聴力テスト



 「月刊言語」('06/02)に掲載された鷲田清一へのインタビューを読んだ。

 長い話をまとめたせいか、「ため」とか「きめ」ということばが出てきても、わかったような、わからないような。
ことばというのは人間の中にためをつくっていくもの、あるいは自分自身との間に距離をつくっていくもの、そういう意味で自分を開いていくものだと思うんです。
 とか、
ケアの場面で聴くときに大切なのは、ことばの意味のみならずそのきめにきちっと感応することなんです。言い方とか、そのときの表情も含めて、ことばの感触を受け止める。それがどんなきめを、感触を持っているか。それごと受け取らないと、聴くということにならない。
 ここはケアの場面を想定している。ところが、
その一方で、そういう感触を全部そぎ落としたところできちっと論理的にしゃべるという、もう一つのトレーニングというのが、今の社会にはものすごく必要です。
 といきなり、社会生活という広い場面に拡大されてしまう。これでは、聴くことと論理的に話すことがどう関係するのかわからない。

 『死なないでいる理由』を読むと、どういう文脈で語っているのかがわかる。
見えているのにだれも見ていないものを、見えるようにする。言葉で見えるようにする。これが哲学の仕事だと思います。(p230)
 という前提のもとに、知らない者どうしがともに社会を運営するには、
わたしたちはまず、じぶんがいま何を必要としているのか、何を希望しているのか、何を不満に思っているのかを論理的に吟味したうえで、言うべきことを言い、言うべきでないことは言わないと判断できるようになるべきです。そのうえで、わたしたちの共通の利害は何だろう、わたしたちの利害が衝突したときにどういう合意点が見いだせるのかなどを、言葉の文化、会話の文化、ディスカッションの文化として意識的につくるべきときなのです。(p242)
 これができてはじめて哲学的思考ができるようになると鷲田は語る。

 ふたたびインタビューから、
対話というのは、ことばではなく、互いのコンテキストを交換するようなところがある。そこで、他者のコンテキストが自分のそれとは異なることが見えてくるのが、理解ということだと思うんです。
 これはよくわかる。
結局、自分にはそのとおりに思えなくても、とりあえず相手のことばをそのコンテキストごと受け止めるということが、聴くということなんだと思います。そのなかで、相手のことばに映されるようにして自分のことばのコンテキストも見えてくる。そして自分についての別の語り方、語り直しができるようになる。人生というのはだから、語り直しの連続なのです。
 私もそう思う。でも、うまく聴けない自分がいる。世の中には、聴く力を持たないことを自覚していない人が多いのではないか。そういう人ほど冗舌だったりする。

 これまで鷲田が提唱している臨床哲学の意味がよくわからなかった。聴くのは、カウンセラーの仕事じゃないか。どこが哲学なんだ。

 こういう疑問は、インタビューよりも単行本のほうがうまく答えてくれる。哲学には、「本を読んで過去の世界の見方に学ぶ」と同時に、「非言語的な哲学の思考と対話する努力」が必要である。後者が臨床哲学にあたる。

 非言語的な哲学の思考とは、たとえばケアの現場で行われるミーティング。
 医者の考え、仲間の考え、事務方の考え、患者の考え、家族の考え、助手の考えなど、いろんな考え方や主張があって、それがみな看護婦さんには聞こえてしまいます。お医者さんだったら、おそらく自分の主張、見解を言ってすませられるかもしれません。患者さんも、「こうしてほしい」と言ったらすむかもしれない。でも、看護婦さんは、家族の考えも、患者さんの悩みも、家庭環境も、患者さんの複雑な想い、言葉の裏にあるものも見えてしまうし、医師がどういう気持ちでこのことを言っているかまで見えてしまう。しかも、自分の不十分さもわかってしまうのです。
 いろんなことが見えてしまうがゆえに、どこで妥協点を見いだすか、どこで最良の処置をするかは、ものすごくむずかしいのです。思考不確定なもの、多様な意見を含みながら、しかし、処置をすぐに決断しないといけない。(p247)
 こういう現場に自分も身を置いて、彼らのリアルな思考をもっと綿密な言葉にしたり、いのちの哲学の表現にするという作業こそが、臨床哲学なのだ。それは個別のケースを深めることで普遍にいたる方法論でもある。

(2006-06-11)