一服いかが



ハタチのころ、つい斜に構えてしまう自分を責めたことがある。しかし、それは江戸伝来の感じ方のひとつに過ぎないと思うようになったら、ずいぶんと気楽になれた。川柳も、落語も、全力で茶化してる。

古田博司は学のある人だから、それを「ティーゼイション」と言い換える。『新しい神の国』の第5章「神々の復権」で、ティーゼイションの歴史をかいつまんで説明してくれる。

まずは、近代の道学先生をくさす。
丸山真男のティーゼイション嫌いは困ったもので、これがないために庶民文化が育たず、ガチガチの頑固頭の儒教インテリばかりを大量生産し、近代化がうまく行かなくなった中国や朝鮮の方をほめてしまうことにもなる。(p114)
とか
近代は生真面目な時代であり、ほんとうに真面目に生きていないと怒られる時代であった。人生の意味はあらかじめあるものだと信じられていたし、進歩することは良いことだと教えられ、人々は疑わなかった。真面目に考え真面目に生きるのが良心的であり、その良心の背景を探ることさえしなかった。(p129)
それゆえに、江戸の町家の戯作者たちがになった茶化しの伝統は、近代になると途絶えてしまう。永井荷風でさえ、戯作をひとつも書いてない。かろうじて私小説の中に生き残り、80年代になって復活した。糸井重里、佐藤雅彦、大塚英志、大月隆寛たちが登場し、現在は名もないブロガーや2ちゃんねらーたちがティーゼイターとして活躍している。これが古田の見解だ。
しかし近代の道学先生からそれを見れば、ティーゼーションは個人主義の欠如であり、孤独な個人として自己定立できぬ日本人の単なるお茶らけである。そして、その基底部にはおそらく「態とらしいものをきらひ」「肌身に感じないと信用せず」「観念論を机上の空論だとあざわらふ」、日本人の実感依存があるに相違ないと筆者は睨んでいる。(p136)
私も実感依存だ。さすがに限界を感じてはいるが。
復権されたティーゼイターとしての庶民の神々も全能なわけではなく、せっかく西洋近代リアリズムのシャワーの時代を厚い熱湯を浴びながらも経てきたのだから、西洋思想流にときどき自らを振り返り、福田恆存や橋川文三や北田暁大をティーゼイトしつつも彼らの言葉にちゃんと耳を貸すことが大事であろう。(p137)
この3人は読んだことないけど、そういう姿勢は確保してるつもり。ただ、むつかしすぎて読めない本が多い。いささか学力不足。

本書もエッセイ風の文章なのだが、予備知識がないと読み取れないことが多く、手にあまる。おまけに索引も参考文献一覧もない。新書なのだから、注釈をつけても罰は当たらないのに。

日本はもともとアジアとは別の文明を保持しているので、東アジアの連帯などありえない、というのが古田の主張。しかし、そういうメインストリームよりも、枝葉の方がおもしろかった。

西欧では植民地にまず善良な宣教師がやってきて、その後に獰猛な軍隊がやってくる。日本はその逆で、
まず侵略して、そのあとに人の良い校長先生や神主さんやら、大工の棟梁がやってきて、みんなで地域を開発し、全体で金が足りなくなると、日本政府から送金してもらっていた。もちろん現地の人々を見下す人もいて、そういう感情の問題が戦後になってもつれるのであるが、一様に善良で皆一生懸命に近代化をやった。(p43)
そのひとりが、パラオ南洋庁で書記として働いた中島敦だ。

古田先生の大学院のゼミでは、帰納的な教授法をとっている。原資料を読み込みながら、個々の事象から原理やモデルを導き出す。文字資料という限界はあっても、方向性としては臨床哲学の手法と同じではないか。こういう指導方法は、オタクに向くそうだ。「オタクは研究者の宝庫」なんだとか。

マニアとか学者はオタクの典型だと思う。オタクに到達できない凡人の私は、彼らが極めたもの、創造したものを享受しつつ、少しでも何か生み出せないかと思って暮らしている。その成果物がここに書き連ねている文章なわけだが。

ちなみに藤原正彦の武士道について、「このような解釈は、日本でも、朝鮮でも、中国でも、これまで目にしたことがないような稀有かつ斬新なものであり、その独創性にはまさに驚異に満ちている」と最大級の賛辞を送っている。なかなかのティーゼイターぶりである。

巻末で日本文明の特色についてまとめている。中国文明の受容では、
日本は東アジア諸国からやってきた儒教を骨抜きにし、道学先生を笑い飛ばし、科挙試験や学閥政治などの硬直した体制を受け入れず、合議制で独裁者の発生を許さず、不気味な宦官制度や、宮刑や凌遅之刑などの肉刑からは自然に目を背けた。そのような文明圏であり、何よりも東アジア諸国の社会構造の核である宗族を知らない。それが中国・韓国・北朝鮮と同じ歴史的個性を有するはずがないではないか。一つ二つ異なるというのとはわけが違うのである。(p219)
西欧文明の受容では、
しかしこのような日本文明圏が、西洋からやってきた思想や文物をも同様の地平で漂泊してしまうことを本書では述べたのである。それは、キリスト教の処女懐胎や復活などハナから嘘だと馬鹿にし、キリスト教徒は人口の1パーセントもおらず、厳格なる法の支配など喧嘩両成敗や和イズムで緩和し、合議制の全員一致も民主主義の多数決の原則と並存して活性化をやめず、個人主義文学は漱石・鴎外で早々と終わりを告げ、天使とか悪魔とか態らしいものなんか大嫌いという文明圏である。(p219)
ほとんど同感なのだが、内村鑑三のような1パーセントの人も息苦しくなく暮らせていけるような社会でありたい。自分も違った意味でその1パーセントになるかもしれないのだから。

第1章のタイトルが「多神教的世界観の勧め」であっても、古田が一神教を排撃しているわけではない。西洋の模倣ばかりを戒めているのであり、「外来魂は寄り来たって、われわれの身体を豊穣の身体へと作り替えている」とシーボルト、クラーク博士、ベルツ博士の例をあげる。

古田は丸山をくさしつつ、けっきょく丸山の外来思想の受容と同じ路線を歩んでいるように見える。全集読破の成果だろうか。

伝統という台木に近代が接ぎ木されたというのが私の実感だ。だから、台なしの日本人を見ると、正直な話、いらいらすることもある。まだ耐性ができていない。無意識の台木やうまく活着しない接ぎ穂の実体が何ものであるのか、本を読みながら意識化させたいと思っている。それで少しでも偏屈さが薄れたらもっけの幸いだ。
  • 新しい神の国 古田博司 筑摩書房 2007 ちくま新書684 NDC302.1 \700+tax

(2007-11-27)