新しい技芸



 自分でホームページを作っているせいか、インターネットのことが気になる。そのモワッとした世界を整理して見せてくれるのが野村一夫『インフォアーツ論』である。

 インターネットは、まず大公開時代をむかえる。日記系ウェブのような個人サイトがたくさん登場し、自己言及の快感にひたる時代だ。ネティズンなどということばも生まれ、先住民文化を形成する。

 次の段階として、パソコン通信からたくさんの人が流入してくる。匿名によるコミュニケーションに慣れた人たちだ。しかしインターネットにはシスオペと呼ばれる管理者はいないので、必然的に荒れてくる。やがてネット経験のない人もたくさん流入し、少数の発言者と多数の観客とに分離してくる。こうして巨大掲示板は、マス・メディア化していく。

 このようにインターネットの歴史を整理しつつ、なぜネットの世論は偏向するのか、などという考察を加えていく。社会学者らしい整理のしかたである。ネットが市民を育てる力が消滅した今、情報教育が重要であると指摘する。そして第3章で、高校情報科、大学における「台無し世代」の台頭に話が進んでいく。本書のテーマからいえば結論部分ではないのだけど、一番重要な指摘であると思う。

 いつの世も若者とは「ばかもの」の別名であった。それでも近年なにか異様さを感じている。かつての新人類なんてかわいいもの、なにか不気味さを感じるのだ。それは私がたんに年をとったということではなく、十代の人のなかにも似たような感想を持つ子がいる。「学力低下」とか「動物化」といういいかたは、その一面を切り取っているのではないか。
そもそも90年代後半以降、最も大きく変容したのは学生像である。本質的にはそれまでと連続する部分があるのはたしかだが、以前は「さまざまな学生」半分プラス「談合体質の学生」半分という割合だったのに、今は二対八という印象である。良くも悪くも個性があって、その行動も多種多様な学生が、今ではすっかり少数派になっている。つまり個人として動く学生が少ないのだ。多数派は集団として動く。「みんなといっしょ」でないと不安でしょうがないらしい談合体質のこの学生たちを、私は「台無し世代」と呼んでいる。
 私はその傾向がケータイにより加速したとにらんでいる。

日々学生とつきあっていて感じるのは「若い人は柔軟で、新しいものにすぐ適応できるし、機械にも強い」というのは時代遅れの迷信だということだ。「若者はマニュアル世代」というのも今ではまったくの迷信で、基本的にクチコミ依存型で保守的である。
 こういう人たちが5割から8割にアップしたのが本当なら、日本はたぶん経済的に崩壊の道を歩むだろう。その結果、ゆとりのあるおだやかな社会が到来するのか、息苦しい社会になるのか、どちらなのだろうか。
  • インフォアーツ論 ネットワーク的知性とはなにか? 野村一夫 洋泉社 2003 新書y079 NDC007 \720+tax

(2003-05-16)
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