私もホームページ・デザイナー?



 私が美的なものについて語るなんて、へそで茶を沸かすようなもんだ。でも読んでしまったものはしかたがない。

 河北秀也は、デザイン業界では有名人である。でもその名を聞くのははじめてだった。彼は東京の営団地下鉄の路線図をデザインして、デビューした。その後地下鉄のポスターで一躍花形デザイナーとなってしまった人だ。そんな彼が、デザインについて語る。
 絵がうまくなければ、工作が上手に作れなければ、デザインなんてできない? なんて思っている人がいたら、ちょっと待ってくれよ。
 デザインは、絵や工作と同じものじゃないんだ。世の中のしくみやものが、みんなが幸せに生きていく上で、これはおかしいぞ、と思ったことに、こうしたほうがいいのになあ、とアイデアを絞り出すことなんだ。
 だから、絵や工作のように好きなように、きれいに、上手に仕上げれば、けっ作というわけにはいかないんだ。すてきな考えや、ユニークな発想があれば、へたでもけっ作なんだよ。
 これを読んで、はじめてデザインがどういうものであるかわかった。
 デザインはある意味で創作活動ではない。美術や音楽は、個人的な自己表現を通じて個性を世の中に対峙させ、人心の変革を迫るものであるが、デザインは世の中に対して直接的に変革のプログラムを提出する。
 美術や音楽は、受けてが影響を受けようがうけまいが関係ないし、受けては自由に選択できる。が、デザインはそうはいかない。デザイナーが押しつけてしまう。都市をデザインし、建物をデザインし、もろもろのものを好むと好まざるとにかかわらず作り出して行く。
 デザインにとって、デザインをする人間の個性は、美術や音楽以上に重要な意味を持つ。

 だからこそ、人間や世の中に対する深い理解や哲学を身につけ、深い個性を持ちたいと河北は言う。

 「デザイン現場に立つ」という文章の中で、デザイナーが作る自主制作の作品がアートにならない理由を述べている。受注的仕事をしている工芸家が、自己の存在を確かめるために自主制作をすることが多いのではないかと思う。そんな人が陥りやすいわなである。

 おもしろかったのは、人類の欲求の分類。デザインと同次元の行為には、まとめる、おもしろがる、学ぶ、助ける、楽しむ、信ずるなどがある。それより高い次元の行為として、楽器を弾く、絵を描く、企む、酒を飲む、茶化す、などをあげている。

 これを見ると、河北さんは酒飲みであることがわかる。一方、自分を茶化してしまうという癖を持つ私も、強い味方を得たような気持ちになれた。ほんとうは文章を書く暇があったら、その時間デザインの仕事をしたかっただろう。それなのによくぞ本の形にまとめてくれた。感謝。
  • 河北秀也のデザイン原論 河北秀也 新曜社 1989 NDC727
(2001-02-23)