白い人

  目 次

1. まえおき
2. 粗 筋
3. 解 説
4. 第33回芥川賞選評
5. この本を読んで


遠藤周作著
新潮社

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1.まえおき
 遠藤周作氏の三番目の作品として「白い人」を採り上げました。この本は氏の初期の作品であり(昭和30年5月に発表、6月に完結)、芥川賞を受賞(昭和30年7月に第33回芥川賞受賞)しています。続編のような形で「黄色い人」が発表され、単行本としては二作品が一冊の本になっています。そこでこのページでも、解説などは両方の作品を取り上げています。

2. 粗 筋[「遠藤周作 深い河ほか」の5. 参考文献(1) 「代表作ガイド−上総英郎」]
 昭和30年、「近代文学」5・6月号に発表。上半期芥川賞(33回)を受賞して、文字通りの出世作となる。前作(アデンまで)と同じく一人称で書かれている。放蕩者のフランス人を父とし、その夫の放蕩の結果、清教徒(ピュアリタン)になったドイツ人を母として主人公は育った。彼の人生は、彼によれば「母への反抗」からはじまっている。
 物語は1944年の7月、聯合軍がヴァランスに迫り、主人公の住むリヨンが、やがてナチスの手から失われるだろうと予測される時期、主人公〈私〉の手記による回想形式ではじまる。幼時斜視のため、父からさげすまれて育った彼は、母の禁欲主義的な教育をうけて成人するが、12歳のころ、女中のイボンヌが病める犬をいためつけている姿を見、そのイボンヌの白い腿に情慾をおぼえる。母の純潔主義教育はこのとき崩れてしまう。虐待の快楽を彼は知るのである。
 中学を終えるころ、彼は父に伴われてアデンに赴く。商用で出かけた父はホテルに息子を置き去りにし、「いかなる行為もなしうる状態」にあって、彼は往来で裸体のアラビア娘が一人の少年をいためつける姿を見る。二人は曲芸帥なのである。翌日、彼は物乞いをしている少年を虐待し、快楽を知ってホテルに帰る。
 父が大学入学の年に死に、彼は嗜虐の喜びの中に自分を解放したいと願っている。校内のプールで泳ぐため、女子学生たちが下着を脱ぎすてていて、彼は思わずそれを手にとり、ジャック・モンジュという神学生に咎められ「豚」と罵られる。この屈辱に彼はいつか復讐しようとする。彼は自分が醜いために、女たちから愛されないものと決めこんでいる。そしてジャックの信じている神を憎み、それとは逆の立場に自分を置こうとする。ジャックとつきあっているマリ・テレーズを彼は憎むが、信者であるジャックの憎しみをわざと求めているように見える。翌年、母が死に、彼は全く自由の身となり、やがてナチス・ドイツがリヨンを占領するに到ると、拷問のよろこびを味わうために抗独運動(レジスタンス)をひそかに行なっているマリを捕縛するドイツ側に身を置く。
 彼は意識的に悪を志し、拷問者たちに接近する。抗独運動家たちの連絡係をやっていたジャックが逮捕されると、彼はジャックへの拷問を行ない、もっと彼を苦しめるためにマリ・テレーズをジャックの前で責めるという思いつきを実行する。
 悪は果たして存在するのか。主人公はそう信じこんで意志的に悪を実行するが、ジャックの意外な自殺によって、呆気なく事件は終わる。神が存在するならば、悪もまた存在しうる。しかし両端の一方、神を信じる側が、その掟に背く自殺をしてしまったら〈悪〉の側に立つ主人公の存在する意味はなくなってしまう。ジャックの死を知ったマリ・テレーズは発狂する。
 リヨンの炎上の予想によって、この劇的な物語は終わっている。
「右をみろと言うのに、右だよ」

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3. 解 説        山 本 健 吉
                                  一
 ここに収められた二編は、遠藤氏のごく初期の作品であり、ここで書こうとした主題は、その後もっと発展した形で、『海と毒薬』その他において作者が試みているものです。それで、今日において、まだかなり未熟な点も認められるこれらの作品を、それ自体として批評し、解説することは、私も一寸(ちょっと)戸まどいを感じないではいられないのです。ですから私は、その後の氏の作家的発展をも考慮に入れながら、この二編について語ろうと思うのです。
 十数年前、遠藤氏が私の家にはじめて訪ねて来て、いきなり私に吹きかけた議論が、日本人における神の問題なのでした。そのころ「三田文学」に、『死者の書』(釈迢空[しやくちょうくう])を論じた私のエッセイが掲載され、遠藤氏はそれをだしにして、日本人が抱いている汎神論(はんしんろん)的な世界観について、またそのような考え方の現実的行為の場に際しての無力について、まくし立てたのでした。
 それから二、三年前、氏の『海と毒薬』に対する私の批評がきっかけになって、読売新聞紙上で、日本人の信仰について、氏と応酬したことがあります。つまり、氏と私とのあいだには、十数年にわたって温めている論争の主題があるということです。そして、『白い人』『黄色い人』について私が何か書くとなると、どうしてもその主題を避けて通るわけには行かないのです。
                                  二
 私は遠藤氏ほど、小説の主題について欲張った作家を、外にあまり知りません。おおざっぱに言って、彼の書こうとしている主題は、四つはど考えることができ、それはここに収められた初期の二編の作品にも、それぞれ展開されているのです。
 そのうち、カトリック作家である氏にとって、当然もっとも大事な問題は、神の問題であります。キリスト教の伝統を持たない、日本という汎神論的風土において、神はどのような意味を持つかということです。あるいはまた、神を持たない日本人の精神的な悲惨、ないし醜悪を描くこと、と言ってもよいでしょう。それは『黄色い人』において、またいっそう突きつめた形では『海と毒薬』において、もっとも明瞭にたどられている主題です。
 第二に、人間の罪の意識、欲情の深淵をのぞくことによって、人間実存の根源に、神を求める意志の必然性を見出すことです。サディズムが小説の主題としての意味を見出す場所であり、『白い人』や『アデンまで』にはこの主題が強く押出されています。
 第三には、有色人種と白色人種との差別観への抗議であり、それは『コウリッジ館』にはっきり現れていますが、ここに収められた二編にも、ある程度その主題が顔をのぞかせていると言えましょう。
 第四には、非人問的なもの、たとえばナチズムに対する抵抗であり、それは第三の主題とともに、氏の主題のヒューマニズム的な面を示しています。『白い人』や『学生』は、その系列に属しますし、『海と毒薬』には、それがいっそうはっきり現れています。
 第二の主題、第三の主題は、モーリヤックと同じように、彼においても、鼻をつまみながら描かざるをえないような、醜悪の権化としての主人公を創造させます。第三の主題は、彼の多くの小説が、舞台をヨーロッパに取りながらも、問題の中心は、黄色人である彼自身の現存在にねざすものであることを物語っています。そしてそれらの主題は、最後に、普遍的なカトリック的主題において、大きく包括されるというわけです。

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 氏は、『白い人』が芥川賞に入選することによって、はじめて作家として印象づけられたのですが、私をこめて世間一般の期待は、彼の批評家としての活動にあったのです。その前には、故服部達(はっとりたつ)や村松剛氏などと一緒に、「メタフィジック批評」ということを唱えて、文壇的話題を投じたことがありますが、氏等三人の中で、メタフィジックという言葉の意味がはっきり限定されていたのは、実はカトリシアンである氏だけだったと言ってもいいでしょう。氏の批評的労作としては、『カトリック作家の問題』があり、また『基督(キリスト)教と文学』があります。前者においては、文学のなかにカトリック的主題を導入したモーリヤックその他の小説の意味が解明され、後者にあっては、モーリヤック的傾向の批判の上に立って、中世の生活協同体の内部における工匠たちの仕事を受けつぎながら、美とモラルとの追求者として立っているクローデルの傾向が是認されています。そして今のところ、彼の小説は前者の線の上に展開され、批評は後者への方向を目指しているという矛盾のなかに在るということがいえましょう。この矛盾を今後どのように止揚して行くかが、文学者としての氏の今後の大きな課題でもあるわけです。
                                  三
 払は『白い人』にしても、『黄色い人』にしても、氏の主題があまりに図式的な形で、概念的に示されすぎていることを、欠陥と思っています。だがこれは、ある程度は、氏が日本に生れてカトリック的主題を取扱おうと意志したことの、避けがたい結果だったとも言えるかも知れません。
 『白い人』の主人公は、リヨン大学に学んだ学生でありながら、占領下のドイツ軍に協力し、秘密警察(ゲシュタボ)の手先となって、抗独運動家を裁き、拷問します。彼における良心の麻痺(まひ)、悪への陶酔、抜きがたい人間不信の感情が、一体どこから生れたかを、彼は主人公の生立ちと環境との中に設定します。
 この青年の父親を、「18世紀の卑俗な放蕩児(リベルタン)の肖像画」を想起させるような男と、作者は言っています。だがこの青年の無神論は、かえって清教徒である母親への反抗から始まったというのです。12歳のとき、老犬を縛って激しく撲っている女中のイボンヌの白い太い腿(もも)を見たことが、虐待の快楽を伴って彼の肉慾を目覚めさせ、母親が彼に強いた純潔主義(ピュリタニズム)の厚い城壁が、その日崩壊してしまいます。アデンに旅行したとき、白熱する太陽の下で、アデンの少年に対する加虐の快楽に酔いしれたことが、それをいっそう決定的にします。彼は幼年時代から、たぶん母親に強いられて、ジャンセニスムの書物を読んで育ったのですが、如何(いか)なる徳行も意志も人間を純化せず、人間は悪の深淵に陥って行くというその考え方が、彼の人間観の根底となります。
 氏は、キリスト教の教義の問題を、ここではあまりに生のままでちらつかせているようです。ジャンセニスムの教義など、日本の読者に親しいものではありません。われわれはパスカルの『プロヴァンシアル』によって、17世紀にジュズイットとジャンセニストとが大論争を展開したことを知っています。神の恩寵(おんちょう)が絶対性を主張するジャンセニストと、信仰に人間の自由意思が介在することを必然とするジュズイットとの論争は、ジャンセニスムの思想が教皇庁から異端の烙印(らくいん)を押されることで、けりがついたのだそうです。私には、その詳しいことは分りませんが、正統思想を奉ずる氏は、ジャンセニスムの中に、日本人の仏教的な汎神論に近いものを認めているようです。すなわち、弥陀(みだ)の誓願不可思議の絶対性を主張し、人間は悪にまみれた姿のままでその手に救われるという浄土教思想とのあいだに、類縁を認めているのです。人間の自由意志を認めず、弥陀の称号を唱えること以外に、何等の倫理的行為へも人を導かないところの日本的思想と、それが同類だという意味で、ジャンセニスムは氏にとって日本的信仰の問題であり、氏の切実な問題だったのです。十数年前から、氏が、日本的汎神論の問題として、私を追求して止(や)まないのも、この一点に尽きます。

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                                  四
 だがこの間題は、『黄色い人』になると、いっそうはっきり、小説の主題にまで押上げられています。「汝(なんじ)は冷やかにも熱くも非ずして温(ゆる)きがゆえに、我は汝を口より吐き出(いだ)さんとす」という『黙示録』の句を引用しているのも、そこに神を知らない日本人の精神的風土を認めたからです。この小説の主人公千葉は、幼少のころからカトリックの洗礼を受けながら、日本人であるがゆえに自分には罪の感覚がないことを自覚し、自分にあるのは「ふかい疲れ」だけだと言っています。彼は出征する友人の許嫁(いいなずけ)を犯し、友が特攻機にのる前に一日だけ許婚に逢いに帰ってくる日にも、彼女を犯します。そのときは、さすがにはじめて、胸にかすかな痛みを感じましたが、それとて良心の呵責(かしゃく)とか、罪の恐怖とかいった激しいものではなく、一本の針の先で胸を刺されたようなかすかな痛みだったと言っています。ブロウ神父が憲兵に連行される危険を、彼は前以て予知しながら、それを神父に知らせるという行為に、ついに踏切ることができないのです。自分は動きたくない、面倒な事件に捲込まれるのは嫌だ、という気分が、彼を支配しているのです。これが彼の言う、神のない日本人の悲惨であり、醜悪であり、行為への決断を生まない微温的な精神風土なのです。
 一方、女を犯して神父の位置を追われた、背教者デュランがあります。神の呵責に苦しんだ彼は、神を知らない日本人の生き方の「倖(しあわ)せ」を知り、死にも罪にも無感動になることを願い、ユダのように、ブロウ神父を官憲に売り渡します。白い人である彼は、白い手をよごすことによって、黄色い人たちの魂の秘密を知ることができたと思います。彼にこれまで理解できなかった、無感動な光が漂っている日本人の眼、細長い曖昧(あいまい)な眼の意味するものを、解くことができたと思っています。だが、日本人でない彼は、神を拒みながら、神の存在を否むことができませんでした。最後に作者は、悪魔に憑(つ)かれたデュランを死なせていますが、同じく異端的行為者だと言っても、千葉は彼のように積極的な悪の権化には徹することができません。むしろ、善悪の対立葛藤(かっとう)のない世界の住人であり、それゆえにそこには倫理的行為を意志する基盤がないのだと、作者は言いたいのです。
 この日本的主題は、『海と毒藁』で深められていることは、前述の通りですが、『海と毒薬』において私の不満とするところは、そこに描かれた醜悪が、必ずしも神の不在を原因とするものではなくても構わない、ということなのです。神があるかないかを問う前に、むしろ漱石が『それから』の中で、現代の日本紳士はたがいに相手の犯した罪悪を黙知しながら談笑していると言った、「20世紀の堕落」ともいうべき問題であることです。このことは、行為へ踏出さない千葉の日本人的特質においても、同様でしょう。その意味では、作者は小説の中で、神の存在を証明するためには、いっそう氏の抱懐する主題を掘下げなければならない、と言えるのです。   (昭和35年3月)
(出典 新潮文庫 「白い人・黄色い人」 昭和58年11月30日 38刷 冒頭の表紙も)

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4. 第33回芥川賞選評
昭和30年上半期
授賞作 「白い人」          遠藤周作
候補作 「黄ばんだ風景」「ねんぶつ異聞」
                     小沼 丹
「或る眼醒め」             川上宗薫
「未知の人」              澤野久雄
「阿久正の話」             長谷川四郎
「銀杏物語」              岡田徳次郎
「息子と恋人」             坂上 弘
「馬のにほひ」            加藤勝代

 石 川 達 三
「白い人」を第一候補、「息子と恋人」を第二候補という心づもりで、私は委員会に出て行った。種々の論議はあったが、結局この二つが今回の焦点になって居たのではないかと思う。
「息子と恋人」については沢山の意見が闘わされた。疑問の多い作品であるが、同時に独自なものがあり、新しいものもある。それだけに一致した推薦が得られなかったのも致し方ないことだと思う。私は興味をもって、この作者の次の作品を見たいと思っている。つまり今日は疑問に感じられたものが、立派に成長するか馬脚を現わすか、そういう心配と期待とがあるのだ。
 澤野久雄君も巧い作家だが、佐藤さんが一種のひよわさを感じて居られたのは、私も同感である。何かを怕がったり遠慮したりしているらしい。それを突きぬけた独自のものが出てくればいいのだろうと思う。
 遠藤周作君は全く未知の人だが私はこの作品を信用してもいいと思う。戦後のフランス文学などに類型がありはしないかという疑問も提出されたが、古臭い類型ならともかく、新しい類型ならば外国にその例があっても無くとも、委員会はあまり気にしなくともいいと私は思った。提出された作品だけについて論議されればいい、直木賞候補だという説もあったが、私はそうは思わない。「黄色い人」という続編が書かれるらしいが、或はそれによってこの人の真価が批判されるのではないだろうか。
 私はむしろこの作者が、今回の当選によって固くなったり、窮屈に文学を考えたりしないことを望みたい。自信をもって、存分に作者の才能を活躍させる方が、この人を育てることになるだろうと思っている。つまり、小さく完成しない方がいいのだ。
 なお、当選発表と同時に某新聞が、芥川賞では食えないとか、当選の価値が下落したとか、嫌味な記事をのせていたが、言わでもの事を書きならべてどれ丈けの意味があるだろうか。実力ある人は授賞されなくても伸びて行くだろう。そんな事は当りまえだ。しかし若い作家に栄誉を贈り勇気づけ、世に推賞することもまた極めて有意義であるに違いない。この新聞は、芥川賞作家35人のうち、活躍しているのは三分の一ぐらいだと言っているが、三分の一が堂々と活躍しているならば、文学賞制度としては立派な成果ではあるまいか。他に、そんな文学賞は一つも無いのだ。私は新聞社のこういう記事を、下劣だと思う。
(出典 芥川賞全集 第5巻 文芸春秋社 昭和57年6月25日 第1刷 昭和58年3月1日 第3刷)

5. この本を読んで
 作者がフランス留学から帰国して、第1作がこの小説で、見事芥川賞を受賞したことは彼にとって大きな自信になったと思います。作者の日記によれば、渡仏の時に乗ったフランス船の四等乗客としての経験が、それまでの迷い(評論家または学者になるか)を断ち切り、作家となることを決意させたようです。13歳での受洗に疑問を持ち、日本人に合ったカトリックの教えを、一生かけて探求した作者の最初の作品(昭和29年11月に初めての短編小説「アデンまで」を発表している)です。

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[Last updated 11/30/2006]