古代日本の文字世界

  目 次

1. まえおき
2. まえがき
3. 目 次
4. 著者紹介
5. あとがき
6 . この本を読んで


平川 南編
株式会社大修館書店

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1.まえおき
 加藤秀俊さんの書いた中公新書「暮らしの世相史」のP.81に『それに漢字というものも元来は「字の音のみかりて、ここの詞の目じるしに用いし」ものにすぎなかったのである。その表音文字がいつしか表意文字になったことが漢語漢文のむずかしさをうんだ』という文章が出てきます。私の入っているV Age Clubの「新書を読む会」でこの本を採り上げたとき、異議を唱えたところ「これは万葉仮名を指すのだ」と仲間にいわれました。
 一度は納得しかけたのですが、今一つひっかかるものがあり、近くの区立図書館でこの本を見つけました。早速読んでみて、私の直観が合っていると思いました。そこでこの本をご紹介して、ご参考になればと思っています。

2. まえがき                     平川 南
 戦後の古代史・考古学・国語学・国文学に関わる最大の発見は何か、と問われたならば、私は即座に、1978年、埼玉県行田市稲荷山(いなりやま)古墳から出土した「辛亥年(しんがいねん)」銘鉄剣であると断言するであろう。鉄剣には鮮やかな金象嵌(きんぞうがん)の115文字が刻み込まれていた。
 発見当時、7世紀以前に日本で書かれた銘文としては、熊本県玉名市の江田船山(えたふなやま)古墳出土の鉄刀銘と、和歌山県橋本市の隅田八幡宮(すだはちまんぐう)「癸未年(きびねん 443年または503年)」銘人物画像鏡などが知られているだけだった。稲荷山古墳の鉄剣銘は冒頭に「辛亥年(471)」と刻まれ、「意富比こ[土偏に危](オホヒコ)」から「乎獲居(ヲワケ)」まで8代の系譜が続き、代々「杖刀人(じょうとうじんの)首」として大王に仕えてきたこと、「乎獲居」が「獲加多支由(上に※にうけばこ ワカタケル)大王」の統治を助けた記念としてこの剣を作ったという由来が記されていた。115文字という文字数もさることながら、この鉄剣銘は文体も整っており、その内容は当時の国内政治の一端が示されている。この鉄剣銘の発見によって"古代社会と文字のはじまり"の議論は学界内外で大いに沸騰したのである。
 その銘文が持つ歴史資料としての価値は、はかりしれないものがあった。さらに、まだ学問分野間の議論・協業があまり行われていなかった当時、古代史・考古学、そして国語学・国文学の研究者がこぞって議論に参加し、現在の学際的研究の出発となった点においても、この鉄剣の発見は画期的な出来事だったと評してよいであろう。
 稲荷山鉄剣発見から十年を経た1988年、千葉県市原市稲荷台1号墳から、「王賜」に始まる銀象嵌(ぎんぞうがん)7文字の銘文を持つ鉄剣が出土した。この銘文は古代国家形成期における王からの"下賜刀"の典型的文型と考えられる。五世紀半ばという鉄剣の年代から、この銘文は日本で書かれた最古のものとされた。
 しかし、その後久しく発見は途絶え、"古代社会と文字のはじまり"の問題は人々の話題から消えていた。ところが、二、三年前から突如として新聞紙上に相次いで「日本最古の文字か」という見出しが載りはじめた。報道は、二〜四世紀ごろの土器などに一文字または数文字が記されていたことによる。しかし、これらの一つないし二つの文字は、文章をなしていない点からいえば、やはり文字のはじまりの問題とは一線を画して考えるべきである。中国や朝鮮半島と緊密に交流していた列島各地で、鏡や銅銭などに記された文字が漢字として認識されていたのか、あるいは一種の記号・文様としてとらえられていたのか、それは明らかでないが、未知の文物として日本人に強い印象を与えたのは間違いないだろう。文字を持たなかった日本では、中国と外交関係を結んだ時点ではじめて漢字・漢文による外交文書が作成された。それが日本列島における文字のはじまりといえる。
 この点に関して、稲荷山古墳出土の「辛亥年」銘鉄剣が解読された時に故西嶋定生(にしじまさだお)氏は次のように指摘していた。「日本における漢字の受容は、ただ文字という高度の文化が、文字のない文化の低い地域に自然に伝わっていったのではなく、日本の方にそれなりの必要があって取り入れたのに違いない。その必要とは、政治的経済的利益のために中国王朝.との関係を継続しょうとする政治的行為であった」。
 千葉県稲荷台一号墳の「王賜」銘鉄剣の発見によって、私たちは、5世紀半ば、日本列島の中での政治のために、はじめて王権から地方豪族に下賜された鉄剣に銘文が記されたことを知り得た。続く5世紀後半、下賜される側の地方豪族が自ら王権とのつながりを明記したのが、稲荷山古墳出土「辛亥年」銘鉄剣や熊本県江田船山古墳出土の鉄刀に刻まれた銘文である。やがて、文字は次第に地方にひろがり、古代国家の文書による行政が七・八世紀の段階で確立する。−このように理解すれば、日本列島における文字のはじまりとひろがりを一つの流れとして説明できるのではないかと思う。

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                       *
 さて、"日本の古代の文字のはじまり"の問題を考えるとき、もう一つ論点がある。それは、中国や朝鮮半島の文字をもう一度考え直さなければ、日本の文字のはじまりの問題は解けてこないのではないか、ということだ。
 中国では文字は神様との対話からはじまった。次に各地の豪族が王に忠誠を誓い仕えた由来を、王から褒賞として受けた金属の地金や貨幣で作った青銅器に記した。さらに秦代には、書体を統一し、文字を統治の道具とした。
 一方、日本の文字はまず、中国王朝との外交上の必要からはじまり、次に国内政治において、王がその臣下に銘文を刻んだ刀を下賜した。次に、地方豪族が王に仕えた由来を刀剣や銘に記した。そして文書行政が定着した8世紀ごろから、神に対して土器に食物を盛り、供献するとともに、文字によって自らの願いを神に伝えたのである。このような古代における中国と日本の文字の流れの相違は、文字の生まれた中国とその文字を受容した日本との違いを端的に表わしているといえるであろう。
 ところで、"古代日本の文字世界"を考える上できわめて重要な資料として、近年出土した7世紀代の木簡などの文字資料が注目される。
 長野県更埴(こうしょく)市の屋代(やしろ)遺跡群では、665年の年紀を持つ木簡から郷里制下にあったといわれる720年代ぐらいまでの木簡が、約120点出土した。また、徳島市の観音寺(かんのんじ)遺跡からは、七世紀前半にまで遡る『論語』の一節を書いた木簡や、7世紀後半から8世紀にかかる時期の木簡が約70点出土した。また木簡以外でも、千葉県栄町五斗蒔瓦窯(ごとまきがよう)跡から地名を万葉仮名で表記した七世紀後半のヘラ書き瓦が約400点確認されている。時を同じくして発見された、都における飛鳥池遺跡の7世紀後半の大量の木簡とも連動して、現在7世紀の文字資料が大いに注目されている。
 これまでの木簡研究は、8世紀の平城宮出土木簡を中心に進められてきたが、その研究は正倉院文書という同時代資料の研究成果に支えられていた面が大きいといえる。大量の7世紀木簡の登場により、今後の古代の木簡研究は、8世紀木簡研究の成果を7世紀に無批判にあてはめるのではなく、七世紀木簡を総体的に把え、その特性を明確にしていかなければならなくなった。『日本書紀』『古事記』そして『万葉集』、さらに「推古朝遺文(すいこちょういぶん)」と呼ばれるわずかな金石文資料を中心として進められてきた国語学・国文学研究にとって、新出の膨大な出土文字資料は、きわめて貴重な資料群といえよう。
                    *
 こうした現況は、1978年の稲荷山鉄剣銘発見当時にも近似している。その意味で、しばらく停滞していた"日本古代社会における文字のあり方"というテーマを、古代史・考古学・国語学・国文学の研究者が一堂に会して現状分析をし、各テーマについて意見を交わすことは大きな意義があると考えられる。こうした現況をふまえ、今回シンポジウムを開く運びとなったのだが、参加者として、次の方々にお集まりいただいた。
 稲岡耕二(いなおかこうじ)氏は、『万葉集』研究をはじめ、古代文学全般にわたり独白の境地を切り拓いた研究者であり、今回もつとに知られた"稲岡節"で貴重な見解を披露していただきたい。
 犬飼隆(いぬかいたかし)氏は、国語学の立場から近年、つぎつぎに新見解を発表されており、今回、中国・朝鮮との比較論も展開していただけるものと思う。
 水野正好(みずのたかよし)氏は、近年の二〜四世紀の土器に書かれた文字資料について中心的役割を果たしておられ、各種の出土文字資料に関して考古学の立場から見解を述べていただきたい。
 和田萃(わだあつむ)氏は、稲荷山古墳の鉄剣銘文をはじめ、藤原宮木簡・観音寺木簡などにいたるまで、ほとんどの出土文字資料の解読作業に携わられ、8世紀以前の古代史全般の動向に精通しておられる。
 古代において記すべき文字というものを持たなかった日本人が、どのように大陸からの漢字と出合い、どのように自らのものとしていったのか? 近年、文字の記された鉄剣や土器・木簡などが続々と発掘され、古代史解明への興味は尽きない。文字を知り始めたわれわれの父祖たちの営々たる創意と工夫の跡をたどるシンポジウムである。このシンポジウムを機に、ますます議論が深まっていくことを期待したい。
 

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3. 目 次

まえがき 2                     平川 南
T−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本人と文字との出会い 7
1 日本に文字が来たころ −出土文字が語る古代− 8 水野正好
  平城京 「文字考古学」 ことはじめ …………………………………8
  漢字・漢文伝来の初源を求める ……………………………………12
   「日本で書かれた最古の文字」発見!/日本最古の墨描−墨・筆・硯−
   続く発見−二世紀前半の「刻書文字」−/港と文字
  「魏志倭人伝」の世界と文字 ……………………………………… 22
   弥生時代の成立と渡来人/卑弥呼の「外交」と文字
  倭国女王卑弥呼の鏡から ………………………………………… 24
   「銅鏡百枚」/鏡の伝世と頒布−古墳への副葬をめぐつて−
  朝鮮半島外交の中の文字 …………………………………………28
  古代朝鮮の外交記事/百済外交と舶載品
  日本列島で書かれる漢文 …………………………………………32
   倭の五王の外交文書/日本で刻まれた銘文−甦る古代の人々−/
   古代日本のあゆみと文字
  文字世界のいろいろ ……………………………………………… 40
   梵字の初源と三寅剣/則天文字の広まり
2 木簡から万葉集ヘ −日本語を書くために− 48           犬飼 隆
   はじめに ……………………………………………………………48
   漢字をどのように日本語へ適用したか ……………………………51
    音/訓/仮借
   七世紀の文字資料 ……………………………………………… 57
    歴史を語る木簡たち/古代人の文字生活@ 手習い/
    古代人の文字生活A 字書木簡
   朝鮮半島の文字文化の影響 …………………………………… 70
   日本語の文を書く工夫 ……………………………………………72
    「漢字」を「日本語」に/『古事記』の漢字使用の工夫/
    宣命書き/助詞・助動詞・活用語尾・副詞−和歌の表記−

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U−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シンポジウム
 古代日本の文字世界 87           平川 南・稲岡耕二・水野正好
                            犬飼 隆・和田 萃
   はじめに 89
1 文字のはじまり 92
  日本最古の文字資料 −弥生時代の文字たち− …………………92
   「山」は文字か? 文様か?/大地遺跡の文字/三雲遺跡の文字/
   書かれた文字の意味
  文字に触れるきっかけ ………………………………………………99
   大陸との交流と文字の使用
  鍵を握る朝鮮半島の文字文化 …………………………………… 102
   筆記具−茶戸里遺跡の筆−/朝鮮半島の文字−日本の表記との共通
   点−/朝鮮半島との接触の実態
2 古代の政治と文字 112
  五世紀の銘文…………………………………………………………112
   鉄剣に記された文字たち/剣、そして文字を与えること/
   考古学の文字探究
  銘文をめぐつて…………………………………………………………122
   書かれた文字の歴史的な意味/銘文の「読み」−書・訓・仮借−
3 古代日本語と文字 127
  漢字をどのように日本語へ適用したか……………………………… 127
   中国語から日本語へ/敬語表現/書き言葉の質的な変化
  最古の手紙、森ノ内木簡 ……………………………………………132
   森ノ内木簡の文体/人麻呂の書いていた言葉
  古代人の苦労を語る字書木簡……………………………………… 136
   字書木簡の出現/飛鳥池遺跡の字書木簡をめぐつて
  古韓音の影響 ……………………………………………………… 145
   木簡に見る古韓音の実例
  さまざまな文体の成立−記・紀・万葉・宣命−……………………… 147
   新しい表記様式/史料としての『万葉集』/「人麻呂歌集」の表記法/
   文学の変化と表記の変化/表記の変化と歴史背景/大書体と小書体

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4 文書行政と口頭伝達 163
  古代史と木簡 …………………………………………………… 163
   木簡と紙/文書行政とそのにない手/【コラム】木簡のいろいろ
  文書行政と口頭伝達 …………………………………………… 175
   木簡はどのように使われたか/書かれた文字が持つ力
  口承文学と文字文学……………………………………………… 179
   詠う和歌から読む和歌へ/題詞の発達/表記の変化と時間意識
  土器に墨書することの意味……………………………………… 192
   八世紀以降の「墨書土器文化」/神に伝えるための文字
5 古代日本における文字の習熟度 196
  古代社会における文字文化の広まり…………………………… 196
   「書くこと」「読むこと」の広まり
  文字の習熟度……………………………………………………… 199
   漢字を日本語に−文字の「質的」な習熟−/誤字・脱字に見る習熟度
6 漢字文化圏の中の日本 204
  おわりに 212
  あとがき 215

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4 著者紹介
平川 南(ひらかわ みなみ)
昭和18(1943)年甲府市生まれ。山梨大学学芸部社会科学科卒。現在,国立歴史民俗博物館教授・総合研究大学院大学教授・文学博士(東京大学)。日本古代史専攻。木簡学会・史学会・歴史学研究会会員。主な著書に『漆紙文書の研究』『よみがえる古代文書』『多賀城碑』(共編)など。

稲岡耕二(いなおか こうじ)
昭和4(1929)年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科(旧制)満期退学。現在、放送大学客員教授・東京大学名誉教授・文学博士。上代文学専攻。万葉学会・上代文学会・木簡学会会員。主な著書に『万葉表記論』『万葉集の作品と方法』『人麻呂の表現世界』など。

犬飼 隆(いぬかい たかし)
昭和23(1948)年名古屋市生まれ。東京教育大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程修了。現在,愛知県立大学教授・博士(言語学)。国語学専攻。国語学会・万葉学会・訓点語学会・木簡学会会員。主な著書に『上代文字言語の研究』など。

水野正好(みずの まさよし)
昭和9(1934)年大阪市生まれ。大阪学芸大学卒。前奈良大学学長。考古学・古代史・文化史専攻。日本考古学協会・日本文化財科学会会員。主な著書に『土偶<日本の原始美術5>』『島国の原像<日本文明史2>』『河内飛鳥』(共著)など。

和田 萃(わだ あつむ)
昭和19(1944)年中国東北部(旧満州)遼陽生まれ。京都大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程修了。現在、京都教育大学教育学部教授・文学博士(京都大学)。奈良県立橿原考古学研究所研究指導員。日本古代史専攻。史学研究会・日本史研究会・木簡学会会員。主な著書に『日本古代の儀礼と祭祀・信仰』(上・中・下巻)『大系 日本の歴史2 古墳の時代』、編著に『古代を考える 山辺の道』など。

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5. あとがき
 シンポジウムから、一年半の月日が過ぎた。全国の発掘現場からは、その後も続々と新しい成果が報告されている。文字にまつわる議論はまだまだ進展の途上にあり、今後に残された疑問・課題も多い。シンポジウム当日、ご参加いただいた聴衆の方々からいくつも質問事項を寄せられたが、いずれも我々と全く共通した疑問であり、日本の文字文化に対する深い関心が、幅広い人々の間に浸透していることを改めて感じた。
 2〜4世紀の文字に関わる資料は、今後さらに時期を遡るものの発見も期待できるであろうし、それらの資料から日本列島における初期の文字文化の実態が明確になるだろう。中でも弥生時代の人々が、一文字一文字をその意味を理解した上で表記したのかどうかを知ることがでさるかもしれない。一方、5世紀代の音・訓や文体などの問題を、国語学・国文学的に解明するためには、さらに多くの資料の発見が不可欠であるといえよう。
 今後、考古学・古代史・国語学・国文学が、文字の問題を通じて議論しあい、列島各地から出土する文字資料と従来の文献史料を合わせて研究を進めるならば、おそらく"古代日本の文字世界"について、次のような重要な課題を解決することが可能になるであろう。
一、 漢字が日本字化してゆく過程。
一、 古韓字のみでなく、用字・文体・字形などに関しての朝鮮半島諸国の影響。
一、 口頭世界に関しては、従来の宣命詔のみではなく、古代社会のさまざまな場における 口頭伝達などの実態。
一、古代社会の行政や祭祀などにおいて、文字が果たした役割。
 シンポジウム当日は、古代日本の文字文化に関する問題について、限られた時間であったために十分に議論し掘り下げることはできなかった。しかし、古代史・考古学・国語学・国文学など、それぞれの面から、古代日本における文字世界の全体像を浮き彫りにすることはできたのではないだろうか。本書が今後の課題を解するための一助、きっかけになれば幸いである。
 なお、本書作成にあたって、シンポジウム当日に果たせなかった議論を大幅に補い、当日の発言に各氏それぞれ加筆した。また、大修館書店の北村尚子氏にはひとかたならぬご尽力をいただいた。心からお礼を申し上げたい。
   平成12年3月                       平川 南

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7. この本を読んで
 日本に漢字が入ってきて、日本語(書き言葉)化されていった道筋を私なりに解釈すると、次のようになるかと思います。Pに、この本の対応するページを示します。
1) 漢字はわが国に、まず一文字づつ入ってきた(土器の大・田、刻書文字)。 → P.12 P.16 P.90 P.92
2) 文字に触れるきっかけ。港の管理には早くから漢字が使われていた。貨幣の使用もその一つである。 → P.18 P.99
3) 朝鮮との交流によって漢字がもたらされた。 → P.28 P.107
4) 朝鮮半島からの渡来人・帰化人が多く、最初は彼らが漢字を使った。 → P.22 P.101
5) 外交・政治の文章には漢字が必須であった。 → P.24 P.109
6) 剣・鏡・木簡(字書、手習い)などに漢字が使用された。 → P.26 P.63 P.132
7) 音・訓・仮借(インドから中国に仏教が入ったときの呪文[陀羅尼(だらに)])の三種類の使い方をした。 → P.51 P.124
8) 紀元前3世紀〜7世紀の千年くらいかけて徐々に導入された。古事記、日本書紀、万葉集は導入の最後の方である。 → P.57 P.147
9) 日本語化するときの工夫として、音・訓・仮借、仮名(平仮名、カタカナ)、助詞・助動詞、宣命書きなどがある。 → P.72 P.78 P.127
 音と訓を使ったために同義語が増えて混乱を招いた面もあります。しかし明治維新以後、それまでになかった新しい文明が入ってきた時も、「経済」「外交」など新しい言葉を作り、中国に逆輸出されることもしばしばです。書き言葉としての日本語に漢字を導入し、さらにカタカナ、平仮名を発明した先人の努力に感謝すべきだと思っています。

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[Last updated 10/31/2005]