Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第391夜

なまりなつかし



 例によってバタバタと東京に行ってきた。
 ちょっとスケジュールが狂ったりもしたが、バタバタになったのは、主に、飛行機の時間が早くなっていたことによる。ANA の秋田行き 3 便が 16:25 ということは、都心にいられるのはがんばって 15 時。これは結構、辛い。かと言って、帰宅が 10 時になる最終便を使うのもちょっと。
 鋏とナイフを含むカード型ツールがゲートでひっかかる、という話はしたが、面倒なので今回は荷物を預けてしまった。手には PC とシステム手帳だけ。
 そこまで考えておきながら、係員には搭乗券の代わりに領収書見せるし (同じ大きさなんだよ)、システム手帳にはナルビーが入ったままでひっかかるし、と結局、ご迷惑者になってしまった。
 そのカッターはずっと入っているもので、前にカード型ツールがひっかかった時は、そのツールだけを外せば通れた。機械の性能も色々と調整を繰り返しているのだろうか。
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
 は、石川啄木の歌である。
 あまり「停車場」を利用しない生活になっているので、実感することは少なくなったが、空港は「なまり」の宝庫である。上野駅と違って、東北弁のみ、ということはなく、秋田行きの隣が鹿児島行きだと、秋田弁の群れと鹿児島弁の群れが隣り合い、うわーんと唸っているという感じすらある。
 空港では乗客が起こすトラブルが多いような気がする。システムがバスや鉄道に比べて複雑だからかもしれない。大概の場合、客の方が悪いんだと思うのだが、怒り出すのは当の客の方。くってかかってるのをたまに見るが、本人は標準語でしゃべってるつもりなんだけども、どうしても隠し様のない「なまり」でまくしたてる全国の田舎者を相手にする職員には頭が下がる。
 興奮に拍車をかけるのが酒で、国内線とそのためのロビーでは禁酒にするべきではないかと思うくらいだ。

 ちょっと気になって調べてみた。「停車場」と「停留場」って違うのか。
 違うらしい。レールファンにある鉄道ジャーナルエッセイによれば、法律で定義されている言葉で、「停車場」は駅や操車場を含む概念なんだそうだ。「停留場」の方は、ある種の信号設備のない、規模の小さなところを言うらしい。バスに乗降するところを「停車場」ではなく「停留場 (所)」というのは、その辺に関係があるのかもしれない。
 術語を別として、一般的な使い方としては、「停車場」は死語である。普通は「駅」という。
「駅」の方は「馬」であることから想像がつく通り、古い言葉だ。これが鉄道の用語に転用されたことになる。「停車場」とどっちが先に使われたんだろう。

「駅」のことを「ステンショ」と読んでいた時代がある。言うまでもなく、これは“station”なわけだが、鉄道がまぎれもなく「外国の産物」だった時代、ということだ。
 これで連想されるのが、駅で手荷物を預ける「チッキ」だ。“ticket”で、死語だとばかり思っていたが、ネットで検索してみると、意外に使われている。かぎカッコも「(笑)」もない。数えたわけではないが、海外旅行の手引きや体験記が多いような気がする。*1

 ホテルをチェックアウトするとき、エレベータで一緒になった老婦人たちが、東北方言だった。秋田弁だったような気がするんだが、ちょっと断定できない。
「秋田からですか?」とか聞いてみてもよかったんだが、そういうことを嫌う人もいるので、やめておいた。
 そう言えば、ホテルってのも、田舎者の宝庫である。地元の人、つまり東京在住の人が泊まるわけがない。ないこともないだろうが、多数派にはなりえない。
 ところが、意外に方言を耳にすることができない。「ホテルだ」ということで構えているのか、フロントの人たちの丁寧な応対に引きずられるのかはわからない。

 いつどこで読んだか忘れたが、家に帰るなりパソコンの電源を入れて、掲示板にいりびたる感覚と重ねている文章があった。
 まさに、これを歌ったときの石川啄木のように、癒しが欲しい、と感じられるとき、自分が生まれた場所、かつて育った場所に心が飛ぶ、ということはあるだろう。その中の大事な要素の一つとして方言がある、ということだ。
 尤も、掲示板ってかなりささくれ立った場所だから、そこが本当に癒しの場なのかなぁ、という気はする。
「尤も」を重ねると、ちょっとした待ち合わせをすると、俺以外の全員がうつむいている、つまり、ケータイを覗き込んでいる、ということに気づいて背筋が寒くなることがある。そういう感覚の人たちにとっては、バトルも癒しなのかもしれないなぁ。*2

 啄木は、「なまり」を聞けたのだろうか。
 もしそれが、自分が慣れ親しんだ「なまり」とは違っていたら、どういう気持ちになっただろう。
 寂しさが増したとしても、それはしょうがない。方言を使う場所を離れてしまったのは本人だから。
 方言のあり方は、それを使っている人に、優先的に委ねられるべきだろう。
「なつかしい」という言葉は、残念ながら、距離の存在を前提にしているのだ。




*1
 個人が鉄道で物を運んでもらう、というのは完全になくなったわけではない。新幹線を使った「レール ゴー」というのがある。
 荷物は自分で持っていって、受け取る方は取りに行かなければならない、扱う駅が限られている、という不便さはあるが、「今日中に東京に届けたい」という場合は役に立つ。最近は、これを使って、集荷と配達をする業者もあるようだ。
 もちろん、航空貨物を個人で使うこともできる。(
)

*2
 こないだ、高校生のカップルが自転車を二人乗りしていて、運転している方の男がケータイを覗きこんでいる、というのを目撃した。
 男は選んだ方がいいぞ。ま、どっちもどっちだけどな。(
)





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