たとえば、「そうしてあげてもよくってよ」という台詞を聞けば、話し手がどういう人物であるかの見当がつく。しかし、我々がそういう発話をする人に出くわすことはない (はずだ)。
『
ヴァーチャル日本語 役割語の謎』という本で、著者の金水 敏氏は、こういう語を「役割語」と名付けている。
最初に取り上げられているのは「博士語」。「アトム、無理をしてはいかん」「あいつを追いかけるんじゃ」のような言葉遣いである。本の中でも、「鉄腕アトム」が取り上げられていた。
「アトム」は 50 年代だが、これを更にさかのぼる。江戸時代まで。
博士語の特徴は、西日本方言に似た特徴を持っていることである。本では、「どうじゃ」「寒くなったの」という『浮世風呂』の例を挙げている。
一方、江戸の言葉はどういう特徴をもっているか。
前にも書いたが、江戸は、旧来の住民を追い出して、そこに三河以西の住人を移住させてできた街である。首都が依然として京都だということもあり、西日本的表現が支配的だった。
だが、やがて江戸には江戸自身の文化が産まれ定着していく。
この瞬間、年長者が西日本的表現を使い、若年者が東日本的表現を使う、という図式が産まれる。これは、「〜じゃ」と言うお茶の水博士と、標準語を使うアトム、という図式に合致する。
つまり、「博士語」というのは西日本方言に似た言葉なのではなく、実際に西日本方言を源流とする表現だったのである。これには驚いた。
さて、方言と言えば、擬似方言である。ドラマ方言とかいう言い方もある。「どこでもいいから田舎だと言うことがわかればいい」というときに使われる方言。
木下順二の『
夕鶴』が取り上げられている。木下順二自身が、色んなところの表現を引っ張ってきた、と述懐しているらしい。
肝は、「どこでもいいから田舎だと言うことがわかればいい」にある。ステロタイプというやつである。
つまり、金水氏の表現を借りれば、登場人物をきちんと描かずに、その人がどういう人であるかを示したいときに、この役割語は有効である。
逆に言えば、「金に汚い人」を描こうと思ったら大阪弁にしておけばよい。ヤクザ者を描きたかったら広島弁にすればよい。スケバン刑事を描きたかったら徳島――すまん、飛ばし過ぎた。
そういう姿勢の現れだ。
娯楽作品の登場人物の話であるうちはいい。だが、我々は実生活にこれをもちこんではいないか。
「秋田からいらしたんですか。お酒、強いんでしょうねぇ」
「東北出身のため粘り強い性格で」
これは、(初対面ならやむを得ないとも言えるが) 相手を見ていない。非常に失礼な話である。
血液型、星座、都道府県…こういう本はコンスタントに売れる。「名門校神話」は未だになくならない。みな、手を抜きたくてしょうがないらしい。
*1
前は、大阪に暴力的なイメージが無かった、というのも意外。70 年代以降の話だそうだ。
江戸時代は「ケチ」、60 年代に「お笑い」「ド根性」、80 年代には「お笑い」の地位が上がり、昨今は積極的なプラスイメージが付加されているという。筆者は、KinKi Kids を挙げているが。
本筋から逸れた観点で気に入ったのは、「日本語を話すアメリカ インディアンはいない」というの。そりゃそうだ。ある意味、「ヴァーチャル日本語」の本領発揮、か?
ちょっと前の話だが、「
お腸婦人」という飲み物が出た。パチモン (これも大阪弁だが) ではなく、
ダイドーがきちんと版権を取って『エースをねらえ!』の「お蝶婦人」を前面に出している。整腸系で、何種類かあるらしく、ボトルには「お飲みなさい。お腹のために」「お腹にはプルーン。覚えてらして」なんて書いてある。
それはそれでいいし、俺も一通りは読んで TV や映画も見た口、だからこそコンビニで足を止めるんだが、最近、こういうの多すぎると思うのである。巨大
キョロちゃん、
アミノンジャーとかいうのもあるし。
手、抜いてないか? クリエイター達。
それとも、クリエイティビティは既に全国レベルで枯渇したのか?