間が悪いというか何というか、東日本放送の「
週刊ことばマガジン」を取り上げたのは
3 週間前のことだが、その直後に、年末スペシャルと言うことで 2 週にわたって「気づかない方言」の特集をしていた。
「気づかない方言」は俺も割と関心を持っている現象なので、無視するのももったいない、ということで、間隔は短いが、もう一遍、「ことマガ」に頼って書いてみる。
前編では「
ゴミを投げる」と「
手袋をはく」。
どちらも、「気づかない方言」の横綱である。
俺もここで何度か取り上げている。いや、久しぶりに
初期の文章を読んだら、秋田弁礼賛で恥ずかしくなってしまった。
勿論、常識的な線での解釈を試みれば、他の地域の人でも意味は理解できると思うのだが、やはり、すぐにわかる、というわけにはいかない。「気づかない方言」の特徴、「形は同じだが意味が違う」という点が邪魔をする。
そういう点ではやはり、言葉というのは形が重要なのかな、と思う。
「
ゴミを投げる」というのがおかしいとは言うが、ちょっと難しい表現を探してみると「投棄」という言葉もあるし、英語でも「捨てる」は“throw away”で、考え方としては普遍性がある。
さらに、「勝負」や「決着」について、イヤになってやめてしまう、というのを「投げる」と言うが、これは「捨てる」と置換が可能で、やっぱり非常に近いものだということもわかる。
それでも、ゴミを投げない言語圏の人にとっては、いきなり「
ゴミ投げて」と言われると面食らわざるをえないわけだ。
「
手袋をはく」はちょっと別の側面が。
動作は同じである。体の先端を、袋状に閉鎖された物体の中に突っ込む、という点で、手袋も靴下も同じことをする。
だが、「はく」は「履く」と書き、「履」はもともと靴のことである。読みと漢字の対応自体はどっちが先かを検討する必要があるだろうが、そのことを記憶している我々は、足に使う言葉を手に適用するのには違和感を覚えざるを得ない。
*1
だが、漢和辞典でもっとつっこんで行くと、「佩く」「穿く」という字もある。これは、「身に着ける」「着る」という意味で、対象は刀だったりやはりズボンの類だったりはするが、字面やあんまり使われない字であることからやや手袋に近いといえば近い。しかし、ここまで行くと学術的過ぎて、一般生活からは離れてしまう。
形が重要という点で、あるいは、「正しい日本語」教にはほんのちょっとごくわずか微量ではあるが理があるのかもしれないという気がしないこともないことを認めるのにやぶさかではないような感じ?かも。
後編は、完成させるという意味の「
でかす」、教室で先生に指名されるという意味の「
かける」「
かけられる」。秋田と新潟。
「
でかす」はやはり
前に取り上げている。「できる」の変形だと思えば無理はないが、時代劇に「でかした!」があるくらいで、現代語としてはチト辛い。
「
かける」の方ははじめて聞いた。ググってみたら、だって先生が使ってるんだもん、というような意見を見つけた。番組でも、学校で使われる方言は、学校という権威を持った組織、授業というやや改まった場面で使われるため、方言と認識されないことが多い、と言っていた。
「
かける」については、おそらく授業中しか使われない、という閉鎖性もあるような気がする。誰かが誰かを指名して発言を要求する、という現象は、特に児童・生徒の場合、授業中にしか起こりえないような気がする (児童会というのはあるかもしれないがこれだって学校である)。
*2
学校つながりで、いわゆる「藁半紙」もとりあげられていた。
方言に行く前に薀蓄。
「藁半紙」は、「藁を漉き込んで作った半紙」のことで、今はほとんど作られていないのだそうだ。我々が「藁半紙」と呼んでいるのは「更紙 (ざらがみ)」と呼ぶのが正しい。
*3
で、福島ではこのいわゆる「藁半紙」を「
ざらばんし」と呼ぶ。
更に言えば、「ざらばんし」は「更紙を半紙の大きさに裁断したもの」という公式な使い方があるのだが、福島の「
ざらばんし」は大きさに関係なく使われる。
最後、これも初耳の「
ノームサイ」。
トランプのページワンで上がる時に言う。番組では仙台ないし福島といっているが、ちょっとググったら関西でも使ってる、というような話もありちと微妙な気配。
音で見当がつくとおり、これは“No Side”で、試合終了の宣言。「
ノーサイ」という形もあるらしいが、コチラの方が原語に近い。
*4
前回、本にしたら、というようなことを書いたが、このときの後編はいつもの倍、30 分の拡大放送だった。やっぱり、結構、支持されてるんだろうね。
今後の活躍に期待しております。