風呂を取り上げるのは一体、何度目だろう。
数えてみたが、メインになるのはこれで三
度目らしい。
2006 年に交換した (正確には、大家に交換してもらった) 風呂釜が故障中である。
エラく冷え込んだ 1/13、何度やっても点火しなくなってしまった。
俺、こういうトラブルにめっぽう弱い。自分で直せるものなら多少、面倒くさくてもいいんだが、「人に依頼する」というのが面倒くさくてたまらない。親しくない人に電話する時は、「なにか仕事中だったりしないだろうか」「忙しくないだろうか」ってあれこれ考えてしまう。今回も、大家に頼まなきゃいけないのが非常に
おもやみで*1くて、「あったかくなったら復活するかも」と思って、一日放っておいたのだが、どうにもならなくて結局、電話した。
ひきこもり体質なのかもしれないなぁ。
で、土曜日に業者が来て見てもらったのだが、「機器が過熱しないようにする安全装置が作動してしまっている」とのこと。
どうしてそうなったのかは聞いてない。なぜかと言うと、釜内部の水分の凍結が原因だとすると、俺の責任になるから。
前にも書いたように、この北国では、冷える夜には水道の元栓を閉め、こういう装置内の水を排水して、凍結による破壊を避けなければならない。これを怠って機械が壊れた場合は、住人の責任となる。費用はこっち持ちである。
勿論、俺はちゃんとやった。それを上回る寒さだったのだろう
*2、と思っていたのだが、業者がやって見せたところでは、水を抜くための栓は「そこまで抜いたら外れちゃうんじゃないの?」ってくらいに引き出せるのだった。俺がやったのは「ちゃんと」ではなかったわけだ。
まぁ、業者が大家にどう報告するか。払えって言われたら、ごねずに払う。そこで
ごぼうは掘らない*3。
風呂についてまた調べてみたが、「これって方言?」という記事がいくつか見つかった。曰く、「風呂をたく」「
風呂をとる」「
風呂をはる」。
後ろの二つはともかく、「風呂をたく」は普通の言い回しだと思う。まさか「炊く」と勘違いしているわけじゃないよな。「焚く」だよ。
*4
「
風呂をとる」は、ちょっと地域が定まらない。新潟だ、長野だ、福岡だ、とあちこちに飛ぶ。
続けて「
風呂をはる」を調べてみて、あれ、と思う。
風呂に入れる状態にするまでにはいくつかのステップを踏むが、「はる」はそのうち、浴槽に水をためることを言う。鍋も水をはったりするのでこれ自体はわかりやすい。
が、これについては、「冷たい水をためて火をつけて温める」形式ではなく、「お湯を出してためる」形式が普及した事によって意味が変わったのではないか、という感じがする。つまりあっためる形式の風呂では「はった」だけでは入浴できないが、お湯を出す形式であれば「はった」らもう入浴できるのである。この場合、「風呂をはる」は「風呂を沸かす」と同義となる。
つまり、単に「風呂 AND 方言」で調べたのでは、どのステップを指しているのかわからない。掲示板なんかでの会話だと、「実はかみ合ってねぇんじゃねぇか?」というのが散見される。今までの俺の調査もちょっとずさんだった、ということになる。
そういう意味では、「
風呂を燃す」はシンプル。水をはる行為のことではない。「薪」ならぬ「燃し木」という言葉もあるらしい。
自分の入浴はどうしているかと言うと、寸胴でお湯を沸かして頭を洗って体を拭いている。一昔 (三昔くらい?) 前の学生みたいである。
洗えるのか? という人もいようが、意外に行ける。最初にやった時は、鍋二つにヤカン一つで大量のお湯を用意したのだが、そんなにいらない。直径 25cm の寸胴一個で十分。
計算によればその寸胴の内容量は 7.4 リットルで、これを沸騰させて、今時の 0 度近い冷たい水で薄めて 40 度にするのであれば二倍強、15 リットルくらいの量になる。俺の洗面器 6 杯分。これだけあれば、頭を洗って体を拭くことはできるわけだ。もちろん、床屋に行ったばかりで髪が短い、というのも好条件ではあろう。
俺、砂漠で暮らせるかもしれないなぁ、と不遜なことを思った。
*5
なんで急にそんなことを思ったかと言うと、
前野ウルド浩太郎氏の『
孤独なバッタが群れるとき サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)』を読んだから。秋田市出身で、今、一部でブレイクしているバッタ博士。「ウルド」というのは、氏が研究活動をしているモーリタニア国立サバクトビバッタ研究所の所長がつけたミドルネーム。
まじめな研究報告であり、ときに小説風の筆致もあり、同時に、氏のオタク性も堪能できる良書。
と、話が風呂からバッタに行ったところで、来週に続く。