色い人
 5) ルーアンの丘
 6) 海と毒薬
 7) わたしが・棄てた・女
 また遠藤周作さんの考え方などについて中村真一郎氏の「戦いと和解と」を載せました。最初の作品としては「深い河」を採り上げました。

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3. 年 譜[参考文献(1)]
◆大正12年(1923)
3月27日、東京市巣鴨で、父常久、母郁子の次男として生れる。2歳年上の兄正介との二人兄弟。当時、父は安田銀行(冨士銀行の前身)に勤め、母は上野音楽学校(東京芸術大学の前身)ヴァイオリン科の学生であった。安藤幸(幸田露伴の妹)と共にモギレフスキイの弟子であった母から、後年、大きな影響を受けることになる。

◆大正15年・昭和元年(1926)……………3歳
父の転勤で満州関東州、大連に移る。

◆昭和4年(1929)…………………………6歳
大連市の大広場小学校に入学。勉強がよく出来る兄に比べると、成績は悪かった。クロという犬が親友であり、学校から帰ると漫画ばかり描いていた。母は毎日、朝から夕方までヴァイオリンの勉強をしていた。冬の寒い日にヴァイオリンを弾く母の指から血が吹き出ているのを見て、芸術というものが大変なものであると子供心にも感じられた。昭和7年頃から父母が不和になり、暗い気持で通学する日が続く。

◆昭和8年(1933)…………………………10歳
父母が離婚したため母に連れられて日本へ戻り、神戸市の六甲小学校に転校。神戸在住の伯母がカトリック信者だったため、夙川の教会に連れて行かれるようになり、他の子供たちと共に公教要理を聞く。

◆昭和10年(1935)………………………12歳
六甲小学校を卒業し、私立灘中学校に人学。能力別のクラス編成で、入学した時はA組だったが、2年B組、3年C組と下がり、卒業前には最下位のD組に人れられた。この頃、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を読み、弥次喜多を理想的人物として、自分もあのような生活をしたいと考えた。6月23日受洗、洗礼式で「神を信じますか」という問いに対して無自覚に「信じます」と答えた。思想的な迷いの後に受洗を選んだのではなく、受けさせられたものであった。洗礼名ポール。しかし、後年、幾度もカトリシスムを棄てようとしながら、棄てることができなかった。

◆昭和15年(1940)………………………17歳
灘中学校を卒業。

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◆昭和16年(1941)………………………18歳
4月、上智大学予科甲類に入学。12月、同人雑誌「上智」(上智大学出版部発行)第1号に、評論「形而上的神、宗教的神」を発表。 *没後に上智大学で発見された。

◆昭和17年(1942)………………………19歳
2月、上智大学予科を退学。

◆昭和18年(1943)………………………20歳
浪人生活を経て慶應義塾大学文学部予科に入学。しかし父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、友人利光松男方に転がりこむ。以後、アルバイト生活を始めたが、戦局苛烈のため授業はほとんどなく、川崎の勤労動員の工場で働く。間もなく、カトリック哲学者の吉満義彦が舎監をしていた学生寮に人る。吉満の影響でジャック・マリタンを、友人松井慶訓の影響でリルケ等を読んだ。吉満の紹介で亀井勝一郎を、翌19年には堀辰雄を訪ねた。

◆昭和20年(1945)………………………22歳
下北沢の古本屋で買い求めた佐藤朔『フランス文学素描』を読んだのが動機となり、4月、仏文科に進学。徴兵検査は第一乙種であったが、肋膜炎のため召集延期になり、人隊しないまま終戦。フランソワ・モーリヤックやジョルジュ・ベルナノス等フランスの現代カトリック文学を読み始めた。一学年上に安岡章太郎がいた。翌21年、父の家に戻る。

◆昭和22年(1947)………………………24歳
12月、角川書店にアルバイトに行っていた同級生に托したエッセイ「神々と神と」が神西清に認められ、書店刊行の「四季」第5号に掲戴された。また、評論「カトリック作家の問題」を「三田文学」に発表。

◆昭和23年(1948)………………………25歳
3月、慶應義熟大学文学部仏文科を卒業。松竹大船撮影所の助監督試験を受けて落第する。神西清の推挙で評論「堀辰雄覚書」を「高原」に発表、7、10月号に連載。6月、「死と僕等」(三田文学)、8月、「20歳代の課題」(三田文学)、10月、「此の二者のうち」(三田文学)、12月、「シャルル・ペギイの場合」(三田文学)を発表。

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◆昭和24年(1949)………………………26歳
5月、「神西清」(三田文学)、「ジヤック・リヴィエール−その宗教的苦悩」(高原)を発表。6月、佐藤朔の紹介で鎌倉文庫の嘱託になり、外国文学辞典編纂に従事したが、同社は間もなく倒産。8月、「エマニエル・ムニエのサルトル批判」(個性)、11月、「精神の腐刑−武田泰淳について」(個性)、12月、「ランボオの沈黙をめぐつて−ネオ・トミスムの詩論」(三田文学)を発表。この年、復員した兄と共にカトリック・ダイジェスト杜で働く。「三田文学」の同人になり、丸岡明、原民喜、山本健吉、柴田錬三郎、堀田善衛等の先輩を知る。

◆昭和25年(1950)………………………27歳
1月、「フランソワ・モーリヤック」(近代文学)、6月、「誕生日の夜の回想」(三田文学)を発表。6月5日、戦後最初の留学生として、フランスの現代カトリック文学を勉強するため、フランス船マルセイエーズ丸で横浜港を旅立つ。船艙で寝起きする4等船客で、日本人であるために寄港地ではほとんど上陸を許されなかった。スエズ運河を航行中、船内ニュースで朝鮮戦争の勃発を知る。7月5日、マルセイユに上陸し、9月までルーアンの建築家ロビンヌ家に預けられた。10月、新学期と共にリヨン大学に入学し、バディ教授の下で勉強する。この間、「群像」編集部の大久保房男の厚意でフランスの学生生活についてのエッセイ数編を書き送る。

◆昭和26年(1951)………………………28歳
2月、「恋愛とフランス人大学生(群像)、5月、「フランス大学生と共産主義」(群像)、9月、「フランスにおける異国の学生たち」(群像)を発表。この夏、モーリヤックの『テレーズ・デスケイルウ』の舞台であるランド地方を徒歩旅行する。

◆昭和27年(1952)………………………29歳
1月、「テレーズの影をおって-武田泰淳氏に」(三田文学)、3月、「フランスの女学生・俗語」(群像)を発表。

◆昭和28年(1953)………………………30歳
2年余にわたるリヨン滞在の後、パリに移ったが、健康を害してジュルダン病院に入院。2月、赤城丸で帰国する。5月、「原民喜と夢の少女」(三田文学)、7月、「滞仏日記」(近代文学)を発表、8、9、10、12月号に連載。『フランスの大学生』を早川書房より刊行。9月、「アルプスの陽の下に」(文学界)を発表。

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◆昭和29年(1954)………………………31歳
2月、「シヤロック・ホルムスの時代は去った」(文学界)を発表。4月、文化学院の講師になる。この頃、安岡章太郎を通して、谷田昌平と共に「構想の会」に入り、吉行淳之介、庄野潤三、近藤啓太郎、三浦朱門、進藤純孝、小島信夫等を知る。また、奥野健男の勧めで「現代評論」に参加し、6月創刊号に「マルキ・ド・サド評伝(T)」を発表。7月、『カトリック作家の問題』を早川書房より刊行。11月、初めての小説 「アデンまで」(三田文学)を発表。12月、、「マルキ・ド・サド評伝(U)」(現代評論)を発表。母郁死亡。強い影響を受けただけに、その死は辛かった。

◆昭和30年(1955)………………………32歳
4月、「学生」(近代文学)、「キリスト教」(文学界)を発表。5月、「白い人」(近代文学)を発表、6月号で完結。7月、「白い人」により第33回芥川賞を受賞。9月、岡田幸三郎の長女順子と結婚。10月、「コウリッジ館」(新潮)、11月、「黄色い人」(群像)を発表。『堀辰雄』を一古堂より刊行。12月、『白い人・黄色い人』を講談社より刊行。

◆昭和31年(1956)………………………33歳
1月、「青い小さな葡萄」(文学界)を6月号まで連載。6月、長男誕生、芥川賞受賞にちなんで、龍之介と命名。九月、「有色人種と白色人種」(群像)、11月、「椎名麟三論−微笑をとりめぐるもの」(文藝)を発表。『神と悪魔』を現代文芸社より刊行。12月、「ジュルダン病院」(別冊文芸春秋)を発表。『青い小さな葡萄』を新潮社より刊行。この年、上智大学文学部の講師になる。

◆昭和32年(1957)………………………34歳
1月、「シラノの鼻」(三田文学)、3月、「シラノ・ド・ベルジュラック」(文学界)、9月、「芸術交流体について」(文学)、「二つの芸術観−芸術におけるエロス的なものとアガペ的なもの」(三田文学)、6月、「海と毒薬」(文学界)を発表、8、10月号に連載。10月、「パロディ」(群像)、「月光のドミナ」(別冊文芸春秋)を発表、『タカシのフランス一周』を白水社、『恋することと愛すること』を実業之日本社より刊行。12月、「女王」(文学界)、「寄港地」(新日本文学)を発表。

◆昭和33年(1958)………………………35歳
3月、『月光のドミナ』を東京創元社より刊行。4月、「宦官」(文学界)を発表。「聖書のなかの女性たち」(婦人画報)を翌年の5月号まで連載。『海と毒薬』を文芸春秋社より刊行。8月、「夏の光」(新潮)を発表。『恋愛論ノート』を東都書房より刊行。9月末、アジア・アフリカ作家会議出席のため、伊藤整、野間宏、加藤周一らと共にソ連邦タシケントへ。モスクワを廻り、12月に帰国。10月、「地なり」(中央公論)、「松葉杖の男」(文学界)を発表。12月、『海と毒薬』により第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞。

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◆昭和34年(1959)…………………36歳
1月、「火山」(文学界)を10月号まで連載。2月、「最後の殉教者」(別冊文芸春秋)を発表。3月、「おバカさん」(朝日新開)を8月まで連載。4月、「イヤな奴」(新潮)を発表。6月、『恋の絵本』を平凡出版より刊行。9月、「従軍司祭」(世界)、「サド伝」(群像)を発表、10月号で完結。10月、「異郷の友」(中央公論臨時増刊号を発表。『おバカさん』を中央公論社より刊行。11月、「あまりに碧い空」(新潮)を発表。『蜘蛛−周作恐怖譚』を新潮社より刊行。マルキ・ド・サドの勉強補足その他のため、順子夫人を伴ってフランスに行く。サドの研究家ジルベール・レリイ、ピエール・クロソウスキイに会う。イギリス、スペイン、イタリア、ギリシャからエルサレムを廻り、翌年の一月に帰国。

◆昭和35年(1960)…………………37歳
帰国後、健康を害して東大伝研病院に入院、年末、慶應義塾大学病院に転院する。4月、「サド侯爵の城」(群像)、5月、「基督の顔」(文学界)、「旅の日記から」(世界)を発表。『若い日の恋愛ノート』を青春出版社より刊行。6月、「再発」(群像)を発表。「ヘチマくん」(河北新報他)を12月まで連載。7月、「葡萄」(新潮)、「男と猿と」(小説中央公論臨時増刊号)を発表。8月、『新鋭文学叢書6遠藤周作集』を筑摩書房より刊行。9月、『火山』を文藝春秋新社より刊行。10月、「病床交友録」(群像)を発表。『あまりに碧い空』を新潮社より刊行。11月、「船を見に行こう」(小説中央公論)を発表。12月、『聖書のなかの女性たち』を角川書店より刊行。

◆昭和36年(1961)…………………38歳
1月、「肉親再会」(群像)、「役たたず」(新潮)を発表。5月、『ヘチマくん』を新潮
社より刊行。この年、病状がすぐれず、3回にわたる肺手術を受ける。

◆昭和37年(1962)…………………39歳
3月、「七年ぶりに訪れた雪の街」を中央公論社刊『世界の旅4・西ヨーロッパ紀行』に発表。ようやく退院したものの、この年は体力が回復せず、短いエッセイを書いただけであった。9月、昭和文学全集20『安岡章太郎・遠藤周作』を角川書店より刊行。長編小説全集33『遠藤周作集』を講談社より刊行。10月、『結婚』を講談社より刊行。

◆昭和38年(1963)…………………40歳
1月、「男と九官鳥」(文学界)、「その前日」(新潮)、「童話」(群像)を発表。「わたしが・棄てた・女」(主婦の友)を12月号まで連載。5月、「泣上戸」(オール読物)、7月、「例之酒癖一盃綺言」(文藝春秋)を発表。『宗教と文学』を南北社より刊行。8月、「私のもの」(群像)、10月、「雑木林の病棟」(世界)を発表。「午後のおしゃべり」(芸術生活)を翌年の12月号まで連載。11月、「札の辻」(新潮)を発表。この年、駒場の家から町田市玉川学園に転居。新居を狐狸庵と命名し、以後、戯れに狐狸庵山人という雅号をつける。

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◆昭和39年(1964)…………………41歳
2月、「40歳の男」(群像)を発表。「爾も、また」(文学界)を翌年の2月号まで連載。3月、『わたしが・棄てた・女』を文藝春秋新社より、新日本文学全集9『遠藤周作・小島信夫集』を集英社より刊行。6月、『浮世風呂』を講談社より刊行。7月、「原民喜」(新潮)、9月、「帰郷」(群像)、10月、「梅崎春生」(群像)を発表。『一・二・三!』を中央公論社より刊行。12月、『偽作』を東方社より刊行。

◆昭和40年(1965)…………………42歳
1月、「大部屋」(新潮)、「雲仙」(世界)を発表。「満潮の時刻」(潮)を12月号まで連載。3月、「留学」(群像)を発表。し6月、『留学』(第一、二章「留学」、第三章「爾も、また」)を文藝春秋新社より刊行。7月、「道草」(文芸)を発表。『狐狸庵閑話』を桃源社より刊行。10月、『哀歌』を講談社より刊行。この年、新潮社の書下ろし長編小説の取材のため、長崎、平戸を三浦朱門と共に数度にわたり旅行する。

◆昭和41年(1966)…………………43歳
3月、『沈黙』を新潮社より刊行。5月、戯曲「黄金の国」(文芸)を発表、芥川比呂志の演出で初演。『金と銀』を佼成出版社より、現代の文学37『遠藤周作集』を河出書房新社より刊行。7月、『楽天主義のすすめ』を青春出阪社より刊行。10月、「雑種の犬」(群像)を発表。『協奏曲』を講談社より刊行。『沈黙』により第二回谷崎潤一郎賞を受賞。11月、『さらば、夏の光よ』(「白い沈黙」の改題)を桃源社より刊行。12月、『闇のよぶ声』(「海の沈黙」の改題)を光文社より刊行。この年から3年間、成城大学の講師として「小説論」を講義。

◆昭和42年(1967)…………………44歳
1月、「扮装する男」(新潮)を発表。われらの文学10『福永武彦・遠藤周作』を講談社より、『遠藤周作のまごころ問答』をコダマプレスより刊行。5月、『ぐうたら生活入門』を末央書房より、キリシタン時代の知識人−背教と殉教』(三浦朱門と共著)を日本経済新聞社より、『現代の快人物−狐狸庵閑話巻之貳』を桃源社より刊行。日本文芸家協会理事になる。七月、「もし…」(文学界)、「土埃」(季刊藝術)を発表。八月、『どつこいショ』を講談社より刊行。以前から親交のあったポルトガル大使アルマンド・マルチンスの招待でポルトガルに行き、アウブフェーラで行われた聖ヴィンセントの三百年祭で記念講演をする。リスボン、パリ、ローマを廻り、9月に帰国。10月、『私の影法師』を桂書房より刊行。12月、『古今百馬鹿−狐狸庵閑話巻之参』を桃源社より刊行。

◆昭和43年(1968)…………………45歳
1月、「影法帥」(新潮)、「六日間の旅行」(群像)、2月、「ユリアとよぶ女」 (文藝春秋)を発表。『快男児・怪男児』を講談社より刊行。3月、現代文学大系61『堀田善衛・遠藤周作・阿川弘之・大江健三郎集』を筑摩書房より刊行。4月、素人劇団「樹座」をつくり、紀伊国屋ホールでシェークスピアの『ロミオとジユリエット』を上演。5月、「聖書物語」(波)を昭和48年六月号まで連載。8月、「なまぬるい春の黄昏」(中央公論)を発表。9月、日本短篇文学全集21『有島武郎・椎名麟三・遠藤周作』を筑摩書房より刊行。11月、『影法帥』を新潮社より、『周作口談』を朝日新聞社より刊行。この年、1年間の約束で「三田文学」の編集長になる。

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◆昭和44年(1969)…………………46歳
1月、「母なるもの」(新潮)を発表。新潮社の書下ろし長編の準備のため、イスラエルに行って聖書の舞台を辿り、2月に帰国。2月、「小さな町にて」(群像)を発表。新潮日本文学56『遠藤周作集』を新潮社より刊行。4月、現代文学の実験室6『遠藤周作集』を大光社より刊行。アメリカ国務省の招待でアメリカに行き、5月に帰国。7月、『それ行け狐狸庵』を文藝春秋より刊行。8月、『遠藤周作ユーモア小説集』を講談社より、『大変だア』を新潮社より、日本の文学72『中村真一郎・福永武彦・遠藤周作集』を中央公論祉より刊行。9月、『薔薇の館・黄金の国』を新潮社より刊行。10月、「学生」(新潮)、「ガリラヤの春」(群像)、「薔薇の館」(文学界)を発表。12月、『楽天大将』を講談社より刊行。

[昭和45年(1970)〜昭和62年(1987)は次回以降掲載の予定]

◆昭和63年(1988)………………………65歳
1月、「5日間の韓国旅行」(海燕)を発表。「反逆」(読売新開)を翌年の2月まで連載。
2月、『遠藤周作と語る-日本人とキリスト教(対談集)』を女子パウロ会より刊行。
4月、順子夫人と共にロンドンへ行き、同月帰国。5月、「みみずのたわごと」(新潮)を発表。7月、『こころの不思議、神の領域(対談集)』をPHP研究所より刊行。
8月、『ファーストレデイ』(「セカンドレデイ」の改題)(上・下)を新潮社より、『その夜のコニャック』を文芸春秋より刊行。国際ペンクラブのソウル大会に日本ペンクラブ会長として出席し、9月帰国。この年、『スキャンダル』がイギリスのピーター・オウエン出版社より出版される。文化功労者になる。

◆平成元年(1989)………………………66歳
3月、「昭和−思い出のひとつ」(新潮)、「老いの感受性」(文学界)を発表、『″逆さま流″人間学』を青春出版社より刊行。
4月、『春は馬車に乗って』を文芸春秋より刊行。日本ペンクラブ会長を退任。5月、『こんな治療法もある(対談集)』を講談社より刊行。
7月、『反逆』(上・下)を講談社より刊行。12月、『落第坊主の履歴書』(「私の履歴書」の改題)を日本経済新聞社より刊行。父常久死亡。この年、『留学』がイギリスのピーター・オウエン出版社より出版される。

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◆平成2年(1990)………………………67歳
1月、「演奏会で」(群像)、「読みたい短篇、書きたい短篇」(新潮)を発表。2月、書下ろし長編の取材のためインドへ行き、同月帰国。
3月、「『無意識』を刺激する印度」(読売新開)、4月、「自作発見−スキャンダル」(朝日新聞)を発表。
7月、『変るものと変らぬもの』(「日時計」の改題)を文芸春秋より刊行。仕事場を上大崎に移す。
9月、『心の海を探る(対談集)』をプレジデント社より刊行。10月、アメリカのキャンピオン賞を受賞。『考えすぎ人間』を青春出版社より刊行。11月、「取材日記」 (文芸春秋)を発表。

◆平成3年(1991)………………………88歳
1月、三田文学会理事長に就任、「小説を読む悦び」(新潮)、「寓話」(群像)、「言語道断」(海燕)を発表。3月、『生き上手死に上手』を海竜社より刊行。4月、「無鹿」(別冊文芸春秋)を発表。5月、『決戦の時』(上・下)を講談社より刊行。アメリカに行き、クリーブランドのジョン・キヤロル大学から名誉博士号を受ける。『沈黙』の映画化の件でマーチン・スコセッシ監督と会い、同月帰国。6月、「G・グリーンの魔」(新潮)を発表。10月、『男の一生』(上・下)を日本経済新聞社より刊行。11月、『人生の同伴者』(対談−聞き手・佐藤泰生)を春秋社より刊行。12月、台湾の輔仁大学に行き、名誉博士号を受ける。

◆平成4年(1992)………………………89歳
2月、『心の砂時計』を文芸春秋より刊行。
5月、6月、『対論・たかが信長されど信長』を文芸春秋より刊行。『王の挽歌』(上・下)を新潮社より刊行。8月、『異国の友人たちに』を読売新聞社より刊行。
11月、『狐狸庵歴史の夜話』を牧羊社より刊行。

◆平成5年(1993)………………………70歳
4月、『万華鏡』を朝日新聞社より刊行。
6月、『深い河』を講談社より刊行。7月、遠藤周作編『キリスト教ハンドブック』を三省堂より刊行。

◆平成6年(1994)………………………71歳
1月、『深い河』により毎日芸術賞を受賞。
2月、『心の航海図』を文芸春秋より刊行。
9月、『狐狸庵閑談』を読売新聞社より刊行。
11月、『遠藤周作とShuusaku Endo』を春秋社より刊行。12月、『「深い河」をさぐる』(対談)を文芸春秋より刊行。

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◆平成7年(1995)………………………72歳
4月、三田文学会理事長を退任。5月、『女』を講談社より刊行。
9月、脳内出血で順天堂大学病院に入院。11月、文化勲章を受賞。12月、退院。

◆平成8年(1996………………………73歳
4月、腎臓病治療のため慶應義塾大学病院に入院。6月、『戦国夜話』を小学館より刊行。7月、『風の十字路』を小学館より刊行。『遠藤周作歴史小説集』全7巻が完結。
9月29日午後6時36分、肺炎による呼吸不全のため、入院先にて死去。
10月、『なつかしき人々』(1)を小学館より刊行。11月、『生きる勇気が湧いてくる本』を騎虎書房、『なつかしき人々』(2)を小学館より刊行。
平成9年5月、『無鹿』を文芸春秋より刊行。
            広石廉二・編

4. 戦いと和解と 中村真一郎[参考文献(1) さよなら一 @]
 遠藤周作との60年にわたる精神的交渉を今、ふり返ると、それは親しい友人というにとどまらず、お互いの人生観、宗教観の根本での戦い合いと、彼の最期の時期における和解の歴史であった、と改めて想い、彼の生涯を賭けたカトリック信仰の日本化と、私自身の日本から出発しての信仰の世界化、普遍性への追求の、両極端からの歩み寄りの奇蹟的実現を深い感慨をもって想起する。それはふたつの隣り合った人格の並立というより、何度にもわたる相手の内面への接近と、また遠去かりの軌跡だった。
 最初の出会いは、日米開戦直前の頃、彼の20歳前後に、信州追分村の堀辰雄邸においてであつた。彼は私の顔を見るや、自分が「商人(あきんど)」の生れであると唐突に宣言し、何と大げさなもみ手をして見せて頭を下げた。当時の昂然とした誇り高い文学青年とは全く違ったタイプだった。それが彼が生涯の凡ゆる時期に世間に繰り返して見せた変身の走りだったのである。彼はカトリック者として、謹厳な態度を、突然に一変して自分を道化とすることで、周囲の末信者の人間のキリスト教へのこだわりを、一気に打破してみせる本能的な芸の所有者だったのである。
 堀さんという人は、人遺いの実に巧妙な人で、遠藤君の前は野村英夫がそのメッセンジャー・ボーイ役をになっていたが、結核の発病によって引退した。同時にカトリックへの回心によって、堀さんの影響から自分の道を探りはじめた。
 その後を継いだ遠藤君は、堀さんの前でも道化を演じて「変な奴」といつも言われながら、リヨンに留学することで、本来、普遍を意味するカトリックの思想が、著しく西欧的に片寄っていることを、人種差別と同時に実感するに至った。極度に開かれた国際都市であるパリであったら、遠藤君のような「白い肌」と「黄色い肌」との対立の問題は発生しなかったろう。

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 しかし、遠藤君のヨーロッパ体験は、彼にふたつの根本的な問題を突きつけた。
 ひとつは、堀さんを「多神教」として限定し、自分を一神教と規定することで、堀さんの影響下から独立したことであり、もうひとつはカトリック教を西欧的片寄りから、より普遍的な場に導くという使命であった。
 遠藤君は孤独な病床の野村君を家族も及ばぬ看病と、その後始末まで単身で行った。それが同宗者に対する、彼の本心を卒直に示していて、私の「変な奴」という遠藤観を修正してくれた。
 そして、遠藤君の魂の底にある信仰には、吉満義彦先生の新トマス派の上からによる精緻な思索の裏に、アナトール・フランスの「聖母の軽業帥」風の「狐狸庵先生」という道化による下からの無心の祈りがあることに納得が行った。
 私はかつて私の文化学院時代の生徒だった岡田順子さんと遠藤君が知り合って、理想的な家庭を竪固に築き上げるのを見て驚嘆した。戦前の文士は、文壇という城に立てこもった逃亡奴隷たちで、いつ何時、家庭を崩壊させるかという、その危機のうえに文学を作りあげていた。戦後の太宰治の行状は、その最後の後継者だった。
 それに対して遠藤君と順子さんとの、地面に根の生えた家庭は、従来の日本の作家には例がなく、千ケ滝の別荘に初めて招かれた私は、遠藤君の妻子や飼犬に至るまでの応対に、旧約的な「家父長」の面影を見た。
 遠藤君は私の「家父長」という羨望的感嘆を批判ととったらしく、そのエッセーで、何度も弁解している。
 この私の、干ケ滝の遠藤別荘への訪問は、やがて毎夏の定期的集りに発展して行った。遠藤夫妻は、矢代静一夫妻、北杜夫夫妻、私たち夫妻を常連として招き、他に臨時の客も交えて、一夜の歓をつくすのが、私には他の友人との交遊とは全く別の喜びだった。
 遠藤君は、真先に浮れて、得意の「お猿のかごや」を唱い踊り、北君は負けずに広沢虎造の声帯模写を行い、舞台が星野の矢代邸に移ると、女装した矢代君が二階から「すみれの花咲く頃」を歌いながら、しずしずと降りてくるといった、ドンチヤン騒ぎだった。
 そうした間を縫って、遠藤君は私にカトリックへの入信をすすめた。その巧妙さは音に聞くイエズス会士の悪辣さに似ていた。
 私も遠藤君に先立って、大学時代に吉満先生にキリスト教の問題について、継続的に個人的な教えを求めていたが、先生は私信のなかでは「光あるうちに、光のなかを歩め」と文末に記してくるが、直接に入信はすすめられなかった。そして、ジャック・マリタン家における夫妻の「白い結婚」の実情や、聖トマスの『神学大全』読み返しの進捗具合や、ギリシア古典時代への親近を雄弁に語られるのだったが、先生は私の10歳代の終り頃の、プラトンの信善美の理想への信従と、特に『パイドロス』への愛を熟知されて、プラトン主義とヘブライスムとの統合による、トマス神学の成立について、プラトンから聖トマスへの道を教えてくれたのだった。
 初めからキリスト者だった遠藤君は、吉満さんに戦時中、接近すると、先生を中心に上智大学の研究室に集まったカトリック研究会に参加していて、先生と私とのことを仄聞したらしく、熱心に執拗に私に入信をすすめた。
 私は大正時代に駐日大使として東京にいた、詩人ポール・クローデルが、熱烈なカトリック者でありながら、ギリシア人と日本人とを、原罪を知らない無邪気な幼児性の文明を築きあげたふたつの民族として認めているのに啓示を受けて、自分のギリシア主義を、おのれに合った考え方として是認していた。(後年、幼時に私が知り合った周作人も、また同じ意見の所有者であることを知った。)

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 私は遠藤君に対して、自分がカトリックを研究しつづけ、特にマリタンの『形而上学序説』は何度、挑戦しても遂にそこに欠点が発見できないので、聖トマスの思想が全世界の構造を解釈できるものだとは説得されながら、入信できない理由として、第一に、その一夫一婦制の強制は、今日ではブルジョワ的偽善の根元であって、人間性の本性に反する不自然なものであり、第二に、自殺を禁ずるのは、人間の尊厳の証拠である、死を自分の意志のもとにおくことを抛棄するもので納得できないと強調し、戦国武将、織田信長が乱世を生きのびるために、多くの妻妾により多くの後継者を生ませる欲求があったし、家臣群を引き従えるには、常に切腹の心構えが必要だという反駁によって、キリシタン修道士の入信のすすめを辞退した例をあげた。特に自殺の問題には、ローマ人のストア的考えへの共感があったし、モンテルランの自裁の例が近くにあった。
 すると遠藤君は、狡滑とも見える微笑を口許に浮べながら、信じられないような提案をした。それは、まず私が信者になって、教団のなかで、私のふたつの信念を同信者の間に持ち出して、賛同を得るようにしたら、というのだった。遠藤君はひと度、私が信者になったら、私の堅苦しい性格によって、教義の下に忠実に従うに至るに違いないと、考えているらしいと私は見抜いた。私は遠藤君の過度の優しさには感謝しながら、聖トマスを深く崇敬するから、それを無視するような軽率な入信はできないと答えた。
 そこで遠藤君の私への説得は中絶されてしまったが、私は彼のそのカトリックの教義を異常にまで拡大してみせる態度に、単に私を説得するための方便ではなく、真剣にそう考える傾向があり、それが彼の日本人的な優しさの本質に根差しているが故に、正統的な信仰に対する離反であると、教会の保守的な立場からは異端視されはしないかと、ひそかに惧れた。
 それは彼が小説『沈黙』を発表するに及んで、現実のものとなった。あの主人公の神父が、幕府のキリシタン禁制によって、信者たちのこうむっている苛酷な拷問から救うために、踏絵を踏んで棄教するのを是認する作者の考え方は、日本人的仏教的な深い慈悲の心として、キリストの神としても許し得るのではないかと、私は作者の主張に共感を覚えたのだが、果してローマ内部の反撥は強く、『沈黙』は禁書のリストに加えられる危機を迎え、スウェーデンのノーベル委員会内にも、授賞反対の声が上った。その時、強い支持を与えた英国の作家グレアム・グリーン自身が、正統派からは既に危険扱いされていたのだった。
 ところで私自身は、戦争直前から堀辰雄と共に、ジュリアン・グリーンの『日記』の中に魂の平和を求めていたが、グリーンは熱烈な美への信仰によって、迫り来る戦争への不安からの脱出を図ると共に、近代インドの聖者ラマクリシュナへの崇敬にすがって、日々を生きていた。
 世界の凡ゆる既成宗教の融合を目指すラマクリシュナは、その対話の文体において、私に屡々ギリシア人を連想させ、それが私をこの聖者のもとに赴くのを自然に感じさせた。
 実は20歳の頃、私が『パイドロス』に心の救いを求めたのは、私はギリシア語が不自由だったので、ルネッサンス、フィレンツェのメディチ家のアカデミアの中心人物だったフィチーノによるラテン訳を、忠実にフランス語によって復元した、マリオ・ムーニエの甘美極まる詩的な翻訳によってプラトンに接したのだった。その事を夏の軽井沢での集いの席上、私が告白すると、思いがけないことに北君から、フィチーノは「少年愛(クナーベン・リーベ)」から肉の要素を取り除いて、真の官能の喜びを奪った怪しからん人物であるとの抗議を受けた。
 しかし私は、フィチーノ=ムーニエを通してプラトンに参入し、その文体の類似によって、プラトンを捨てることなく、自然とラマクリシュナへの信仰へ移って行ったのだった。
 ところが戦争が終ってみると、J・グリーンも、またこの聖者の伝記を『インド三部作』中に書きあげたロマン・ロランも、マリタンの説得によってカトリックに回心していた。

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 遠藤君はそれを見て、私にもう一度、カトリックの神のもとにひざまずくことをすすめ直した。しかし長い伝統を持つカトリック国に生れ育った彼らが回心するのは自然の成り行きであるが、汎神論的無神論の日本の風土に育った私には、やはり仏教的な慈悲に通じる聖者の下にある方がふさわしいし、心が安まると答えた。
 ただ、私のラマクリシュナへの帰依は、神学的な厳密なものではなく、その点では聖者の弟子のヴィヴェカーナンダより、マリタンの方が遥かに説得的であった。私のこの直観的な信仰について、やがてパリのある少数のサロンで、隣席に坐ったガンジーのフランスでの身許引受人の女性から自分もラマクリシュナの信者であると告白され、私が「しかし、お弟子のヴィヴェカーナンダの神学は……」と打ちあけると、相手が微笑と共に「キリストは信じるけれど、パウロは、という人もいますから」と、私の態度を是認してくれたのは嬉しかった。
 ところが、一方で遠藤君は、その遺言となった『深い河』において、保守的な教会から別れて、ガンジス河で死体運びをする神父を、真の宗教者として描き出した。この遠藤君の思想は、私には半ばキリスト教の境界を踏み越して、仏教的な慈悲の方に、『沈黙』よりも、更に強く一歩を踏み出しているように思え、思いがけなくも彼が私のラマクリシュナのすぐそばまで歩み寄って来たことで、私は生涯の終りに遠藤君と同じ精神的風土に立つことになったのを喜ぶことができた。
 しかし、現在の教皇の各宗教との和解の方針は私自身も仄聞していて、現に私の娘もイスラエルのカトリックの尼僧院の中で、ギリシア正教的な「イコン」の作製に従事しているが、彼の最後の小説に対するローマの反応には、深い危惧の念をもって注目しながら、彼の「昇天」に私なりの祈りを捧げている。

5. 参考文献
 (1) 「遠藤周作の世界」 中村真一郎ほか 朝日新聞社 1997.9.29初版発行

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[Last updated 12/31/2006]