橋本治の教養論



 『橋本治という行き方』では、独自の教養論を展開している。「なぜ書くか」、「自分を消す」、「自由になりたい」、「芯を読む、芯を書く」、「教養という枠組み」などの小見出しには興味をそそられるが、読んでみるとものたりない。

 橋本治は、自分の外にあるニーズにこたえようとする。
自分の仕事は「他人に関心を持たせる」というところにあるので、「人が日本美術に関心を持ってくれれば、自分の中からその関心がなくなってもかまわない」と思っている。(p180)
 批評は、それを必要とする者が展開すべきもの。
批評とは、どこかで「客観」をめざさなければならないものである。つまり、自分の主観を一時的に棚上げする作業が必要になる。(p184)
 「情けは人のためならず」のように、
日本の格言とかことわざには、へんなひねりの入ったものが多い。私は、そういうひねりの論理は、みんな仏教から来ているもんだと思っている。だから私は、日本人の知性‐しかも大衆的な知性のへんてこりんさは、大衆化して定着した仏教論理によるものだろうと、勝手に考えているのである。(中略)
「日本の俗ってとんでもなくレベルが高いぞ」と思って、「そんな高度な俗が存在することこそが、日本の謎だよな」とも思うのである。(p214)
 「徒然草」最終段を引用しつつ、
「考えてもいいんだ」という事実は、思考の自由を生む。と同時に、「答えられなくてもいいんだ」という事実は、確定された現実の外側へ出なければならないという強迫観念を生まない‐だから、穏健になる。(p219)
 橋本は、必要な本しか読まない。入力よりも出力を重視している。そこまで割り切れない私は、本を読む楽しさに惑わされ、時間を浪費しつつ生きていくのだろう。そんなことしてる場合じゃないぞ、ともう一人の私に叱られながら。
(2006-06-03)