「方言が廃れていく」とお嘆きの向きは多いであろう。
確かに、若い人たちの会話を聞いていると、流暢に標準語を操っていて、いつでも都会に出ていけるように思える。
今から何十年かたったら方言は消えてなくなり、日本中で標準語(
実質的には東京弁)を使うようになるのだろうか。
まずは、「
若い人たちの流暢な標準語」を疑ってみる必要がある。
これまでにも、「
似てるけど全然違う」「
方言だとは気づきにくい」例をたくさん挙げてきた。そういう単語や表現が混じっているのだから、話している若者も、それを聞いている若い人や若くない人も、「
流暢な標準語だぁ」と思い込んでしまっているだけ、という可能性は非常に高い。
まして、アクセントやら発音やら、変更の難しい部分は言うまでもあるまい。
また、日常生活が秋田弁、という局面において、他の方言で生活しつづけることは可能だろうか。短期間ならともかく、よっぽどの覚悟をしないと、これは無理である。
どこかの面が秋田弁的になってしまうことは間違いない。
それはもう、大学生になって最初の夏休みに帰ってきた人の会話を聞けば分かる。どこかしらに大学のある地域の特長が観察できるはずだ。
ということで、今日は北海道、明日は九州、明後日は東海、なんてことが
本当に普通のことにならない限り、
全国がひとつの方言で覆われることは絶対にない、と断言する。
権力で強制して、秋田弁を使ったら死刑、とかいうことになったらわからんが。
更に、「
言葉は変化するものだ」ということを忘れてはいけない。
新語・流行語というものが生まれては消えていく。ああいうのは、はじめから使い捨てであることを前提に垂れ流されているという面はあるにしても、言葉の栄枯盛衰というのは常にある。
それが方言内部に起こらないはずはない。
昔からの表現が使われなくなるから、方言が衰退しているように見えるが、かと言って
なんでもかんでも標準語化というわけではないのである。
この「
若い世代において、あらたに発生し、かつ勢力を広げつつある非標準語形」は「
新方言」と呼ばれる。
北海道のある地域で、従来「
あぐど」と呼ばれていた「踵」が、若い世代において「
かがと」と呼ばれるようになった例がある。「
かがと」はもちろん標準語形ではなく、改まった場面で使われることはない。若者は「かかと」と使い分けているのである。
秋田弁で「すねる」に相当する単語に、
えへる、こつける、じゃける
の 3 つがある。
「
えへる」は、交渉を拒否する姿勢を指す。
「
こつける」は、どちらかと言えば「へそを曲げる」「意地になる」に近い。
「
じゃける」は、「自棄になる」という意味を持ってくる。
で、最後の「
じゃける」だが、ある一定の年齢を越えると、「聞いたことが無い」という人が出てくる。
残念ながらきちんとした調査を行ったわけではないので断言はできないのだが、「
じゃける」が「
新方言」である可能性がある。
もう一つ、これは俺が古かったという例。
万引きのことを「
ぎる」と言う、という話は
以前にもした。
これは 15 年ほど前には「
きめる」と呼ばれていたのである。
ちょっと隠語的側面もあって、あんまりいい例ではないかも知れない。しかし、「
新方言」の定義には文句無しに当てはまる。
ということで、今のままの形で方言が残ることはありえない。それは確かだ。
いわゆる「ら抜き」がどんなに指弾されようが、どんどん広がって、オフィシャルな場面に進出しているのと同様、言葉の変化は抑えようが無いのである。
しかし、地理的な区分が有効で、人の交流がある程度、制限される限り、方言は方言として残る。
周囲の言葉の影響を受け(同時に与え)、方言自体のルールに則って変化しつづけるだけのことである。
東京弁は不滅だが、秋田弁も不滅だ。
秋田と他県の行き来がそうそう簡単になるとも思えないし。
まして、秋田衆が突然、開放的になるとも思えない。
参考文献:『方言学の新地平(明治書院、井上史雄)』