本門寺の坂コース
  目 次

1. はじめに
2. 概 要
3. 坂と観光スポット 

此経難持坂
坂の下から見上げた写真

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1. はじめに
 今回は、私の地元のコースとして本門寺の坂を選びました。本門寺は高台にあるため多くの坂があります。このコースは六つの坂と本門寺境内の三つ建造物を巡ります。いつものウオーキングとしてのコースのほか、本門寺への往復路としても使っていただけると思っています。本門寺については別の項目でも採り上げています。そこで使った地図もあります。

2. 概 要
 東急池上線はJR五反田駅とJR蒲田の間を走っています。JR蒲田から二つ目の池上駅で降りて駅前(JR蒲田から着いた時は線路の右側)に出ます。バスに乗っても良いのですが、1駅なので、池上通りの信号を渡り、東京三菱UFJ銀行の大森寄り(向かって右側)の通り(本門寺参道)を歩いて行くと10分足らずで本門寺に着きます。6っの坂のうち、4つが石段で、普通の道は2つです。
 距離は約3.3キロメートルで、歩きづめで1時間程度ですが、お参りをしたり、眺めたりの時間もあるので、3時間位は必要です。

コース概要図

3. 坂と観光スポット
  
 No.  スポットの写真  名 称  説  明
 1 此経難持坂
(しきょうなんじさか)
 池上一丁目池上本門寺の表参道96段の石段坂で、此経難持経という経文が96文字あるのが坂名にとられています。『大日本名所図会』は池上本門寺を「長栄山と号し大国院と称す。日蓮宗本化一宗正統の霊場にして、甲斐の身延山、上総の正中山と併せて三頭と称す。後宇多天皇弘安三年の草創にして、宗祖日蓮上人終焉の古跡とす。即ち上人は開基たりといへども、文保元年丁巳六、老僧第二位日朗上人の修造にして大寺となしたるものに係る。其地は鎌倉番匠の頭梁池上右衛門大夫宗仲の宅地なりしが、帰依のあまり之を提供したるものなり」と記しています。
 最初に訪れるときは道を間違えないよう、判りやすい経路を通りたいと思います。池上駅から池上通りを大森に向かって歩くと、本門寺前のバス停の少し先に、本門寺参道の信号機のある交差点があります。ここを左折し、呑川にかかる霊山橋を渡ると五重塔も見え、正面に緑色の屋根のある総門が望めます。間もなく総門に着きます。駅からここまで約720m、10分位です。石段が古いため、踏み面のところどころに継ぎがあたっています。
 階段を登ると仁王門をくぐり、正面にあるのが次の大堂です。約250m、5分位です。
 2 池上本門寺大堂  山号を長栄山と称する日蓮宗の大本山です。
 日蓮上人は弘安5年(1282年)病のため身延山から常陸に向かう途中、池上宋仲邸に立寄りましたが、病が重くなりここで入寂しました。宋仲邸は現在の大坊本行寺(本門寺の西側にある)とされています。
 境内には慶長13年(1608年)建立の五重塔(重要文化財)や宝塔・経蔵・総門など多くの文化財が残されています。
 また有名人の墓所があります。
 日蓮の命日を供養するお会式(おえしき)は、江戸時代から続く行事で、10月11日から3日間開かれ、特に12日夜の万燈行列は多くの人々でにぎわいます。
 本門寺の本堂は、後で出てくる紅葉坂の奧にあり、この建物は大堂といいます。階段を上がると、大きな賽銭箱があります。ここでは毎朝早くお経があげられます。
 御会式には遠近各地から群集する善男善女でにぎわい、参道の両側に池上名物の土産品を売る声がやかましく、日暮れともなれば「うちわ太鼓」のひびきの昂揚とともに、万灯(まんどう)の行列が人波を押しわけかきわけてゆくありさまは、信徒の法悦境であり、昔ながらの風物詩です。
 次の車坂は大堂の左奧にあります。坂は手前に戻るように下って行きます。大堂の左側には何軒かの休憩所があり、トイレは大堂の裏です。坂上は休憩所の裏で、坂下までは約720m、5分位です。
3 車坂(くるまざか)
 池上本門寺の表参道西側の本町稲荷神社のわきまで下る長い坂で、同寺への車道です。坂上の西側には大坊坂への下り囗があります。経堂わきの空き地では、本門寺名物の植木市が催されて昔から親しまれてきました。
 今年(2014年)の大雪では、この坂をおおっている大木の枝が折れ、取り除くのに2日もかかりました。
 本町稲荷神社を右折し、道沿いに歩くと南之院を示す立て看板があり、そこを右折します。南之院を過ぎると石垣があり、道に沿って曲がると本行寺(大坊)の入り口が見えます。入り口右側にある瓦葺きの小さな建物が妙法堂で、その前に次の大坊坂の石段があります。車坂の坂下からここまで約540m、6分位です。
 4 大坊坂(だいぼうさか)  池上本門寺山内西隅の石段坂で、登ると経堂裏の西に出ます。坂下の谷間は宗祖日蓮入寂の霊場で、北側に上人を荼毘(だび)に付した多宝塔が建っており、都の有形文化財に指定されています。大坊は、本行寺と号する子院の一つで、もとはこの地の豪族池上宗仲の屋敷でしたが、日蓮を崇信した宗仲は、祖師入寂のあと、その屋敷を寄進し、日朗上人の弟子日澄を開山僧として大坊がおこされました。本尊の祖帥木像は、生前、鏡に影をうつして自ら刻んだので「鏡御影」とよばれています。大坊右手には祖師が使った「硯の井」、左手には祖師入寂の茅葺き(今はトタン葺き)の方丈があり、前庭には御会式桜とよぶ桜の樹があります。
 都営地下鉄浅草線の終点西馬込駅には、ここから15分足らずで行くことができます。
 階段を登り、そのまま真っ直ぐ進むと、大堂の裏、本院寺務所の先に紅葉坂の木柱があり、そこまで約110m、4分位です。
 5 紅葉坂(もみじざか)  写真のように渡り廊下をくぐって進みます。両側にはモミジの樹が多く、紅葉坂下にはさらに南から墓地を通って北に下る坂道があります。坂上(右折)は国宝五重塔がそびえ、幸田露伴の墓もあります。坂下のほうは本門寺公園とよぶ自然の起伏と緑の木かげの多いところです。
 明洽維新の際には、西郷隆盛を参謀とする西軍の本陣がこの地におかれたそうです。そして幕府側の代表者の勝海舟が再度西郷を訪れて、江戸を戦火から救うために江戸城明け渡しについて会談を行なったといいます。当時の会談の場所は祖師堂裏手の松濤園のあずま屋だったと伝えられています。
 五重塔までは約270m、5分位です。
6 五重塔  本門寺五重塔は、慶長12年(1607)二代将軍徳川秀忠の乳母の正心院日幸尼の発願により、大堂の前のあたりに創建され、その後、慶長19年(1614)の地震により修復され、元禄15年(1701)に現在地に移築されました。関東で最古の五重塔です。
 明治44年(1911)4月17日付で国の特別保護建造物に指定され、のち、法律の改正により重要文化財に改称され、現在に至っています。五重塔はこれまでに数回の部分修理が行われましたが、2006年には破損が著しいため、創建以来初めて全解体修理が行われました。
 次の万両塚に行くには、そのままクランク状に進むと、池上会館の屋上が見えます。そこを左折して進むと妙見堂の裏、永寿院の先にあります。約190m、5分位です。
7 万両塚
(芳心院墓所)
 芳心院〔宝永5年(1708)没〕は、紀州徳川頼宣の娘(養珠院お万の方の孫)で、鳥取藩主池田相模守光伸の正室です。
 この墓所は約600平方メートルの墓域を有し、周囲に二重の堀溝が構築されています。当時その建設費が1万両に及んだといわれ、俗に「万両塚」と呼ばれています。
 宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七つの功徳全てを得ることができる)のために生前に建てたお墓であったことが記されています。
 2003年秋から万両塚の調査、改修工事が行われ、宝塔内部からは、法華経巻子本8巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を3百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。
 また、弥生時代の住居跡と古墳時代の住居跡も発見されており、この地が昔から住みやすい場所であったことがわかります。ホームページがあるので、ご覧ください。
 次の妙見坂を下るには妙見堂の正面に出ると、急な下り坂があり、坂下まで約130m、5分位です。
8 妙見坂
(みょうけんざか)
 池上本門寺山内妙見堂の前の石段坂です。虎退治で名高い勇将加藤清正は日蓮宗の篤信者でしたが、妙見堂(照栄院と号す)には清正の息女瑤林院(紀伊大納言頼宣の夫人)が手刻して本門寺に納めた妙見菩薩像を祀ってあります。この堂宇は元禄2年に鎌倉比企宝篋塔を移したもので、『大日本名所図会』には「妙見堂 妙見坂の上にあり、妙見大菩薩を安置す。寛文4年甲辰7月紀伊頼宣卿の造立せし所なり。即ち照栄院の鎮守とす」とあります。照栄院は南谷の旧檀林で日朗上人幽棲の跡でしたが、その死後はしばらく承継者がなく荒廃し、60年を経て第7世山首日寿上人のときに再興されたといいます。
 次の朗師坂は、右手の大遠林を廻ると池上会館があり、その正面左側にあります。約130m、3分位です。
9 朗師坂(ろうしざか)  池上本門寺山内朗師会館東側を曲折して宗務院わきに下る石段坂で、坂名の朗師とは日朗上人のことです。『大日本名所図会』には「朗師坂 総門内石階の次の坂にて、照栄院の方に通ずる路に在り。伝へいふ、日朗上人寺窪に幽棲の後、日々この坂を経て参道せし故名づくと。享保以後まで日朗師の手栽せし朗師松と称せしもの存せしといへり」とあります。
 いまはむかし寺窪に区立「池上会館」などができたため、朗師坂も変形して、宗務院わきから表参道に合するようになっています。日朗上人は日蓮門下6老僧の1人で、早くから祖師に侍して、竜ノ囗の法難のさいは右腕を折られ土牢に投じられたといいます。柤師入寂のあとは身延山正法院の守塔をつとめていましたが、のち本門寺のかたわらの南谷に幽棲して、元応2年、76歳で入寂しました。コースはこれが終わりで、あとは総門を経由して池上駅に出ます。約800m、11分位です。

参考図書 「江戸東京坂道事典」 石川悌二著 新人物往来社

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[Last Updated 3/31/2014]