ただのグロ



 『グロテスクな教養』というタイトルを見て、邪悪な読者を思い出した。読んでみたら、斎藤美奈子の文体によく似ている。分身の術を使ったのかな。

 高田里恵子は「資源の乏しい日本が生き残るためには教養立国になるしかない」と考えている。にもかかわらず、教養と教養主義に対してかなり厳しい文章がつづく。あとがきで、その理由を近親憎悪だと語る。
この近親憎悪という名の自愛と自虐が、書くことの出発点であったとしても、しかし、やがてどこかで一般的な問題へとつながっていく、と信じたいものである。(p230)
 私もそう信じたい。

 巻末に引用文献のリストがあり、そこにも重要な記述が埋め込まれている。
大塚英志、宮台真司、山形裕生、そして東浩紀は、新しい教養(自己形成)を考える上で重要な存在なのであろう。本論ですこし触れたように、教養論議は世代論あるいは世代対立(の意識)と結びついている。(p242)
 なるほど、心にとめておきます。

 旧制高校に代表される昭和期教養主義では、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』。60年代は、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』。80年代は浅田彰。これらがその時代を代表する本だった。

 読まなければならない本とは、他者が欲望する本を意味する。「他者からどう見えるか、それが問題だ」(p39)。

 私は教養主義に染まらなかったので、そんな本の読み方をしたことはない。では、まったく無縁だったかというと、そうでもない。梅棹忠夫を通じて間接的に触れてはいる。

 本書を読んで、ニューアカがなんであったのかを知った。はじめて聞いたときは、その語感のきたならしさゆえに本を手にすることがなかった。

 大沢真幸によれば、ニューアカで学んだ人たちはとても悲惨なことになっているらしい。悲惨さの内容については、説明されていないのだが。

 大正初期にはじまった教養主義は、ニューアカを最後に消滅した。なぜ読書で人格形成しようとしたのか。その理由を高田は「僕はたんなる受験秀才じゃないと披露するためだよ」(p35)と説明する。「秀才と優等生は、日本では侮蔑語である」(p29)からだ。

 そういう文化の中で育たなかったのは幸いだ。一高から日比谷高校へとつづく、そのいやったらしい文化には「ケッ」と言いたくなる。でも、こんなところで世代対立(の意識)を持ち出さないのが教養というもんだろう。

 梅棹とその周辺にある教養みたいなものと、教養主義をケッと思う気持ちの間を、ずっと揺れつづけているような気がする。そこで残る問題が、教養とは何か、という問いなわけだが。 (2006-06-21)