本の紹介 漢文の素養
 誰が日本文化をつくったのか?

  目 次

1. 本との出会い      
2. はじめに
3. 本の目次
4. おわりに
5. あとがき
6. 著者紹介
7. 読後感


加藤徹著

光文社新書
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1. 本との出会い
 私の所属しているV Age Clubの「新書を読む会」で、2006年4月にこの本が採り上げられました。この本は、原題のように読むことも可能ですが、私としては漢字が日本語に採り入れられた後の流れとして読むことも可能ではないかと思いました。この数年間、白川さんの漢字の本(例えば「漢字百話」)に始まり、漢字導入の経緯を記した二冊の本「古代日本の文字世界」「古代日本 文字の来た道」に続き、漢字が日本語の文字として採り入れられ、どのような影響を日本文化に及ぼしたかの総まとめになると思いました。

2. はじめに
 漢文の素養
 かつて漢文は、東洋のエスペラントであった。
 漢文で筆談すれば、日本人も、中国人も、朝鮮人も、ベトナム人も、意思疎通をすることができた。また漢文は、語彙や文法が安定しているため、千年単位の歳月の変動にも、あまり影響されない。
 日本や中国の生徒は、学校の授業で、『詩経(しきょう)』の三千年前の漢詩や、『論語(ろんご)』の二千五百年前の孔子(こうし)の言葉を読まされる。これは東洋人にとってはあたりまえのことだ。しかし世界的に見ると、そもそも「古文」がない国のほうが多いのである。
 例えば、イギリスやアメリカの学校の授業に「古文」はない。アルファベットでしか書けぬ西洋語は、文字が発音の変化を忠実に反映しすぎて、綴(つづ)りが百年単位で変動してしまうため、千年もたつと「外国語」になってしまうのだ。英語の最古の叙事詩()『ベーオウルフ』は、八世紀の作品であるが、一般の英米人はこれを音読することさえできない。
 時代や国境を越えた普遍語としての漢字と漢文にあこがれた西洋の知識人は、イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(1561〜1626)をはじめとして、意外に多い。
 かつて、われわれ東洋人の先祖は、「漢文の素養」つまり人類の集積知に自由にアクセスする能力をもっていた。日本文明の歴史も、この教養大系の存在をぬきに語ることはできない。

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 高位言語だった漢文
 昔の植民地では、しばしば三層構造の言語文化が見られた。上流知識階級は高位言語としての純正英語(ないしフランス語)を使い、中流実務階級は現地化した英語を使用し、下層階級は民族の固有語を喋(しやベ)った。
 日本国内でも、外資に買収された企業などでは、外国人の社長と重役は純正英語を、中間管理職はカタカナ英語を、平社員は日本語を、と、一種の三層構造が見られることがある。
 そもそも近代以前は、どの文明国も、三層構造の言語文化をもっていた。
 上流知識階級は高位言語たる純正文語を、中流実務階級は口語風にくずした変体文語を使った。下層階級は、文字の読み書きができぬ者が多かった。
 高位言語は、伝統と権威のある古典語であり、叡智(えいち)の宝庫であった。その文法や語表現は洗練され、規範化され、国際語としても使われた。東アジアでは漢文が、西欧ではラテン語が、インドでは梵(ぼん)語が、中東では古典アラビア語が、チベットからモンゴルにかけては古典チベット語が、それぞれ高位言語の地位を占めていた。
 封建時代の日本でも、言語文化は三層構造だった。
 上流知識階級である公家(くげ)や寺家(じけ)、学者(がくしや)は、純正漢文の読み書きができた。中流実務階級たる武家(ぶけ)や百姓町人の上層は、日本語風にくずした変体漢文を交えた文体「候文(そうろうぶん)」を常用した。下層階級、たとえば長屋に住んでる「熊(くま)さん」「八(は)っつぁん」は、無筆(むひつ)(文字の読み書きができないこと)が多かった。
 江戸時代までは、純正漢文の読み書きができねば、漢学者や国学者にはもちろんのこと、蘭学者(らんがくしや)にもなれなかった。イギリスの科学者ニュートンが『プリンキピア』(1685)を英語ではなくラテン語で書いたように、日本の杉田玄白(すぎたげんぱく)らも『解体新書(かいたいしんしよ)』(1774)を純正漢文で書いた。例えば、
 亜那都米、訳解体也。打係縷、譜也。故今題曰解体新書(返り点などは省略)
 訓読すれば「亜那都米(アナトミイ)は解体と訳すなり。打係縷(ターヘル)は譜(ふ)なり。故(ゆえ)に今題(いまだい)して解体新書と曰(い)う」となる(『解体新書』の原書は、オランダ語で書かれた『ターヘル・アナトミア』[解剖図譜]であった)。
 学術書は純正漢文で書かれたが、公文書や書簡文は、変体漢文を交えて書かれた。例えば、1854年、ペリー提督が幕府と結んだ「日米和親条約」も候文だった。

 第十一条 両国政府に於て、無拠儀有之候時は模様により合衆国官吏のもの下田(しもだ)に差置候儀(さしおきそうろう)も可有之。尤(もつとも)約定調印より十八ヶ月後に無之候では不及其儀候事。

「無拠儀有之候時」は「よんどころなきぎこれあるそうろうとき」、「可有之」は「これあるべし」、「無之候」は「これなくそうろう」、「不及其儀候事」は「そのぎにおよばずそうろうこと」と読む。これらは日本語風にくずした変体漢文である。
 近代以前においては、漢文の素養の深さと、社会階級は、かなり連動していた。
 こうした事情は、漢文の本家本元の中国でも同様だった。
 純正漢文の読み書きができたのは、上流知識階級たる「土大夫(したいふ)階級」 であり、中流実務階級たる商人や下役人は、「時文(じぶん)」という口語風に崩した中国版変体漢文を日常的に使った。農民や婦女子は、おおむね文字の読み書きができなかった。
 例えば同じ三国志でも、上流知識階級は、純正漢文で書かれた正史『三国志』(三世紀の成立)を読めた。中流実務階級は、口語ふうの変体漢文で書かれた小説『三国演義』(十四世紀)を読んだ。農民や婦女子の大半は、漢字が読めなかったので、芝居や講談などの三国志ものを、耳で楽しんだ。
 このような言語と教養の三層構造は、中国では二十世紀初頭まで続いた。

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 国民国家と国語
 言語文化の三層構造が解消されるのは、近代に入って「国民国家」が誕生してからである。国民国家とは、国民・国語・国軍の三点セットからなる近代国家を言う。
 西欧諸国はフランス革命以降、日本は明治維新以降、中国は辛亥革命以降に、それぞれ、身分・階級を越えた「国語」を人工的に作り、それを権威あるものとして従来の高位言語に代えるようになった。
 東アジアで、日本がいちはやく近代化に成功した主因は、実は、中流実務階級が、江戸時代に漢文の素養を身につけたことにある。これについては、本文中で述べることになるだろう。
 ふりかえれば、二十世紀は、戦争と革命の世紀だった。社会変革の激動のなかで、上流知識階級が没落し、中流実務階級と庶民階級が次代の主導権を争う、という図式は、東アジアの漢字文化圏でも広く見られた。
 日本、中国、朝鮮半島、ベトナムでも、それぞれ時期は相前後するものの、純正漢文を使う上流知識階級は、二十世紀半ばまでに解体した。それとともに、漢文も、東アジアの高位言語の地位からすべり落ちた。
 漢字も、中流実務階級が人民革命によって力を失った国では全廃された。逆に、かつての中流実務階級が姿を変えていまも残っている国では、漢字も健在である。
漢字を全廃した地域         ……北朝鮮・ベトナム
漢字の全廃を予定していた地域 ……中国
漢字を極端に制限した地域    ……韓国
漢字を簡略化して使っている地域……日本
漢字を無制限に使っている地域 ……台湾・香港

 例えば中国は、人民革命の熱狂が強かった1970年年代までは、漢字全廃を国是とした。しかし1978年以降、「改革開放」という名のもとに中流実務階級がひそかに国家の実権を奪回すると、漢字全廃論も、いつのまにか立ち消えとなった。
 各国の漢字のありようは、それぞれの国の「革命度」のバロメーターにもなっている。

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 日本文明を見すえる
 地球儀を手にとって東アジアをながめるたびに、よくぞこれだけユニークな国々が地球の一画に密集しているものだ、と、つくづく思う。世界人口の四分の一を占める漢字文化圏の国々は、どれも長い歴史をもち、それぞれ個性的である。
なかでも日本の漢字文化は、次の点でユニークである。
 ・漢字を「外国の文字」とは見なさない。
  →中国でさえ、非漢民族は、漢字を異民族の文字と見なしている。
 ・漢字に、音読みと訓読みがある。
  →日本以外の国では、漢字は「音読み」だけで、訓読みはない。
 ・一つの漢字の音読みが、複数ある。
  →日本以外の国では、漢字は一字一音が原則である。
 ・漢字をもとに、いちはやく民族固有の文字を創造した。
  →仮名文字の発明は、ベトナムのチュノムや朝鮮半島のハングルより早かった。
 ・中国に漢語を逆輸出して「恩返し」をした、唯一の外国である。
  →幕末・明治に日本人が作った「新漢語」は、現代の中国でも普及している。
 漢字文化圏のなかで、いまも漢字を大々的に使っているのは、中国圏と日本だけである。
 朝鮮語やベトナム語は、いまも漢語に由来する語彙を大量に使っているが、ハングルやラテン文字で書き、漢字はほとんど使わない。朝鮮半島やベトナムの人々が漢字を中国の文字として認識していることが、漢字離れの一要因となっている。
 なぜ日本人は、漢字や漢語を、外国のものと認識しないのか。
 なぜ日本人は、中国に漢語を逆輸出するほど漢字文化を消化できたのか。
 漢文という過去の知的遺産は、二十一世紀の日中関係・日韓関係を構築するうえで、何かヒントを与えてくれるのだろうか。
 そうした疑問の答えは、日本人の 「漢文の素養」 の歴史をふりかえる過程のなかで、おのずと見つかることであろう。

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3. 本の目次
はじめに 11
     漢文の素養 11
     高位言語だった漢文 12
     国民国家と国語 15
     日本文明を見すえる 17

第一章 卑弥呼は漢字が書けたのか−−−−−−−−−−−−−−−21
     幸か不幸か 22
     ヤマト民族の世界観 25
     三千年以上前の対中開係 28
     古代文明と文字 30
     日本最古の漢字 32
     漢字はファッションだった 35
     卑弥呼は漢字が書けたか 38
     倭も卑字 41
     言霊思想が漢字を阻んだ 42
     仁徳天皇陵の謎 46

第二章 日本漢文の誕生−−−−−−−−−−−−−−−−51
     七支刀の時代 52
     王仁と『千字文』 55
     日本漢文の誕生 58
     倭の五王の漢文 63
     日本漢文の政治性 66
     仏教伝来 68
     漢字文化の夜明け 70
     日出ずる処の天子 72
     天皇号の発明 76
     聖徳太子はどのように漢文を読んだか 78
     日本語表記への苦心 82
     訓点の登場 83
     漢文訓読の功罪 86

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第三章 日本文明ができるまで
     藤原鎌足と漢文塾 90
     元号制定 92
     「日本」の誕生 94
     習字の木簡 96
     日本最初の漢詩 97
     藤原京の失敗 101
     「日本」承認への努力 103
     「日本」の承認 105
     地名の二字化 107
     日本文明の自覚 110
     『古事記』と『日本書紀』 113
     『日本書紀』の特長 115
     古代朝鮮語と『日本書紀』 116
     漢詩集『懐風藻』と漢風諡号 118

第四章 漢文の黄金時代−−−−−−−−−−−−−−−121
     千の袈裟 122
     「宣教師」ではなかった鑑真 124
     三人の留学生 126
     命がけだった遣唐使 129
     呉音と漢音 133
     漢字音の複数化は奈良時代から 137
     孫子の兵法 140
     遣唐使の終わり 142
     平安時代の漢文の試験 145
     宋の皇帝が羨んだ天皇制 149
     清少納言と紫式部 151
     源義家と孫子の兵法 155

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第五章 中世の漢詩文−−−−−−−−−−−−−−−−−159
     中世の漢詩文と僧侶階級 160
     日蓮の漢文 163
     フビライの国書 165
     後醍醐天皇と児島高徳 169
     洪武帝と日本人 170
     絶海と洪武帝 172
     室町時代の漢詩 176
     戦国武将と漢詩 178

第六章 江戸の漢文ブームと近現代−−−−−−−−−−−−−−−−185
     徳川家康が利用した「漢文の力」 186
     江戸時代の漢文ブーム 189
     思想戦としての元禄赤穂事件 191
     四十七士を詠んだ漢詩 194
     朝鮮漢文と日本 197
     漢籍出版における日本の優位性 199
     武士と漢詩文 202
     農民も漢文を学んだ 206
     日本漢語と中国 208
     幕末・明治の知識人 211
     日本語の標準となった漢文訓読調 213
     漢文が衰退した大正時代 218
     漢文レベルのさらなる低下と敗戦 220
     漢文訓読調の終焉 222
     昭和・平成の漢文的教養 224

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 おわりに 227
     いまこそ漢文的素養を見直そう 227
     漢字漢文はコメのようなもの 228
     インターネット時代の理想の漢文教科書 229
     生産財としての教養 232
     中流実務階級と漢文の衰退 233
     数冊の本 234

 あとがき 237

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4. おわりに
 いまこそ漢文的素養を見直そう
 本書をここまで辛抱強くお読みくださったかたは、きっと、教養としての漢文に、なみなみならぬ関心をおもちであるに違いない。
 読者の宥恕(ゆうじょ)を乞いつつ、最後に、21世紀の漢文的教養のあるべき形について、筆者の見解を述べて、本書の結びとしたい。
 過去、2千年におよぶ日本人と漢文とのかかわりの歴史をふりかえると、今日のわれわれが漢文とどう向き合うべきかも、おのずとあきらかになる。筆者は、
  1. 東洋人のための教養
  2. 生産財としての教養
  3. 中流実務階級の教養
の三つの視点を提唱したい。

 漢字漢文はコメのようなもの
「漢文は、しょせんは外国語である」
「漢字は、しょせんは中国人の作った外来の文字である」
などと主張して、漢字や漢文を排斥(はいせき)する日本人が、たまにいる。
 この考えは、間違っているうえに、危険でもある。そんなことを言うのは、
「コメは、しょせんは中国大陸から伝わってきた作物だから、コメの飯を食べるのはやめよう」
と言うのに等しい。コメも味噌も醤油も大根も茶も、「日本食」の食材や料理の多くは、中国が起源である。
 そもそも外国の文物を排斥する思想は、どう言い訳しようと、外国出身の人間を差別する思想と紙一重である。事実、漢字文化圏のなかで、漢字を廃止ないし極端に制限したベトナムや韓国は、さまざまな社会的圧力をかけて、国内の華僑(かきよう)華人(かじん)を国外に追い出した時期がある。漢字と中国人を迫害したことによって、ベトナムや韓国が何か大きな得をしたかというと、どうも、そのようには見えない。
 たしかに「漢文は外国語である」という反省を心のどこかでもっていることは必要だ。と同時に、漢字は東洋人の共有財産であり、漢文は東洋人の集積知である、という大らかな認識をもつことも、必要であろう。
 日本人にとって、漢字や漢文はコメのようなものだ。それが美味しくて、栄養になるなら、食べればよい。
 料理法も、中国人とは関係なく工夫すればよい。実際、私たちの祖先は、そういう健全な考えをもって、漢字やコメを受け入れた。漢文も、漢文訓読という日本独特の料理法で栄養をとれるなら、それでよい。

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 インターネット時代の理想の漢文教科書
 幕末に上海に渡った高杉晋作は、中国語は一言も話せなかったが、筆談で漢文を書き、中国の知識人と意見を交換することができた。中国革命の立役者・孫文も、宮崎滔天(みやざきとうてん)ら日本の友人たちと漢文で筆談した。
 今日では、インターネットの発達により、電子メールやウエブサイトなどで、漢字文化圏の人々どうしが自国にいながら「筆談」を楽しめる条件が整った。
 今日、漢詩を作ったり漢文を書いたりするのが、日本や中国、韓国で、静かなブームとなつている。例えば、日本の「世界漢詩同好会」というサイトでは、日本、台湾、韓国の有志が発起人となり、国境を越えた新作漢詩の交流を行っている。
 インターネットは、「東洋人としての教養」としての漢文にとっては、追い風となっているのである。
 19世紀までの日本人は、中国漢文と日本漢文のみならず、朝鮮漢文やベトナム漢文、琉球漢文なども、よく読んでいた。しかも、古典作品ばかりでなく、「新作」もたくさん読んでいた。
 現代の日本の漢文教科書がつまらない理由は、古典ばかり、しかも日本と中国のものばかり、と、題材がせまく限定されているからである。
 21世紀の今日、もし、どこかの奇特な出版社が、筆者に「理想の漢文教科書」を作らせてくれるとしたら、次のような点を打ち出すことにしたい。
 ・文芸作品だけでなく、実用的な漢文・理系的な内容の漢文も、教材として紹介する。
 ・朝鮮半島、ベトナム、琉球(沖縄)など漢字文化圏の各地の漢詩文の代表作を、少なくとも、一つずつくらいは入れる。
 ・現代人の漢詩文の作品も、少なくとも一つか二つは入れる。有名人の作でなくともよい。
 ・漢文の読解だけでなく、簡単な「漢作文」のしかたも教える。
 ・漢詩・漢文の新作を発信しているホームページなども紹介する。
 ・日本の漢文訓読だけでなく、中国や朝鮮半島、ベトナムでの漢文の読みかたも簡単に紹介する。

 いまの日本の教育システムでは、英語はコミュニケーションの道具として教えられるが、漢文はそうではない。そのため、若者にとって、漢文はつまらない科目である。
 しかし本当のところは、漢文は、千年前の古人や、千年後の子孫と「対話」するためのコミュニケーションの道具になりうる。また、ホームページや電子メールの普及により、新しいかたちでの筆談文化が復活したことで、漢文の「東洋のエスペラント」としての側面にも、新たな可能性が出てきている。
 こういう時代のニーズにあった、新しい漢文の教科書なり副読本なりが出版されることを期待する。

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 生産財としての教養
 二千年前、「威信材」として日本に入ってきた漢文は、7世紀から19世紀までは生産財として機能し、20世紀からは「消費財としての教養」になった。
 漢文が「生産財としての教養」だった江戸時代でも、プロの漢学者は、全人口のごく一部を占めるにすぎなかった。しかし優秀でセンスもよかった当時の漢学者は、硬い内容の本から柔らかい俗書にいたるまで、一般人でも読めるように訓点をふった。そのおかげで、江戸の俳諧(はいかい)師や噺家(はなしか)は漢文からネタを仕入れ、医者も漢方の医書を読め、政治家もアヘン戦争など国外の事情を詳しく知ることができた。
 今日でも漢文は「古くて新しい知恵」の宝庫である。自分の論理的思考力を鍛えたり、論弁力を磨くうえで格好の材料も、漢文の古典には豊富である。
 残念なことに、今日の日本の漢文関係の書籍は、名作の紹介や鑑賞を主とするものに偏っている。また漢文を教えるのは、国語の教師の仕事になってしまっている。このため、漢文の授業の教材は文系的なものに限られている。
 しかし「本物の漢文」は、文系ばかりではない。自然科学についての知見も豊富な沈括(しんかつ)の『夢渓筆談(むけいひつだん)』のように、理系的な興味関心をそそる漢籍も、たくさんある。
 そもそも昔の漢字文化圏では、医者も天文学者も数学者も、みな漢文で論著を書いた。中学や高校の教科書でも、理系の知識欲を刺激するような漢文を、一つくらいは入れるべきである。さもなくば、若者は、漢文を人生訓と叙情詩だけの、単調なものだと誤解してしまうだろう。
 自己宣伝めいて恐縮であるが、拙著『漢文力』(中央公論新社)は、思考力を高めるのに役立つ漢詩漢文を集め、その漢文をヒントにどのような知恵を絞り出すか、例題を示した本である。ご興味のあるかたにはご一読を願いたい。

 中流実務階級と漢文の衰退
 世界史には、優秀な中流実務階級をもつ文明は強い、という経験則がある。
 西洋語には、日本の中流実務階級にぴったり該当する概念はないが、しいて近いものを求めれば、シビリアン(civilian)である(日本語では「市民」ないし「文民」と訳す)。
 シビリアンの形容詞形は、シビル(civil)である。シビルでない人々がシビル化することを、シビライゼーション(civilisation)すなわち「文明」と呼ぶ。
 西洋近代の文明(シビライゼーション)の本質は、全国民のシビル化(シビライゼーション)であった。中流実務階級中心の国づくりをすることであった。キリスト教徒的な行動倫理と、ギリシャ・ローマ的教養、シビリアンとしての誇り、という三点セットが、近代西洋の文明社会を支えていた。
 19世紀までの漢字文化圏で、強力な中流実務階級(シビリアン)が育っていたのは、日本だけだった。武士道的な行動倫理と、漢文的教養、そして「やまとだましい」、という三点セットが、幕末から明治にかけての日本を、近代国家におしあげた。
 しかし、種々の事情により、20世紀半ば以降、欧米でも日本でも、このような三点セットは崩壊したまま、今日に至っている。

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 数冊の本
 過去の文明国は、どれも全国民必読の「数冊の本」をもっていた。
 およそ字が読める人間なら、必ず読んだことがある本。世代や社会階級を越えて、読みつがれる本。その本を引用したり、議論の叩き台とすることで、政治的立場がことなる相手とも活発な議論ができるような本。−−
 そのような「数冊の本」は、過去の西洋諸国では『旧約聖書』『新約聖書』がそうであった。
 幕末の日本では『論語』や『日本外史』などの漢籍がそうであった。杉田定一の回顧にもあるとおり、農民でさえ「数冊の本」を学びたがった。その時代の「教養」とは、「数冊の本が読めること」であった。読書は趣味ではなく、社会を作るという大事業に参加するための力であった。
 ふりかえると、いまのわれわれは、そのような「数冊の本」をもっていない。
 町の書店には新刊書があふれている。インターネットには新しいサイトが雨後のタケノコのように生まれている。しかしそのどれも「数冊の本」には、ほど遠い。
 われわれの価値観が、多様化しているためである。その自由と豊かさは喜ばしいが、集積知として誰もが共有していた教養大系が失われてしまい、身近な友人以外との対話ができにくくなってしまったことは、寂しい。
 21世紀の今日、いまさら漢文の「数冊の本」が復活することは、ないだろう。だが、つい百年ほど前まで、世界のどの文明国にも、世代や階級を越えて共有できる普遍的教養大系があった。
 それは、日本では漢文であった。そのような視点をもって、東洋人の集積知たる漢文を学ぶならば、われわれはきっと、21世紀の教養のありかたについて大いなるヒントを得ることができるだろう。
 漢文には、それだけの価値がある。

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5. あとがき
 むかし、中国に張学良(ちょうがくりょう 1901〜2001)という軍人がいた。彼の父張作霖(ちょうさくりん)は1928年に関東軍によって爆殺(ばくさつ)され、彼自身も1931年の満洲事変によって故郷を追われた。1936年、張学良は西安で蒋介石(しようかいせき)を監禁し、抗日救国を約束させたが、反逆罪に問われて逮捕され、その後、半世紀にわたって軟禁された。
 1990年、数え年で90歳になっていた張学良は、NHKのインタビューに対し、こう語った。
「私は、一生を日本によって台なしにされました。私は日本に父親を殺され、家庭を破壊され、財産も奪われたのです。このうえなく不合理なことです」(NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』)
インタビューのあとの食事の席で、張学良は、取材班に便箋(びんせん)とペンを求め、一篇の漢詩をすらすらと書いて見せた。明治の軍人乃木希典(のぎまれすけ)が日露戦争の激戦地を詠(よ)んだ七言絶句(しちごんぜつく)「爾霊山(にれいさん)」であった。

「乃木将軍の詩です。たしか二百三高地を落としたときに作った詩です。乃木将軍に憧(あこが)れて、いちばん好きな詩を覚えました。覚えたのは若いころでしたが、今でも諳(そら)んじているんですよ」 (同前)
 抗日は反日にあらず。インタビューのなかで、張学良はこうも述べている。
「昔、日本に行った時、日本の文化に触れて非常に感心しました。尊敬する日本人もいました。昔もそうでしたが、今も私は日本人を尊敬しています。(中略)日本が(世界の)リーダーになればよいと思います」 (同前)
 乃木や張学良のような人々は、もういない。
 20世紀の初めまで、日本人も韓国人も中国人も、漢文の素養をもっていた。同じ東洋人としての連帯感があった。戦争で敵どうしになったときでさえ、最後の一点では、お互いを尊敬しあい、信頼する心を忘れなかった。
 ひるがえつて、今日のわれわれは、どうであろう。過去60年問、日本兵によって殺された外国人は一人もいない。にもかかわらず、東アジア三国の民衆は、互いに不信と侮蔑(ぶべつ)をぶつけあっている。マンガやテレビドラマなどサブカルチュアの交流こそ盛んだが、かつての漢文のような、共有できる教養がないせいである。日本でも中国でも韓国でも、子供に英語を修得させれば自動的に「国際人」となって万事うまくいく、という思い込みが広がっている。
 これは時代の流れであり、しかたのないことかもしれない。
 ただ、かつてわれわれ東洋人が漢文という共有財産をもっていたこと、それが日本を作るうえでも大いに役だったことを思い出してみる価値は、いまもあるだろう。
 本書は、日本漢文についての概説書ではない。「漢文の素養」の歴史や意味について、筆者の考えを述べたものである。論述の主軸をあえてプロの漢学者や文人でない人々に置くという、漢文関係の本としては異色の著述スタンスをとった理由も、ここにある。また、諸説を一々紹介するとそれだけで紙数が尽きてしまうため、筆者の見解だけを述べたところも多い。
 本書をきっかけに漢文にご興味をお持ちくださったかたは、ぜひ、いろいろ類書もお読みいただきたい。
 筆者は2004年8月、『漢文力』という本を上梓(じょうし)した。これは、漢文の古典をヒントに現代の問題を考えるという教養書であった。幸い、それなりに好評を博し、2005年2月に韓国で、同年10月に中国で、それぞれの言語に翻訳されて出版された(光栄なことに、韓国語訳は「韓国刊行物倫理委員会」によって「第58次青少年勧奨(かんしょう)図書」に指定された)。韓国や中国でも、漢文への関心はけつこう高いようだ。
 本書は、『漢文力』を読んだ光文社新書編集長の古谷俊勝氏が、お声をおかけくださって生まれた。氏には企画から完成まで、たいへんお世話になった。原稿の進捗(しんちょく)状況を毎週メールで問い合わせて督促してくださった氏の熱意がなければ、こんなに早く本にならなかったろう。そのぶん校正ゲラは赤だらけとなり、校閲部と、編集部の山川江美さんの負担を増やすことになった。末筆ながら、心から感謝申し上げる。
 
 2006年1月 広島市の二葉山(ふたばやま)平和塔が見える六畳の部屋にて       加藤 徹

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4. 著者紹介 加藤徹(かとうとおる)
1963年東京都生まれ。東京大学文学部中国語中国文学科卒業、同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。1990〜91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学。広島大学総合科学部専任講師を経て、現在、同助教授。専攻、中国文学。『京劇』(中公叢書)で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞。他の著書に『漢文力』(中央公論新社)、『西太后』(中公新書)などがある。

5. 読後感
 著者は漢文の復権を願って、この本を書いたのだと思います。しかし「1. 本との出会い」でも述べたように、漢字がどのように日本に採り入れられてきたか、書き言葉としての日本語とはどういうものかということがよく判ります。戦前のように、漢文を読みこなすのは、大変なことだと思います。しかし、この本に書いてあることで、知らなかったことが沢山あります。以下いくつかの例を挙げてみたいと思います。
1. 色彩を表す言葉の不足(P.25)   4. 言霊思想(P.42)     7. ヲコト点(P.84)    10. 元号制定(P.92)
2. 時空把握用語の不足(P.27)    5. 和臭(P.81)        8. 角筆(P.85)      11. 藤原京の失敗(P.102)
3. 好字、卑字(P.39)           6. 誓記体(P.82)      9. 欧文訓点(P.86)   12. 地名の二字化

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[Last updated 4/30/2006]