漢文的素養



加藤徹『漢文の素養』は、「かつて漢文は、東洋のエスペラントであった」という書き出しではじまる。漢文は、西欧のラテン語、インドのサンスクリット語、中東の古典アラビア語、チベットからモンゴルにおける古典チベット語に相当する高位言語だった。本書は、日本の文化史を漢文という1本の軸でとらえなおしている。

3世紀の卑弥呼の時代、邪馬台国の人はおそらく漢字の読み書きができなかった。古代ヤマト民族は、言霊思想ゆえに漢字を拒んだと著者は推測する。文字の力を説明するために、中島敦「文字禍」の一節を引いている。

漢文の文体には、古典語としての規範を守る純正漢文と、口語や現地語の影響を受けた変体漢文がある。日本の変体漢文を和化漢文という。

5世紀になり、日本の書記官は漢文を使うようになる。稲荷山古墳出土鉄剣銘は和化漢文で、倭王武の上奏文は外交文書なので純正漢文で書かれた。

漢字や漢文は、5世紀まで日本人の精神に影響を与えなかった。6世紀になると状況は一変する。欽明天皇の時代に仏教が伝来したからだ。蘇我氏の血を引いた用明天皇がはじめて仏像を拝み、その息子の厩戸皇子(聖徳太子)が「三経義疏」を著した。「十七条憲法」は、国内向けであるにもかかわらず純正漢文で書かれている。他国へのアピールも意識してのことか。

はじめて十七条憲法を読んだとき、違和感を覚えた。日本の憲法なのに、なぜ仏教や論語など中国風の考えが書かれているのか。その後多少は歴史を勉強し、こうやって漢文という観点から頭を整理してみると、そのわけが納得できる。
日本史上、「漢文の力」を活用して日本人の思想改造に成功した統治者は、聖徳太子と徳川家康の二人であった。(p188)
奈良時代に黄金期をむかえ、中世には没落してしまった漢文に、ブームが到来する。江戸時代になって、漢文の訓読技術が一般に公開され、漢籍の出版ラッシュが起こり、俳句や小説、落語、演劇などに漢文は大きな影響を与えた。江戸の末期には、ヤクザの親分や農民までもが漢文を学んだ。家康が儒学を官学にし、古くから漢文訓読という文化があったゆえのことだ。

今の英語も高位言語のひとつではある。海外旅行では役に立つし、会社によっては出世の必須条件となるし。だが、江戸時代のように英語の本やWebサイトが庶民にとってあこがれの存在でもないし、英詩を書く人が多いわけでもない。

日本の文化と英語という高位言語を母語とする国の文化との間に顕著な格差がなくなったからだ。明治のころにくらべると漢語による造語力は落ちてしまったが、出版事情も含めた翻訳力はいまだ高いレベルにある。

古代の日本人は、中国や朝鮮の人と筆談でコミュニケーションをはかった。著者が指摘するように、ネットは漢文での筆談にもってこいのメディアだ。漢字文化圏の人たちが、英語を介さずに、漢文でやりとりするのもまた楽しからずや。
  • 漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか? 加藤徹 光文社 2006 光文社新書 NDC919 \756

(2007-06-20)