和語で考える



 高校の教科書に載っていた丸山真男の「『である』ことと『する』こと」(1961年)を再読した。講演に加筆したものなので、ブランド執筆家のわりには読みやすい。

 「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうる」(p156)とか「民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだ」(p157)を読んでいたら、「である」と「する」の違いについて思い出した。

 会社などの機能集団では、「業績が価値を判断する基準」(p163)であり、「人間関係がまるごとの関係でなしに、役割関係に変わって」(p161)行く。とはいっても、日本ではそうドライなつきあいはできないのだが。
仕事以外の娯楽や家庭の交際にまで会社の「間柄」がつきまとうとするならば‐職能関係がそれだけ「身分」的になっているわけだといえましょう。(p164)
 ここまでは経済の領域。では政治の領域では、
政治において「する」原理を適用するならば、それは指導者の側についていえば、人民と社会に不断にサービスを提供する用意であり、人民の側からは指導者の権力乱用をつねに監視し、その業績をテストする姿勢を整えているということになるわけです。(p165)
 しかし丸山は、「する」価値が万能だとは言わない。
政治や経済の制度と活動には、芸術や学問の創造活動の源泉としての「古典」にあたるようなものはありません。せいぜい「先例」と「過去の教訓」があるだけであり、それは両者の重大な違いを暗示しています。政治にはそれ自体としての価値などというものはないのです。政治はどこまでも「果実」によって判定されねばなりません。政治家や企業家、とくに現代の政治家にとって「無為」は価値ではなく、むしろ「無能」と連結されてもしかたのない言葉になっています。(p178)
 それに対して、
文化的な精神活動では、休止とは必ずしも怠惰ではない。そこではしばしば「休止」がちょうど音楽における休止符のように、それ自体「生きた」意味をもっています。(中略)
文化的創造にとっては、ただ前へ前へ進むとか、不断に忙しく働いているということよりも、価値の蓄積ということがなにより大事だからです。(p179)
 落語では噺が古典として蓄積されている。稽古を重ね、それを観客の前で演じることで技量が高まっていく。

 古典のないお笑い芸人なら、より「する」価値が重視されてしかるべきだ。それなのに、ネームバリューという蓄積にあぐらをかいた大物もいる。テレビを見つつ、少しは働けよと思ってしまう。

 文章ではどうだろう。人を動かすためとか、読者を楽しませるために書くなら、「する」価値オンリーでもいい。しかし自分の精神向上のために書くのなら、休止にも意味がある。これって、もしかしたら教養主義

 この論考は、結語にあたる「根底的な精神的貴族主義が…」の部分を除いて、今なら理解できる。しかし10代ではじめて読んだときは、読解に四苦八苦したことだろう。

 11年後に書かれた「歴史意識の『古層』」(1972年)は、論文調で読みにくい。しかし、「古層」という視点に自分との近さを感じる。

 少し前に、自分探しなんてことばがはやって、やれやれと思ったものだ。ラッキョウの皮むきと同じで、芯があるかと思ってむいてみたら、空っぽだったらどうするのか。

 日本的なるものの探求も同じ運命をたどりかねない。儒教を取り去り、仏教を取り去り、はたして固有の芯が見つかるものか。

 そういう発想はやめて、外来思想を受容するときに、それをどのように修正して受け入れていったのかに着目し、その変化のパターンに共通性がないかを探ってみよう。丸山は、そう考えた。

 日本神話を素材としてそれを試みている。古層という地質学の用語を使っているが、もとは原型(プロトタイプ)だった。のちに執拗低音という音楽用語に言い換えている。いかにも厳密さを求める学者らしい。私には、通奏低音との違いがよくわからないのだが。

 さて、世界の神話にある宇宙の創成論には、3つの型がある。
われわれの住む世界と万物は人格的創造者によって一定の目的でつくられた。
それは神々の生殖行為でうまれた。
それは世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現した。(p360)
 これらを、それぞれ「つくる」、「うむ」、「なる」という語で表現する。ユダヤ=キリスト教系の世界創造神話では「つくる」論理が強く、日本神話では「なる」発想が「うむ」論理に浸透している。
ムスヒのムスは苔ムスのムスであり、ヒが霊力を表現する。この生長・生成の霊力の発動と顕現(隠→現)を通じて、泥・土・植物の芽など国土の構成要素および男女の身体の部分が次々と成って、イザナギ・イザナミの出現で一段落する。(p365)
 ここから二神による国生みに入り、たくさんの神が誕生するのだが、産んだ神よりも成った神のほうが多い。

 記紀から時代を下り、和文による歴史文学の時代になると、「なる」から「なりゆく」が派生し、歴史的推移を表現するようになる。
「なりゆく世」の範疇が仏教世界観の現世的適用と結びついて、もっともペシミスティックな調性を帯びた場合にさえ、歴史叙述においてムスヒ(産霊)の発動による生長増殖という宇宙創成のイメージが、ひきつづき低音として静かに、しかし執拗にひびいている。(p375)
 つまり、諸行無常の響きありが主旋律でも、オプティミズムが執拗低音となっているというのが丸山の考察だ。このように、ものの考え方や感じ方のパターンとして日本的なものをとらえている。

 私たちが住むこの世を「つくられてある」と考えるのか、あるいは「なりいでてある」と考えるのかでは、世の中の見え方が違う。そして、なる論理をつくる論理で克服することが、近代化なのだろう。計画性に乏しい自分をふりかえってみると、「なる」が濃厚だと感じる。

 「なる」の項は、「つぎつぎになりゆくいきほひ」とまとめられる論考の最初の部分だ。うまく消化できていないが、こういう文章も、ときがたてば読めるようになるのだろうか。なりゆきまかせで、その変化に期待しよう。
  • 日本の思想 丸山真男 岩波書店 1961 岩波新書青版
     「『である』ことと『する』こと」を所収

  • 忠誠と反逆 丸山真男 筑摩書房 1998 ちくま学芸文庫 \1,470
     「歴史意識の『古層』」を所収
(2006-11-22)