Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第604夜

役割語再び (前)



 何年かに取り上げた「役割語」。
 どうも話題を巻き起こしているらしく、『役割語研究の地平』という本が出た。最初に「役割語」という言葉を使い始めた金水敏氏の編によるもので、ほかに 9 人が論文を寄せている。
 もっかい整理すると、小説やドラマ、マンガなどの登場人物が使う、それを聞いただけで (あるいは、読んだだけで) その人がどういう人か一発でわかってしまう、特徴的な表現方法のことである。本の中の表現を借りれば、「そうなんじゃ、わしは知っとるんじゃ」と言えば、男性老人であることがすぐにわかる。しかし、実際にはそのような言葉遣いで日常生活を送っている人はいない。そういう言葉遣いを「役割語」と呼ぶ。

 この本を読んで思ったのは、至る所に「方言」が顔を出す、ということである。
 そもそも、上のように老人男性が使いそうな表現が生まれたのは、江戸に幕府ができてから数十年の頃。江戸は、従来の住人を追い出して、三河以西の人を住まわせた地域である。したがって、当初は西日本的表現が主流だが、時間がたって江戸特有の文化が立ち上がってくる。このときに、西日本的表現を使う壮年層と、関東的表現を使う若年層という対立が生まれる。老人的役割後が「〜じゃ」と西日本的特徴を持っているのはそのためである。
 という具合に、役割語と方言の関係は深い。そうなるのも当然なのだが、これはひょっとしたら、我々にとって最も身近な言語変種が「地域方言」だ、ということなのではないだろうか。

「役割語の個別性と普遍性――日英の対照を通して――(山口治彦)」では、ハリー・ポッターなど英語作品における役割語について触れている。
 英語で役割語を表現するのは非常に難しいらしい。というのは、「〜じゃ」に相当する語尾がないからである。日本語のように、既存の語尾に加えて、アニメの登場人物に多いが、「〜だココ」「〜だナツ」など新しい語尾を次々に作り出すことができるのとは事情が違う。
 それに代わって使われるのが、視覚方言である。ほら、「方言」が出てきた。
 これもに紹介したが、“because”が“'cause”と省略された後、さらに“'cuz”となる。聞こえるとおりに書いているわけだが、これには、教養の欠如を感じさせる、という決定的な短所がある。「年長の物知り」を表現する手法としては使えないのである。日本語で言うなら、漢字が書けない奴、というのに近いのではないだろうか。

「キャラ助詞が現れる環境 (定延利之)」では、「助詞」と「コピュラ」を区別している。
「コピュラ (copula)」というのは、「連結詞」とも言われるが、平たく言えば英語の be 動詞で、「だ」「である」に相当する単語を言う。“=”みたいな意味を持った語のことだ。
「助詞」、つまり「キャラ助詞」というのは本当に単なる語尾で、なくとも成立する。ここまで使った例では、「わしは御茶ノ水博士じゃ」の「じゃ」は、「わし」が「御茶ノ水博士」「である」ということを表現しておりコピュラである。一方、ミルクという名前のキャラクタが使う「危ないミル!」の「ミル」には“=”の意味がない。こっちは助詞である。
 ただし、使い手について一定のイメージを形成させる、という点で、どちらも「役割語」である。
 この論文で面白いのは、キャラ助詞は倒置文には使いにくい、ということである。
1a) そんな情けないこと、言わないでよ
1b) 言わないで、そんな情けないこと。
2a) そんな情けないことを言わないでミル
2b) 言わないでミル、そんな情けないこと。
 この組み合わせで見ると、1a, 1b はどちらも自然だが、2b は 1b や 2a に比べて不自然さが感じられる。
 筆者は、キャラ助詞は常に文末に (文節末ではなく) 来るとしているが、さらに、各地の方言の中に、文末に来る助詞が人称代名詞起源である (たとえば、「知らんわい」の「わい」) ものがある、という藤原与一氏の説を紹介、自分のキャラを説明するためのキャラ助詞が文末にくることとの関連を述べている。

「日韓対照役割語研究 (鄭惠先)」では、マンガの登場人物の絵と台詞を結びつける、という実験をしている。正解率は日本語の方が高いのだが、筆者はその原因を役割語の存在に求めている。
 また、小説やドラマなどで、原作である地域の方言が使われている台詞を、訳文でなんらかの方言を割り当てている場合について言及がある。評価語を組み合わせた SD 法で、日本の各地と韓国の各地とを対照している。東京近辺とソウル近辺は同じ傾向にあるらしいが、それ以外の地域については地理不案内のため、はぁさいですか、以上の感想をもてなかった。関西と全羅とは似ているのだそうだが、ひょっとして韓流の人は「ははぁ」とか思ったりするのだろうか。

「近代日本マンガの言語 (金水敏)」「近代日本マンガの身体 (吉村和真)」では、題材として石ノ森章太郎の「サイボーグ 009」が取り上げられている。
 これはおそらく、主役が 10 人と多く、バリエーション豊富で、であるから逆に役割語が活用されている、という事情によるものだと思われる。勿論、60 年代に始まったマンガなので、知っている人も多いだろうし。
 ギルモア博士、中国の料理人だった 006、アフリカの奴隷だった 008 がその点ではわかりやすい「役割語」を使っている。
 一方で最も没個性なのが 009 だが、これには、「声質から見た声のステレオタイプ (勅使河原三保子)」という論文が想起される。この論文は、日本のアニメーションの台詞をぶつ切りにして意味がわからないようにした上で聞かせて印象を問う、という実験の報告だが、善玉の登場人物の声は、典型的で一般化しやすい、とある。この二つには接点がある様な気がする。
 なお、008 の造作 (デザイン) については、人種差別的である、ということから、2001 年版ではキャラ デザインが変更されている。
 言葉と関係ないじゃん、と思われるかもしれないが、これは「ステロタイプ」の問題なのである。
「秋田弁の人って誠実そう」「京都弁ってやさしい」のうちはいいが、「東京弁は冷たい」「大阪弁って怖い」あたりから危なくなってくる。その線上に、008 の問題はあるのだ、ということを意識しなければならない。

 という辺りで一回分の量。つづきは来週。



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