Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第104夜

新聞から−感情と理論−




 地元の新聞、秋田魁新報で、方言を話題にした文章を 2 つ読んだので、それについて。


 まずは、11/16 の朝刊 17 面。「こだま」というコラムで、タイトルは「あきた弁は『字幕』
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が必要なの?
」。
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 ニュース番組などでインタビューを受けた秋田衆の発言が、TV 画面の下部に字幕で
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表示されることが問題になっている。
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 「しかし、同じ日本語なのに、どうして方言だけが、と思わざるを得ない」。
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 答えは明白わからんからだ。
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 県内ローカルの番組でこれをやったらまずかろうが、全国放送ならやむを得まい。
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 「わかるんじゃないの?」と軽々しく言ってはいけない。我々が理解できるのは、いわゆ
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「標準語」と秋田弁だけだ。これがもっと広がって全国の言葉となった時、全部とは言
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わないから、大筋において間違いなく理解できる自信がある人は一体どれくらいいるだ
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ろうか。
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 勿論、「日本語なのに」というショックを受ける気持ちは分かる。だが、違うものは違う
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だ。他者が自分と違うことを認めると同時に、自分が他者とは違うことも認めなくてはなら
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ない。
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 手始めに隣県である青森の、高木恭造の「まるめろ」なり、伊奈かっぺいの文章なり読
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んでみて欲しい。それを、一度も立ち止まることなく全て理解できるか。


 「同じ日本語なのに、どうして方言だけが、と思わざるを得ない」という表現自体、方言
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でない日本語
がある、ということが前提になっているわけだから、ちょっとずれている。
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 学術的な話であって、現実と食い違うことは承知の上で言うが、日本語には「標準語」
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なるものは存在しない
。そして、東京弁は「標準語」ではない


 筆者(記者と思われる)は、「字幕にするのも困難な秋田弁で対抗してはどうだろう。
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『んだ』『あべ』『あえ、しかたね』といった言葉がブラウン管から飛び出すのも案外面白
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いかもしれない」と結んでいる。
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 面白いのは我々だけだ。他地域から「何を言っているのかわからん!」と苦情が殺到す
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るのは目に見えている。
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 大体、「あえ、しかたね」は秋田弁を正しく映していない。「あえ」か「あい」かは置いとく
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として、「しかだね」であろう。自らが「翻訳」していることに気づいてないのだろうか。


 気になるのは、「あきた弁」という表記だ。「秋田弁」でないことにどういう意味が込めら
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れているのだろう。


 テレビやラジオの人などは、すごくいい意見を言っているのだけれども、あまりに達者
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な秋田弁であるためにオンエアできなかった、という経験があるのではないか、と想像す
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るのだが、どうだろうか。


 もう一つは、その日の夕刊 7 面。「思うこと」というコラムだが、「こだま」が新聞社の人
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の文章であるのに対して、こっちは読者の文章だ。タイトルは「方言文学賞創設を」。
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 方言がマスコミによって滅ぼされようとしている、という内容で始まるのだが、この種の
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意見が必ずしも正しくないことはこれまでに何度も述べてきた。
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 確かに「標準語化」はかなりの勢いで進んできた。若い人を中心に、どこから引っ越し
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てきたのか聞きたくなるほど達者な「標準語」使いが多くなっているのは確かだ。しかし、
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通学列車中では秋田弁が飛び交っていることは 1 年前に述べた。「新方言」の勢いに
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ついても 2 取り上げたとがある。
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 方言が無くなったのではなく、前とは違う形になっているだけだ、ということは強調して
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おく。それを嘆くのなら、それはもうご自由に。


 文章は更に、「方言を使った文学賞を創設したらどうだろうか」と続く。
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 文学賞とまでは行かなくとも、秋田弁に公の場で光を当てよう、という試みは既に行わ
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れている。今年も、11/3 に「秋田弁見本市」というイベントが行われた。行けなかったの
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で非常に悔しい思いをしているのだが、これを根づかせるのが最も近道ではあるまいか。
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 なお、この文章の落ちは、中々くすぐりが効いている。


 感情に対して理論で意見を言ってしまった。
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 まずいと言えば、まずい。
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 だが、ちょっと「方言ナショナリズム」の匂いを感じてしまったので、敢えて。



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第105夜「さらば豆ゴハン」

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