敬天愛人「ラストサムライ」(2003)は、1876年とその翌年を舞台にしている。ということは、渡辺謙が西郷隆盛で、真田広之が桐野利秋で、戦闘シーンが西南戦争なのかなと思いつつ見た。トム・クルーズは「ダンス・ウィズ・ウルブス」のケビン・コスナーの再来だし、勝元をつぶそうとする大村は、益次郎ではなく大久保利通がモデルか。 内村鑑三『代表的日本人』には、 西郷を殺したものがこぞって悲しみにくれ、涙ながらに葬りました。今日も西郷の墓には、涙を浮かべて訪れる人の群れが絶えません。とある。タイトルといい、最後に敵兵がみな土下座してしまうところなど、脚本書いた人はこの本を読んでいるのかもしれない。 西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人の生き方を外国人たちに紹介したもので、英文で書かれた。ドイツ語やデンマーク語にも訳されている。 ドイツ語版後記で内村は、 本書は現在の私自身を述べたものではありません。キリスト者としての今の私が、接ぎ木させられた、もとの台木を示すものであります。(p181)と述べている。自分の場合は、憲法に代表されるような西洋由来のものが接ぎ木されていると感じる。その台木がなんであるのか、見きわめたいとは思っているのだが。 内村は、西郷の中に陽明学をみいだす。「天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」という西郷のことばを受けて、内村は「無知は自己愛であります」と語る。 戦後生まれの私は、幕末育ちの西郷たちのように漢文を読んでいるわけではない。かなりの部分が、耳学問でできている。たとえば、「ほんとの男ってえのはな、お天道様の下を大手をふって歩けるような男のことを言うんでえ」という座頭市のセリフなどが、意識はされずとも私をかたちづくったのは確かだ。凶状持ちが二足のわらじをはいた人間に説教する映画を、さしたる疑問をいだかずに見てしまう。この精神のあり方。 映画だけでなく、いろはかるたや大人の会話に混じる格言の類も、橋本治の言う大衆的な知性のあらわれだ。 「ラストサムライ」では、明治だというのに武士が戦国武将のスタイルで登場する。振り回す刀が示現流ではチャンバラ・アクションにならないので、ある程度の荒唐無稽さには目をつむる。しかし、時代考証として見過ごせないところもある。それでも「ティファニーで朝食を」に出てくる日本人にくらべれば、アメリカ映画もましになってはいるのだが。 こういう大ヒット映画を題材にして、どこがまずいかを解説する英文資料を作り、ハリウッドの製作スタッフに配るといい。内村が、キリスト教徒よりも優れた日本人がいることを知ってほしい、と願って本書を書いたように。
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