自分がいて、他人がいる



 個性的になりたいという人に向かって、「私は平凡な人になりたい」と個性あふれる主張をしたことがある。そのときはうまく表現できなかったことを、橋本治が『いま私たちが考えるべきこと』の中で冗長に説明してくれる。

 個性とは「哀しいものである」、「傷である」、「一般的なものからはみ出したもの」、「正当なる位置づけという名のゆるしを求める」と定義する。そして、
「個性的」といわれるしかない人間は、没個性を目指すしかない。一般的にこれを「丸くなる」と言うが、しかし、これを目指して邪魔するのがまた、「自分の個性」なのである。(p191)
 というわけのわからない説明にたどりつく。ところが、

日本社会が持ち上げたがる「個性」は、「傷」ではない。一般性が達成された先にある、表面上の「差異」である。だから、若い男女は「個性」を求めて差異化競争に突進する。その結果、「雑然たる無個性の群れ」になる。(p194)
 つまり「いい加減に育ったいびつ」ばかりが増えてしまったのが現代というわけだ。

 ここで野村一夫の「クチコミ依存型で保守的な台無し世代」説を思い出す。
そもそも90年代後半以降、最も大きく変容したのは学生像である。本質的にはそれまでと連続する部分があるのはたしかだが、以前は「さまざまな学生」半分プラス「談合体質の学生」半分という割合だったのに、今は二対八という印象である。良くも悪くも個性があって、その行動も多種多様な学生が、今ではすっかり少数派になっている。つまり個人として動く学生が少ないのだ。多数派は集団として動く。「みんなといっしょ」でないと不安でしょうがないらしい談合体質のこの学生たちを、私は「台無し世代」と呼んでいる。
 野村一夫『インフォアーツ論』(洋泉社)
 さて話を戻すと、橋本は「国家に個性の教育は無理だ」という教育の文脈で語っている。国は、学校の外に対して「個性を伸ばす教育をして下さい!そうじゃないと、我々の学校教育が破綻します」と言いなさい。これが第11章の概要である。

 そして、いよいよ「自分の頭で考えなくてはならない」を経て「いま私たちが考えるべきこと」という最終章に突入する。なぜ「私たち」なのかは、10章かけてえんえんと説明してくれる。途中省略して読めないのが、橋本治なのである。
(2005-03-31)